2.デートだから気合が入る。

 始業式の翌日。この日は朝から一度も、キルの襲撃を受けなかった。昨日の体育倉庫事件と、そのせいで体育教官に叱られた件で堪えているのだろうか。おかげで平和に学校生活を過ごせるので、こちらとしてはありがたい限りだ。

 放課後、いつもどおりスーパーに立ち寄って夕飯の買い出しをし、陸の両親が営む惣菜屋で追加のおかずを買う。肩に買い物袋を引っ提げて自宅へ戻ってきたら、なにやら建物の門の前に、女の子が立っていた。黒髪に夕方の空の色を反射させ、こちらを振り向く、彼女は。


「日原さん?」


 俺の声を聞き、立ち尽くしていた日原さんはこちらを振り向いた。ぱっと笑顔が華やぎ、俺の方へ駆けつけてくる。


「朝見くん、お帰りなさい!」


「え? はい。どうしたの?」


 日原さんが、うちになんの用事だろう。と、考えるより先に、日原さんはぎゅっと、俺に抱きついてきた。瞬間、顔が熱くなる。


「え!? なに!?」


「うふふ。いいじゃない、誰も見てないんだから」


 豊満な胸を押し付けてきて、彼女が笑う。くらっとするような甘い香りが思考を奪い、耳にかかる吐息が体がざわつかせた。そして俺は彼女の肩を掴み、自身からぐいっと引き離す。


「お前、日原さんじゃねえだろ」


「なに言ってるの、朝見くん」


 目の前の女は、大きな目をぱちくりさせて小首を傾げている。顔はたしかに日原さんだ。でも、それ以外全部違う。


「日原さんはこんなに下品じゃない」


「あら酷い」


 あざとい甘え方に、意識が混濁するような甘ったるい匂い、あと、声で分かる。


「バレバレだ、ラル!」


「つまんないの。咲夜くんには分かっちゃうのね」


 見た目だけ日原さんだった彼女は、ため息をつきながら俺から離れた。そして耳の下辺りに手を添えたかと思うと、その肌をぺろりと剥いてみせた。中から現れたのは、日原さんに負けずとも劣らない美少女。


「このマスク、なかなかの出来だと思うんだけど」


 都ルーラル、通称ラル。キルと同じフクロウ所属の暗殺者で、兼、諜報員だ。このくどいほどの色気を駆使して人を惑わせ、情報を抜き取り、殺すのを特技としている。

 俺はラルを横目に、自宅の敷居を跨ぐ。


「マスク? の出来はいいかもな。見た目だけなら、日原さんにしか見えなかった」


「でもこの隠し切れない色気が溢れ出しちゃって、清楚なカマトト女の演技ができてなかったと。私もまだまだね」


 ラルも一緒に玄関に入ってきた。そして俺が背中を向けているのをいいことに、腰を撫でてくる。この痴女の行動にはどうも慣れないが、反応すると面白がるので、無視するに限る。

 俺が帰ってきたのが分かったのだろう、キルが階段を下りてきて出迎えた。


「ようサク。さっきの様子は二階の窓から見守ってたぜ。美月じゃないと即見抜くとは、流石だな」


「お前も仕掛け人か。どういうつもりだ? あの日原さんそっくりマスクはなんだ?」


 買い物袋を手にキッチンに向かっていきながら、キルに問う。ラルに続いてキルも俺の後ろをついてきて、話しはじめた。


「あれはフクロウの技術チームが開発した変装用マスクだ。量産品の同じ顔のマスクもあるが、さっきのラルみたいにオーダーメイドで特定の顔を作ることもできる」


 キッチンに入り、俺は買ってきた食材を冷蔵庫に入れつつ、キルの話を聞いていた。キルとラルは、キッチンから地続きのダイニングで、椅子に座る。


「見てのとおりすごい完成度で、なおかつ着脱も簡単で素晴らしい技術の結晶だ。ただ、量産品はともかくオーダーメイドは作るのに時間がかかるし、特殊な素材だから原価が高いし、あと『こんなもんに頼らなくても暗殺くらいできるのが暗殺者だろうが!』という事務部の思いもあって、ひとつ作るのにかかる費用はなんと、高級車一台分だ」


