4.そもそもその嘘には無理がある。

 先生とカウンセリングルームで話した、その翌日。俺の部屋に遊びにきていたキルが、机の上にあった一枚の紙に気づいた。


「フクロウの仮装パーティの日、私の誕生日と一緒なんだよな」


 ラルが置いていった、例の仮装パーティの文書である。キルは床に腹ばいになって、その書面を眺めていた。


「たまたま、フクロウの創立記念日と私の誕生日が同じだから、毎年私のために盛大に祝われてる気分になるんだよな。ま、かったりーから一回参加して以来もうやめてるけど」


「へえ、意外。おいしいものが出るって聞いたから、喜んで参加してると思った」


 机で宿題を進めつつ、おざなりに返事をする。下からキルの声が返ってきた。


「まあ、おいしかったよ? おいしかったんだけど、もう行きたくない。ラルみたいのは、大喜びで行くだろうけどな。私向きの現場じゃない」


 大人数でパーティは、苦手なのだろうか。キルにそんなイメージはないので、意外だった。それはさておき、もうひとつ引っかかっていることがある。


「で、そのパーティの日がキルの誕生日なのか。そういやキルの誕生日、知らないな」


「うん、私も知らん」


「え、今、創立記念日と同じ日って自分で言ったじゃん」


 宿題から顔を上げてキルを見下ろすと、キルはへへっと苦笑した。


「すまんすまん、創立記念日と同じなのは、私が暗殺者になった日なんだ。自分という肉体の生まれた日は忘れちゃったから、便宜上、暗殺者『生島キル』の生まれた日を誕生日にしてるんだ」


「あ、そういう……」


「私が暗殺者になった日は、ミスター右崎が私を見つけてくれた日だからな。私の本当の誕生日よりずっと価値がある。特別な日だ」


 キルの出自に関しては、詳しく聞いたことがない。思えば「生島キル」という名前だって、仕事をするうえでのコードネームだ。本名ではない。


 彼女の過去について聞いているのは、うっかり人を殺してしまったときにたまたま右崎、すなわち俺の親父に見つかり、暗殺者になればその殺人を正当化できると唆され、暗殺者になった……というくだりが最古だ。そうなる前までのキル、キルという名前になる前の彼女については、なにも知らない。聞こうと思ったこともない。


 キルの手元の書面が、俺の角度からも少し見て取れる。そこに書かれた日付に、俺はつい、あ、と声を洩らした。


「パーティの日、俺の誕生日と一緒だ」


「はあ? 私の誕生日だぞ、真似すんな」


 キルが変なキレ方をしてきたが、俺は取り合わなかった。


「へえ、フクロウの創立記念日と同じなの、なんか嫌だな。親父もばあちゃんも、母さんも、喜んでそうだけど……」


「嘘だろ、マジなのか?」


 キルがむくっと体を起こす。


「じゃ、フクロウの創立記念日イコール私が暗殺者になった記念すべき日、イコール、サクの誕生日?」


「そうだな」


「マジか! すっげー!」


 ぴょこんと飛び起きたと思うと、キルは俺の座る椅子に駆け寄ってきた。


「お祝いが三つも重なるなんて、こんな日そうそうないぞ! どうする!?」


「どうするって、なにを? どう祝うかってこと?」


 フクロウの創立記念日はどうでもいいし、自分の誕生日を自分で祝うのは変な感じがする。でも、キルの誕生日――正確には誕生日ではないが、彼女の特別な日らしいので、いつもどおりというのも、味気ない気もする。俺はもはや読んでもいない問題集に、肘を置いた。