 そんな高価なものだったのか。驚いていると、いつの間にか黒髪のウィッグを外して、もとのストロベリーブロンドになったラルが、頬杖をついて付け足した。


「でもね、九月から十月末までは、キャンペーンで通常価格の○. ○○○一パーセントのお試し価格で作ってもらえるの」


「キャンペーンとかあるんだ」


「ハロウィンの時期だもの」


「仮装用かよ」


 だから十月末までなのか、なんて、ちょっと納得する。キルがニッと目を細めた。


「折角のキャンペーンだ、利用しない手はない。私はこの便利なマスクを上手いこと使って、日原美月を殺す」


「ふうん……」


 どういう作戦なのか具体的には分からないが、あのマスクはたしかに、日原さんそっくりだった。上手く利用されれば、本物の日原さんを確実に殺すチャンスを作れる……のかもしれない。キルとラルに具体的な方法を聞いたって絶対教えてくれないので、俺には警戒するくらいしかできない。


「そういえばキル、今日は学校に来なかったな」


 おかげさまで平和だったのだが、一応理由を聞いてみた。キルが不服そうにむくれる。


「お前のせいでな。しばらくは学校には近づけない」


「俺のせい?」


 ぷんぷん怒るキルと困惑する俺をそれぞれ一瞥し、ラルが説明をはじめた。


「咲夜くん、昨日、キルと一緒に体育教官室にお呼ばれしちゃったでしょ? 男女が体育倉庫でくんずほぐれつしちゃったから、当然よね」


「言い回し……まあ、掴み合いの喧嘩してたからそのとおりだけど。で、それが原因で、キルは学校に来れないのか」


「ええ。下手に目立ってしまうと、内通者から日原院長に報告が行ってしまうから」


「内通者……あっ」


 言われて、ハッとした。

 日原さんの友人の中に、日原さんの周辺を探っている内通者がいるのだ。本人は単に学校での様子を父親に報告しているだけだそうだが、その父親というのが、この周辺の裏社会を牛耳る暴力団「無常組」の若頭だ。

 日原院長の病院と、政治家・安井幸高は、多額の政治献金でずぶずぶに癒着している。この汚い金の流れを止めようとしているのがキルの依頼者で、日原院長の娘・美月の命を奪い、娘を失った院長を精神的に追い詰めるのが目的だ。

 しかし安井、及び院長サイドも、日原さんが危険に晒されているのを分かっている。だから日原邸のセキュリティは厚く、日原さんの行動も制限されているのだ。日原さんに異常がないか、安井が無常組を使って常に警戒。なにかあれば、安井に報告が行く。という構図だ。

 ラルが神妙な顔で続ける。


「この頃はキルの仕事が停止していたのもあって、こっちに動きがないから向こうも動かなかった。美月ちゃん暗殺の仕事自体が流れた、とまで思っていたかもしれない。内通者の警戒が弱まっているうちがチャンスだったの」


「だってのに、お前が私を道連れにして悪目立ちした。おかげで内通者に、再び私が動き出したのを気づかせてしまった」


 キルが声を尖らせ、テーブルに頬杖をついた。


「下手に近づいたら、邪魔される。私とサク狙いで暗殺者を送り込まれても面倒だし、内通者がいる限り、私は学校には近づかないことにした」


 政治とか、暴力団とか、金とか。こういう世界のことは、一般人の俺はあまり分からないし、考えたくもない。いずれにせよ、キルが学校に近づかないでいてくれるのはありがたい。

 キルがラルに目を向けた。


「そうなるとやっぱり、いちばん使える駒がりっくんなんだよな。内通者はりっくんノーマークだし、あいつには美月を殺せるチャンスがかなりある。なぜかなかなか殺さないけど」


「そうね。チャンスがあるのに殺さないのには、なにか、泳がせるだけの理由があるのかもしれないわ。スイリベールの王朝関係かしら」


 キルだけでなく、ラルまでこんなことを言っている。もう訂正したって聞き入れてもらえないので、俺はなにもコメントしなかった。

 キルが頷く。


「私の美月暗殺を妨害するのも、単に獲物を横取りされないためじゃないのかもしれないな。理由が分かれば対処法を考えられるし、内容によっちゃ手を組みたい。ラル、引き続き、りっくんの調査を頼む。私もサクを使って、多方面から調べる」


「咲夜くんを? 使えるの?」


 ラルが驚いた顔で俺を見る。キルは同じく俺を一瞥して、小さく項垂れた。


「こいつの諜報能力は大して期待できないけど、利用価値はある。そのための、これだ」


 キルはラルの外したウィッグを指差し、ニヤッと片笑みした。


 *


 その翌日も、宣言どおり、キルの攻撃はなかった。放課後、夕飯のメニューを考えながら、昇降口を出る。今朝、キルから鶏唐揚げが食べたいとリクエストがあった。唐揚げの付け合せはどうしようか、などと思っていると、後ろから俺を呼ぶ声がした。


「朝見くん。こっちこっち」


 振り向くと、校舎の影から、日原さんが手招きしている。かわいい仕草にどきっとしたが、すぐに警戒した。昨日の今日だ、日原さんに変装したラルかもしれない。

 どちらにせよ無視はできないので、歩み寄ってみる。日原さんはそのまま、俺をひとけのない校舎裏へと導いた。


「急に呼び止めてごめんね。これ、渡したくて」


 日原さんが差し出してきたのは、二枚の映画のチケットだった。


「この前、お姫様が王国を抜け出してお転婆する、面白そうな洋画が始まるって話したの、覚えてる? 実はその映画のチケット、貰ったの」


 日原さんは少し視線を惑わせ、躊躇し、再び俺の目を見た。


「二枚あるから、その……一緒に行かない?」


「うん? ……うん?」


 数秒ほど、頭が働かなかった。映画のチケット、二枚。一般的に言う、これは。

 いや、そんな都合のいいイベントが俺に起こるはずがない。あの変装マスクだ。ラルが日原さんの物真似を上達させ、俺を誘導しているのだ。なんらかの作戦のひとつの段階なのだ。声が日原さんだが、フクロウのやたらとハイテクな技術力を持ってすれば、声まで似せる手段があってもおかしくない。

 俺はさっと、日原さんの頬を抓った。日原さんが仰け反る。


「ひゃ! なになに!?」


「あれ、剥がれない」


「くすぐったい! なに!?」


 俺が日原さんの頬をぷにぷにすると、日原さんは笑いながら手を重ねてきた。俺は目をぱちくりさせ、数秒、日原さんのきれいな顔を眺めていた。


「まさか、本当に日原さんなのか?」


「本当に日原さんだよ! なに言ってるの」


 日原さんが可笑しそうに笑う。俺はまた呆然と固まって、手を離した。そういえば、日原さんから洋画の話をされたとき、近くにいたのは元王女のアンフェールと、日原さん自身だけだ。この件は、キルもラルも知らない。気づいた途端、自分の行動の恥ずかしさが爆発した。


「ごめん! なんかその、びっくりして、夢かと思って!」


「あははは! 夢だと思ったにしても、普通、抓るなら自分のほっぺでしょ」


 日原さんは俺の誤魔化しを笑い、それから俺の頬をぷにっと抓った。


「夢じゃないよ。今度の土曜日、空いてる?」


 ラルではないし、夢でもない。でもまだ、信じられない。呆然とする俺に、日原さんが手を離して早口に言う。


「忙しかったら無理には誘わないよ。これ、朝見くんに話してた映画だったから、もし気になってたら一緒にどうかなって思っただけ! こんな誘い方しちゃったけど、なんていうか、花火大会のときみたいに変な噂が立つと困るだろうから、人目のないところで渡したかっただけだし、あんまり身構えないで考えてくれれば……」