「そうだなあ……ケーキでも焼いてみようかな」


「なっ!?」


 キルが背筋をぴんと伸ばす。シャープペンをくるくる回して、俺は虚空を見上げる。


「料理はいろいろ作ってきたけど、なんやかんやケーキはまだ焼いたことないんだよな。食べるにしても、商店街の店で買ってきてた。うん、いいな。ケーキ、作ってみたい」


 口にしながら、だんだん楽しみになってきた。

 キルが目を見開いて固まっている。やがてぷるぷる震えはじめて、膝から崩れ落ちた。


「危ねえ。本気でサクに惚れるところだった」


「困るよ。ケーキくらいもうちょっと気軽に焼かせてくれ」


 初めての彼女が暗殺者というのは、ちょっと考えさせてほしい。キルはまだ、床でも悶絶していた。


「すまん、私はラルみたいに色っぽくないし、美月みたいにいい子でもない。でもサクの作る料理は、誰よりも好きな自信があるんだ」


「それ俺じゃなくて料理が好きなんじゃねえか。まあ、変に好かれるよりそっちの方が嬉しいけど」


 キルは床に膝をついたまま、椅子にしがみついてきた。


「本当に本当に、作ってくれるのか?」


「ホールで一台作るとして、全部お前のじゃないからな?」


 それでもキルは、目をきらきらさせていた。


「最高の日になってしまうな……」


「そんなに期待するなよ。初めて作るから、失敗するかもしれないぞ」


 ハードルが上がりすぎてもいけない。少しキルに落ち着いてもらいたいのだが、もう彼女は聞く耳を持たなかった。


「やったぞー! フクロウ創立記念日で私の誕生日でサクの誕生日、サクが初めてケーキを作る記念日にもなるぞー!」


 当日までに何度か作って練習するつもりだから、「初めて」ではなくなる予定だが、キルがかなり喜んでいるので水を差すのはやめておいた。


 *


 次の土曜日、俺はまた陸の部屋に遊びに来ていた。


「咲夜もキルも生きてるってことは、古賀先生、なにも仕掛けてこないんだな」


 陸が部屋の真ん中に置いたローテーブルに、宿題のプリントを広げている。

 あれから数日経っているが、古賀先生に動きはない。学校でも殆ど会わないし、本当に俺を殺す気はあるのかと疑ってしまうほどだ。キルからもなんの報告もないから、彼女も会っていないのだろう。

 陸も、相変わらずだ。一瞬はこいつが先生側のスパイではないか、なんて疑ったりもしたが、そんな様子は全くない。


「なんでだろう。お前らを殺さずに泳がせておくメリットでもあるのかな」


「俺については、先生が必要としてる情報を握ってる可能性があるとかで、まだ生かしておきたいって言われてる。キルの方は……どうしてだろう。下手に近づくと反撃されるから、機会を窺ってるのかな」


 かつてのキルもそうだった。日原さんを殺すのが容易でないと分かると、充電期間に入った。失敗するたびに、作戦を練り直すための間があるのだ。


「じゃ、今のうちに打てる対策考えておこうぜ」


 陸はプリントを裏返し、白い面に落書きを始めた。


「まず、暗殺者は人目につくところでは殺人はしないんだよな。だとしたらひとりで行動しないのが大前提だな。夜道は特に気をつけろ。で、万が一のことがある前に、咲夜はおじさんの情報を盾に取って交渉するんだ。殺させないのが第一だからな」


 見慣れた陸の筆跡で、対策が箇条書きされていく。


「続いて、キルVS美月ちゃん問題。キルは美月ちゃんを殺すために、次はどう動くかな」


「あいつ、今は古賀先生を警戒してて、あんまり日原さん追いかけてないな。自分が動くと俺に危害が及ぶのを分かってるのかも」


 先週の映画以来、キルに大きな動きはない。


「もしくは、それよりケーキで頭がいっぱいなだけ……」


「ケーキ?」


「うん。誕生日、というか、記念日にケーキ焼いてやるって言ったら、想像以上にはしゃいでる」


 ケーキ作り宣言をしたからというもの、キルの機嫌がすこぶる良い。俺が学校の図書室から借りてきたケーキのレシピ本を見ていようものなら、愛しいものでも眺めるかのようにニヤニヤしてこちらを見つめてくる。おかげさまで、こそばゆい視線が気になってレシピ本に集中できない。

 それはさておき、俺は陸のプリント裏に改めて目を向けた。


「キルがなにか行動を起こすとしたら、直に日原さんじゃなく、陸の方に行くと思う」


「俺に?」


「あいつ、海で話してたスイリベール王朝SPの話まだ信じてるんだよ。陸が日原さんを狙っている同業者で、且つ、キルの邪魔をしていると見てる。スイリベール王朝と日原さんの関係を調べるとともに、陸を自分の仲間にして協力体制を取ろうとしてるんだ」