「あっ、ぜひ! 行きたい!」


 硬直から解けて、ふたつ返事で承諾する。日原さんはぱっと顔を輝かせ、俺にチケットを突き出した。


「よかった! 楽しみにしてる!」


 *


 家に帰ってもぼうっとしてしまい、夕飯の支度をしている間も上の空だった。日原さんとは、以前よりはかなり親しくなった、という自覚はあった。でもまさか、こんな誘いを受けるほどだとは思わなかった。今までは遊ぶことはあっても、陸やまひるを含めての話だった。だが今回は、映画のチケットは二枚である。


 無心で唐揚げを揚げる。下味をつけておいたものを、少しずつ揚げていく。いい色になったものは皿に上げ、空いたスペースに、新しく衣つきの味付け肉を投入していく。


 日原さんからの誘いはすごく恐縮だしありがたいが、同時に、これをキルたち暗殺者に悟られてはいけない緊張感があった。

 日原さんは今のところ、学校では攻撃されず、登下校中は送迎車に守られている。自宅の豪邸はセキュリティが厚く、キルでも潜入できない。となると、キルが日原さんを狙うとしたら、休日。学校でも家でもない、外を歩いているときなのだ。彼女が映画に出かけると知ったら、キルは間違いなく日原さんを狙う。殊に、映画なんて暗闇の中なら、キルの思う壷だ。

 しかしキルに気づかれさえしなければ、襲われる心配はない。キルに気づかれなければ……日原さんを一日、独占できる。


 ぼけっとしている俺のところへ、まひるが無邪気に駆けてきた。


「お兄ちゃん! まひる、今度の土曜日、お友達の家に遊びにいくから、お昼ごはん作らなくていいよ!」


「そうか。俺も出かける予定ができたから、ちょうどよかったな」


「お兄ちゃん、どこ行くの?」


 まひるに訊ねられ、俺は黙っていられなかった。


「これ、キルにもラルにも秘密だぞ。兄ちゃんな、日原さんとお出かけする」


「へえ! いいなあ、まひるも美月お姉ちゃん大好き!」


 純粋なまひるはキャッキャと喜び、それから俺の手元の鶏肉に気づいた。


「今日のお夕飯、なあに?」


「唐揚げだよー」


「やったあ! キルちゃんに教えてあげてもいい?」


「そうだな、キルのリクエストだし」


 俺が言うと、まひるは目を輝かせて、二階にいるキルの方へと向かって走り出した。


「キルちゃーん! 今日のごはん、唐揚げだってー! でね、お兄ちゃん、土曜日に美月お姉ちゃんとデートだってー!」


「うわあああまひる! そっちは教えちゃだめだって!」


 まひるの天然ボケが発動した。絶対に気づかれてはいけなかったのに、身内から洩れた。絶望する俺の元へ、キルが駆けつけてきた。


「でかしたサク! 日原美月を映画館の暗闇に誘導するとは、なかなかやるじゃねえか!」


「俺が誘導したんじゃない。チケットが余ってたから、誘われただけ」


 もう誤魔化しきれない。キルはニヤニヤしながらキッチンに入ってきて、皿に盛り付けてあった唐揚げをつまみ食いした。


「どっちでもいい。なににせよ、土曜日は狙い目だったんだ」


 キルは揚げたての唐揚げに口をはふはふさせ、言った。


「普段の美月は、厳しいパパとママの目を気にして、あまり自由に遊びに行かない。だが土曜日は、日原院長と妻、すなわち美月の両親は、安井を含めて遠出して、政界の人間との会食の予定なんだ。両親の目がないこの日、美月が外出を考えるのは読めていた」


「日原さん、そんな貴重なチャンスを俺に!? ……じゃない、キルは先にその情報を持っていて、日原さんが外を出歩くのを待ってたわけだ」


「うん。まさか一緒に出かける相手がサクだとは思わなかったけど、おかげさまで追跡しやすい。あ、先に言っとくが、デートをキャンセルしたって無駄だぜ。美月にとっては数少ないお出かけチャンス。お前以外の誰かを誘うだけさ」