 俺がそう説明しても、陸はしばらくぴんとこないようだった。自分がスイリベール王朝SPという設定で遊んだのは、彼の中ではそのとき限りの設定のつもりだったから、覚えていなくても仕方ない。陸がぼんやり思い出すのを待ってから、俺は続けた。


「陸陥落のための駒は、ラルだ」


 ラルは最初は、秘密を抱いた儚げな少女の演技で、陸に揺さぶりをかけようとしていた。

 しかし陸がスイリベール王朝SPだと分かると、演技は通用しないと踏んで、普段のキャラのままで陸にすり寄るようになった。だがその後なんの報告もないところを見ると。どちらにせよ成果を上げられていないみたいだ。陸はノリは軽いが、硬派というか、奥手である。


「この頃どう? あいつ来てる?」


 聞いてみると、陸は小首を傾げて言った。


「時々、店に来るよ。普通に惣菜買いに来る。で、俺を見かけると話しかけてくれるけど、俺からなにか聞き出そうとしてる感じはないよ」


「油断するなよ。自然体を装って自己を開示して、相手の信頼を得ようとする作戦かもしれない」


 俺が慎重に声を潜めるも、陸は笑っていて緊張感はない。


「もうちょっと信頼してやれよ」


「できるか! いつの間にか部屋に侵入してるような奴だぞ! ともかく、キルは自由に動きづらい分、陸と協力する方に注力すると思われる。陸も、自分が当事者である自覚を持つように」


「はいよ」


 のんびりした返事はやはり緊張感に欠ける。でもこいつとこうしてしっかり会議ができるようになったのは、ありがたかった。


「ところでさあ、なんで古賀先生……というか、敵対勢力の奴らは、咲夜を殺そうとするんだろうな?」


 陸が雑談みたいな言い方で振ってくる。


「もし俺が無常組の立場だったら、咲夜を誘拐するよ」


 軽い口調のままさらっと言われて、耳を疑った。陸はプリント裏に走り書きしながら続ける。


「だって整理してみ。奴らにとって、キル殺害の理由は日原美月暗殺を邪魔することで、咲夜殺害の理由はキルの妨害、あとミスター右崎をおびき寄せることなわけじゃん。キルはともかく、咲夜に関してはむしろ殺さず、取引の材料にした方が効率的じゃね?」


 陸のペン先がプリント裏に「無常組」と書いて丸で囲み、矢印を引き、その先にキルと親父の似顔絵を描いて「脅迫」と書き込む。


「ほんで、誘拐した咲夜を拷問にかけて、キルや右崎の情報を吐かせる。その様相をキルと右崎に見せて、助けたければ美月ちゃん暗殺、及び政治献金問題から手を引け、右崎は死ねとでも脅せば、飼い主に甘えん坊なキルと子煩悩な右崎は条件を呑んでしまうというわけ」


「た、たしかに!」


 おののく俺をちらっと見上げ、陸は緩んだ笑みで言った。


「そっか、善良な咲夜にはこんなの思い至りもしないか。俺はそういうサスペンスとかミステリーとかの漫画読んでるから思いついたけど。あ、すっげー面白いぞ、貸そうか?」


「あ、今はいいかな……」


 こんなに恐ろしい仮定を挙げておきながら、陸はマイペースである。


「相手も相手だし、一般人の少年ひとり拉致するくらいわけないんじゃねえの」


 そうだ。俺は日原さんみたいに警護が固いわけでもないから、ひとりで歩いていればすぐに囲まれて連れ去られる、なんてこともありうる。陸がさらに、プリントに落書きする。


「でさ、ミスター右崎の長男が何者かに拉致され、フクロウの機密情報を外部組織に売った……みたいな、右崎の信用を揺らがすようなデマを流すとか。その時点で右崎が死んでいれば右崎派は混乱! 実際に裏を取ったら咲夜はいなくなってるし、信憑性が高い。キルも立場を失う。そんな筋書き……俺が無常組の構成員ならそうする」


「怖……」


 やっと搾り出した俺の声は、掠れて声になっていなかった。


「だとしたら、これまで俺もキルも無事だったのは、拉致実行日に向けた身辺調査中だったのかな。絶好の機会をはかるために様子を見てたとか」


「あ、そうかも。番犬代わりになるキルが近くにいるとやりづらいだろうし、下手に騒ぎにならないように、慎重にやるはずだもんな」


 ここ数日は、古賀先生の攻撃を警戒し、なるべく人目のある場所を歩き、ひとりにならないように意識していた。だから手を出されなかっただけで、常にどこかから見張られていても、不思議ではない。俺はしばし固まったのち、おずおずと尋ねた。


「えっと……それは、俺、どうしたらいいんだろう」


「ん? 分からん。気をつけてね、としか」


 陸はあっさり俺を突き放した。


「あくまで仮説だから! 俺だったらそうするっていう仮説だから、無常組がこんなこと考えてるとは限らない。実際どうかは俺にもなんも分からんし、これが現実になったとしても、せいぜい誘拐されないように夜道気をつけるくらいしかできねえだろ」


「それもそうだな。相手がフクロウの仕事に関係してるなら、警察も助けてくれないし」


 完全に巻き込み事故である。俺は日原さんを殺そうとしていないし、親父の息子というだけで悪いことはひとつもしていない。

 項垂れる俺を眺め、陸はぽんと、俺の肩を叩いた。


「怖がらせてごめんな。明日から一緒に登下校しようぜ。なんか変な奴がこっち見てたら、俺がぶっとばしてやる」


「陸……お前、本当にいい奴だな」


「ド善人の親友歴、十六年だからな」


 陸はプリントを表に返して、宿題の問題を読みはじめた。俺も、やりかけの問題に、シャープペンの先をつける。と、ふいに、陸が言った。


「まひるも、おばあちゃんも、だな」


 陸の声に、俺はぴたっと、肩が強ばった。陸が続ける。


「拉致されて拷問の可能性があるの、咲夜だけじゃないな。むしろそれなりに馬力がある育ち盛り男子の咲夜より、小さくて力の弱いまひるとおばあちゃんの方が、誘拐するにはうってつけだ。特にまひる、ぽやぽやしてて隙が多いし」


 その可能性に、気づいた途端、背筋が寒くなった。キルと親父の仕事について知っているかどうかとか、そういう差はあれど、同じ家族であるまひるとばあちゃんも、危険に晒されるのだ。ばあちゃんは事情を理解しているからある程度自衛してくれるが、まひるは、まだなにも知らない。

 まひるには日頃から、知らない人についていかないように言っているし、あの子が出歩くのは小学校から家までの間の、明るくて人の多い道だけだ。でも、絶対大丈夫とは言い切れない。

 言葉を失う俺に気づき、陸が流石に慌てた。


「あ、ご、ごめん! 咲夜にとっていちばん怖いこと言った。ごめん、デリカシーなくて」


「いや……陸の言うとおりだ」


 むしろ、気づかせてくれて良かった。


「防犯ブザー、五百個くらい買えば足りるかな……」


「冷静さを欠いている……!? ごめんて、これも仮説だから!」


 陸が半ば焦りながら、笑って宥める。俺は一旦深呼吸して、気持ちを切り替えた。


「そうだよな、まだ仮説だ。まひるとばあちゃんにも気をつけるように、対策は考えておこう」


 自分にも家族にも、せいぜい「気をつける」しかできない。改めて宿題に取り掛かったが、全然集中できなかった。


 *


 陸の家からは午前中だけで引き上げた。帰りにスーパーへ寄って、買い出しをする。昼食は陸のところの惣菜屋で買って、夕飯には餃子でも焼こうかと思う。

 餃子の材料をカゴに入れ、ついでにケーキの材料の下見もして、店をあとにする。家に帰り着くなり、俺は大声で家族を呼んだ。


「ただいま! ごはんだぞ」


「はーい」


 まひるの返事があって、キルも階段を下りてくる。ダイニングでは、ばあちゃんが支度を始めていた。家族が揃い、買ってきた惣菜を並べて。昼食が始まる。と、俺はふと、違和感を覚えた。

 やけに、会話が少ない。

 普段なら、料理を食べるごとにリアクションするキル、俺とばあちゃんに今日の出来事を報告するまひるで、食卓は賑やかになる。が、今日はそのふたりとも、妙に静かだ。あまりにもしんとしているので、俺から声を発してみる。