 たまのお出かけですら、楽しむのを許されないのか。

 唐揚げが全て、揚がりきった。油を切ったそれがほわほわと湯気を立ち上らせている。キルは摘まんだ唐揚げをもぐもぐしながら、首を傾げた。


「サク、今日これ、いつもと味変えた?」


「え? いつもと同じレシピで下味つけたけど?」


 怪訝な顔をするキルを横目に、俺も、唐揚げをひとつ口に放り込んだ。途端に、口の中に不快な風味が広がる。


「なんだこれ、まずっ! 苦くて酸っぱくて臭い! なに入れたらこうなる!?」


 なんとか飲み込んだが、とてつもない味だ。俺は使い慣れたキッチンを見回し、はたと、塩のボトルに目を止めた。普段から愛用している塩の横に、そっくりなボトルがある。ラベルには、俺には全く読めない外国語が書かれている。海外出張が多い親父が置いていった、お土産の調味料である。


「これか! ああもう、唐揚げが台無しだ。こんなもの、まひるとばあちゃんには食べさせられない」


 ぼんやりしていたせいで、酷いミスをやらかしてしまった。泣く泣く処分しようとしたら、キルが俺の腕を掴んだ。


「なにっ!? 捨てる気か!? だったら私が全部食べる!」


「よせ! こんなまずいもの、食べたら体を壊すぞ」


 しかし食い意地の権化であるキルは、こんな程度では引き下がらない。


「お前、普段『命を粗末にするな』って言ってるじゃん。じゃあこれも無駄にしちゃだめだろ。味がいつもとちょっと違うだけじゃん。『ちょっと』で済まされる限度はだいぶ越えてるけど、まあ食べられなくはないよ」


 キルは有無を言わさず皿を強奪し、ダイニングテーブルに運び、もぐもぐ食べはじめた。作った俺でもびっくりするほどまずかったのに、キルは多少顔を歪めながらも、次々に唐揚げを口に入れていく。俺はキッチンからその姿を眺めていた。


「よく食べられるな。身の危険を感じるほどの味だったと思うんだけど……」


 それから、ぽつっと付け足す。


「キル、俺が毒を仕込んでても、『ちょっと味が違うな』くらいで完食しそうだな」


 こんなことを言っても、キルは食べるのをやめなかった。


「ああ、かもな。サクがそんなことできるわけないって思ってるし、食べちゃうかもな」


 実はその唐揚げの変な味は、毒です。日原さんとの映画を清々楽しみたいから、キルに毒を盛りました。と言っても、キルは食べてしまうのだろう。俺がキルを殺せないのを分かっているからだ。こいつは警戒心が強いのかそうでもないのか、よく分からない。


「キルって、『こいつなら自分を殺せるかも』って思う相手、いる?」


 私が負けるわけねえだろ! なんて強気な返事が返ってくるのだろうが、訊いてみた。キルはまたひとつ、唐揚げを飲み込む。


「いっぱいいるよ。誰でも殺せるんじゃねえの?」


 キルのその回答は、かなり予想外だった。


「え。キル、そんなに自己評価低いっけ? 誰も自分を殺せないくらい思ってそうなのに」


「まあ、簡単に殺されてやるほどお人よしじゃあないけど。私が人を殺せるのと同じで、誰しもできなくはない。ただ理性とか、道徳とか、法とか、そういうもので制御されてるから『殺さない』だけなんだろ」


 それで俺は、「殺さない」と。

 キルは唐揚げを食べ続ける。


「そういう制御をないものとして、単純に技術面だけで考えたら、誰だって私を殺せるぜ。サクでもね。もしサクがサクを制御しているものを失ったら、私を殺せる。動き速いし、こうやってまずい料理でも、私、食べちゃうし」