「まひる、醤油、届く?」


「うん、ありがと」


 まひるが短く返す。会話が終わってしまい、今度はキルに振る。


「キルは?」


「あー、わり。貸して」


 ふたりとも、普通に返事をする。俺に対する態度もぎこちなくはないのだが、やはりどこか、空気がぴりついている。ばあちゃんはなにか知っているのか、うっすらと微笑みながら、キルとまひるを眺めている。

 俺がいない間に、なにかあったようだ。

 妙に静かな食卓が終わると、キルとまひるは気まずそうにダイニングを出て、すぐに部屋に戻ってしまった。残った俺とばあちゃんが、後片付けをはじめる。俺はすぐさま、ばあちゃんに尋ねた。


「あのふたり、なにがあった?」


「喧嘩してるのよ。珍しいでしょう?」


 ばあちゃんがすんなり答える。俺はつい、大きめの声が出た。


「珍しい! キルはまひる大好きだし、まひるはあんまり怒らない性格だし。喧嘩なんてするんだ」


「そうよねえ。なんでも、キルちゃんがまひるを怒らせたみたいよ。キルちゃんは謝りたくても、まひるが部屋に閉じこもっちゃって顔を合わせてくれなかったみたい。で、咲夜が帰ってきて、まひるがようやく出てきた。けど、キルちゃんはどう話しかけようか戸惑ってるし、まひるも意地を張ってる、ってところかしら」


 ばあちゃんの説明を聞いて、余計に驚いた。キルの奴、なにをしたらそんなにまひるに怒られるのか。

 とはいえ俺も、わりと直近でまひるを怒らせている。まひるの日々の小さな不満がチリツモしていた上で、俺が約束を破ってしまったのが原因だ。まひるは穏やかな子だが、その分、感情を内側に押し込めてしまい、のちのち爆発させてしまうのだろう。普段は無邪気で甘えん坊なまひるが怒ると、行動を予測できなくて、なかなか苦戦した。

 今回はその地雷を、キルが踏んだといったところか。俺は両者の話を聞こうと、片付けを終え次第、階段を上った。

 まず、両親の部屋を間借りしているキルの元へ向かう。ドアの外から、中に向かって話しかける。


「キル、ばあちゃんから聞いたぞ」


「サクには関係ない。これは私とまひるの問題だ」


 キルの声が返ってくる。俺はドアに寄りかかった。


「関係あるだろ。お前らがそんなだと、俺もばあちゃんも居心地悪い」


「だってまひる、話、聞いてくれないし……いや、わりいわりい。すぐに方をつける」


 キルはこの調子なので、俺は次にまひるの部屋のドアを叩いた。


「まひる、いつまで怒ってんの?」


「怒ってない」


 怒っている声で返ってくる。これはまた夕飯時まで出てこない。長引きそうだ。

 一旦キッチンに戻って、夕飯の餃子の準備を始めた。餡に使う肉と野菜の下ごしらえをし、ボウルにぶち込む。

 キルとまひるはいつまでああしているのだろう。夕飯までには落ち着くのだろうか。いや、昼に顔を合わせているのに、お互いに会話をしていなかった。意地を張ってキルの謝罪を聞いてくれないまひると、聞いてもらえないから声をかけるのもやめたキルという構図だ。このままだと、折角餃子を焼いてもまたあの気まずい空気になる。餡を捏ねつつ、そんなことを考える。

 様子を見ていたばあちゃんが、俺にふんわり話しかけてきた。


「ねえ咲夜、覚えてる? あなたがまだ小学校に上がりたての頃、お父さんと喧嘩した日のこと」


「親父? 喧嘩……親父相手にはしょっちゅう腹立ててるから、どれのことか……」


 困惑する俺に、ばあちゃんがくすっと笑う。


「そうね、あれもいつもどおり、暁吾さんが咲夜にちょっかい出して咲夜が怒って、口をきいてくれなくなった。でも普段よりちょっと長引いていて、見かねた明子……お母さんが、仲裁に入ったのよ」


 ばあちゃんの思い出話を聞いていると、気づかないうちに、餡を練る手が止まっていた。もう亡くなった母さんが、まだここにいた頃。幼かった俺は、母さんを困らせていた。ばあちゃんが懐かしそうに話す。


「あなたたち性格が離れすぎてて、話し合わせても会話にならないから、お母さんも苦笑いでね。そこで役に立ったのが、その日のお夕飯」


「……好物で機嫌を取った、とか?」


「ううん。一緒に作ったのよ。私も含めてね」


 それを聞いた途端、俺の中でとっくに遠のいていたひとつの記憶が、急に発掘された。


 その日の夕飯はエビフライ。しかし母さんはまだ小さかったまひるを抱っこしていて、衣をつけるのが大変だった。だから、俺と親父、ばあちゃんを呼び寄せ、衣のつけ方をレクチャーした。

 俺はばあちゃんの上手な手つきを見てすぐに習得したが、料理に興味がない親父はすごく下手だった。母さんは俺を褒め、「咲夜、お父さんにやり方教えてあげて」と促して、上手いこと俺と親父を接触させた。親父に「上手だな」とべたべたされて余計に腹が立ったが、でも、母さんが俺に気を使ったのも分かったから、それ以降はもう俺が大人になってやった。


 ばあちゃんにそんな懐かしい話をされて、俺は小さくため息をついた。手元には、充分に捏ねた餃子の餡がある。お節介は承知だが、これは俺の居心地の問題でもある。餡の入ったボウルを置いて、階段の下まで行く。


「キル、まひる!」


 ふたり合わせて、同時に呼んだ。


「今から餃子を作る。キルがめちゃくちゃ食べるのを想定して、皮をたくさん買ってきたが、俺ひとりで包むのには時間がかかる。よって、これより協力を要請する」


 ふたりの返事はない。俺はしつこく、もうひと押しした。


「まひるは包むの上手くて速いから、主戦力。キルは……どれだけできるか知らないけど、お前がいちばん食うのは間違いないから手伝え」


 やがて、ふたつのドアが開く音がして、小さな影がふたつ、階段を下りてきた。

 それからダイニングの椅子、四つとも埋めて、餃子包み選手権が始まった。餃子の皮にスプーン一杯分の餡を載せ、醤油皿に張った水で指を濡らして、餡がはみ出ないように皮を閉じる。包み終えたら大きめの皿に詰めて並べていく。これを四人体制で、ひたすら繰り返す。


 俺は慣れのおかげで、ほどほどのスピードを出せるが、スピード重視の分、出来上がりが少しいびつになる。逆にばあちゃんは動作がゆっくりだが、すごくきれいに仕上げる。

 キルは詰める餡の量の加減が分かっていないし、皮を破くし、もたつく。多分、初めてなのだ。

 一方まひるは、職人技である。素早さと仕上がりの美しさを兼ね揃え、次々と成形していく。この子は以前から餃子包みが上手で、餃子を焼くときはいつも手伝ってもらっている。俺はわざとらしく、まひるを煽てた。


「兄ちゃんそんなにきれいにできないから、まひるがいてくれて助かるよ」


「えへへ、お兄ちゃんが教えてくれたからだよ」


 まひるが照れ笑いする。俺はちらっとキルを窺い見て、再びまひるに言った。


「キルが上手くできないみたいだから、コツを教えてあげてくれないか?」


 一瞬、まひるとキル両方が、気まずい顔をした。しかしまひるはあまりに不器用なキルを見ると、ぷっと噴き出した。


「餡、多すぎだよ」


「え、そうなのか? いっぱい入ってた方が肉厚でおいしいかと……」


「お肉いっぱいでもおいしいけど、皮のぱりぱり部分がたくさんあるのもおいしいでしょ? 餡はその半分くらいでいいんだよ」


 まひるがキルの手元をチェックし、キルがまひるの技を観察する。餃子を介して会話が生まれたふたりを見て、俺はぱっと、ばあちゃんの方に顔を向けた。ばあちゃんも、満足げにこちらを見つめている。

 俺はわざと、ひとつの餃子に時間をかけた。なるべくたくさん、キルとまひるに作らせる。ばあちゃんも、いつも以上にゆっくり作っていた。

 そのうちまひるの指導は、思いがけない方向に流れた。


「キルちゃん、袖、邪魔じゃない? 上着、脱いだら?」


「そうだな、腕まくりしてても落ちてくるし」


 キルはもそっと犬耳フードを外し、羽織っていた外套を丸ごと脱いで、床に放った。キャミソール姿になったキルは少し身軽になり、餃子を包むのもやりやすくなったようだ。

 その様子を横目に、俺は次の餃子の皮を手に取った。スプーンで餡を掬い、皮の真ん中において、ハッとした。


「キル!? お前、その外套、まひるの前で脱……!」


 まひるはキルのその外套を見て、キルを「言葉を話す賢い犬」だと思っている。だからそれを脱いで、キルを犬たらしめるパーツがなくなってしまうと、まひるに人間だとバレてしまう。

 と、身構えたのだが、キルもまひるもばあちゃんも、平気な顔をしていた。

 まひるが俺を振り向く。


「キルちゃん、犬じゃないよ。お兄ちゃん、知らなかった?」


「えっ」


「あ、うん。そういうことなんだ、サク」


 キルも開き直っている。


「さっき、うっかり寝惚けてこの格好をまひるに見せちゃってな。犬じゃないのバレた。サクがりっくんとこ行ってる間に」


 俺はしばらく、開いた餃子の皮を手に広げたまま、呆然としていた。考えてみれば、いや、考えなくても、今まで騙し通せていた方が不思議だった。しかし判明するときはこんなあっさりなのかと、衝撃を受けていた。ばあちゃんが目をぱちくりさせる。


「あら? 言わなかったかしら。この子たちが喧嘩してた理由、それよ」


「いやあ、まひるってば『今まで嘘ついてたの?』って怒って、事情聞いてくれないんだもん」


 キルが餃子包みを再開する。まひるも、そのとなりで手を動かした。


「まひるね、最初にキルちゃん見つけたとき、本当はちゃんと人間だって思ったんだよ。でもテレビで観るアニメに出てくるわんちゃん、喋るキャラクターもいるでしょ。だからこういう犬もいるのかなって思って、不思議な犬だって信じることにしたの」


「そう、なんだ。それを、謝りたくて」


 キルが少し、俯く。


「なんか犬だと思われてるっぽいし、その方が人ん家に上がりこむには都合が良さそうだった。だから、まひるの素直な善意を利用したんだ、私は」


「まひる、キルちゃんが嘘ついてたの以上に悲しかったのはね」


 まひるの小さな手が、白い皮をふんわり包む。


「人間だってバレたら、追い出されちゃうと思ってたのかな、ってこと。犬じゃないのかもなんて、何度も思った。でも、犬じゃなかったとしても、まひるにはそんなのどうだってよかった。そんな嘘なんかつかなくても、キルちゃんが犬でも人間でも他のなにかだったとしても、まひるがキルちゃん大好きな気持ちは変わらないのに」


 押さない手指がふにふにと、餃子の淵に襞を作った。


「キルちゃんは不安だったのかな、って。まひるの気持ち、届いてなかったんだなって」


「違うんだ、まひる」


 キルが手に持っていた作りかけの餃子を、皿に置いた。


「最初はたしかにそうだった。犬ってことにしておかないと、このままここにいられないと思った。まひるにショックを受けさせちゃうと思った。でも今はちゃんと分かってる。まひるは今更私を追い出すような子じゃない。騙し続ける必要なんかない」


 キルの声は、はっきりと通って、震えひとつなかった。


「それでも言い出さなかったのは、単にきっかけがなかっただけだ。それこそ、別に犬でも犬じゃなくても、まひるにとっては変わらないんだって分かってたから。わざわざ言う必要がなかったんだ」


 まひるがキルを振り向く。キルはまっすぐ、まひるを見つめていた。


「自分で驚いてる。私は今までこんなに、人の純粋さを信じたことがない。この子なら、どんな自分でも受け入れてくれるなんて、そこまで人を信頼した経験がない。だからなにもかも初めてで、喧嘩しちゃって、どうしたらいいのか分かんなかった」


 キルの瞳が、まひるを射抜いて離さない。


「ごめん、まひる」


 まひるは大きな目を少し細めて、ふっくらした頬を緩めた。


「もういいよ。まひるこそ、話聞いてあげなくて、ごめんね」


 まひるはまたひとつ、大皿に餃子を置いた。皿に並んだそれは、誰が作ったのかひと目で分かる個性があって、俺はなんだか漠然と「いいな」と思うのだった。

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