 パリ、と、キルの歯が衣を砕く。


「サク相手だったら、隙見せちゃうし。お前は善良だからな」


 キルは暗殺者だ。恨みを買うことも、たくさんあるだろう。こう見えて神経をすり減らして生きているのだと思う。そんな彼女にとって、この家は、安息の場なのかもしれない。

 そういう意味では、俺はキルに信頼されているのだ。そう思ったら、なんだか少し、こそばゆかった。

 キルから目線を逸らし、冷凍庫にストックしていた冷凍唐揚げを取り出す。


「……どうだか。俺がキルを殺そうと画策してたら、キルは察知して、先に俺を殺すんじゃねえの」


「うは、そうだわ。じゃあひとまず、サクに殺される心配はなくなったな」


 キルは最後のひとつの唐揚げを平らげ、冗談っぽく笑った。


 *


 そしてついに、土曜日がやってきた。日原さんとの待ち合わせ場所は、駅前の大きな木の下、そこに並んだベンチである。木の周りには背の低い花壇が並び、秋の花がぽつぽつ咲いている。

 キルが狙ってくるのは分かっているが、彼女の言うとおり、キャンセルしたところで意味がない。ならば日原さんのすぐ傍で、暗殺者どもの奇襲から日原さんを守るしかない。


 出かける前に様子を見たが、キルはリビングで、まひると一緒にゲームで遊んでいた。まひるがこのままキルを家に繋ぎ止めてくれればいいのだが、生憎まひるも友達の家に出かけてしまう。ばあちゃんも、フクロウの人間なので俺の味方ではない。

 日原さん本人に、「暗殺者が狙っているから気をつけて」なんて言っても、信じてもらえないのがオチである。だったら、日原さんになんの不安も抱かせず、安心安全に守り抜くのが俺の今日の仕事だ。


 ベンチの横に立って日原さんを待っていると、後ろからちょんと、背中をつつかれた。振り向くと、ふわっと微笑む黒髪の美少女の姿があった。白いブラウスにピンクのスカートを合わせたかわいらしい姿に、一瞬、心を奪われる。

 が、すぐに違和感を抱いた。

 その少女は、植木を囲む花壇の上に立っていた。花壇を踏み台にして、やっと身長を稼いで、俺と目線を合わせているのだ。


「ちっちゃいな! 絶対キルだろ!」


「だめかー! 折角ラルにコーデしてもらったのに!」


 声が完全にキルだ。変装用マスクで顔を日原さんにしているだけの、キルだ。


「見れば分かる! キルが変装するならせいぜいまひるだろ。逆にその身長で、俺が気づかないとでも思ったのか?」


「浮かれてるサクならワンチャン騙せると思ったんだよ。くそー、シークレットブーツでも履いてくればよかったぜ」


 顔は日原さんなのに、悔しがる表情も言葉遣いも、まんまキルだ。このガバガバな変装は、いくらなんでも見抜ける。見抜けることくらい、キルにも分かっていたはずで。

 俺は声を低くした。


「本気で騙せるとは思ってないんだろ? 真の目的は?」


「……鋭くなったな」


 キルが日原さんの顔面のまま、悪魔のように笑う。俺は咄嗟に、周辺を見回した。そして駅の人混みの中に、黒髪の女の子の後ろ姿を見つけた。ミルクティー色のワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。そんな彼女の連れは、俺と同じような背格好で、俺の服を着ている。俺は弾かれたように駆けだし、その後ろ姿を追いかけた。

 日原さんに化けたキルの出現は、あくまで俺の気を逸らすのだけが目的だ。本当の狙いは、あれだ。俺の偽者を使って、日原さんを連れ出すことなのだ。


「なんだあいつ! 誰だよ!」


「サクよりかっこいい替え玉くんだよ。待ち合わせ場所より少し手前で、飲み物を買って美月を迎え撃ち、ファッションを褒めて、ネイルも靴もちゃんと見て、死に場所の映画館へエスコートする王子様さ!」


 キルが可笑しそうに笑って、マスクとウィッグを外した。走る俺に、彼女もついてくる。


「まあまあ、そう焦るなって。この場でいきなり殺したりはしない。刃物を取り出せば騒ぎになる。毒針で刺しても、これだけの人の目があれば、通報されて救急の処置が間に合ってしまう」


「じゃ、映画の暗闇の中で眠らせてから、毒を刺して、二時間かけて毒を回らせて殺す戦略か!」


「そこまで分かる? 流石、暗殺者の才能がある」


 作戦を見抜いてしまった自分が空しいが、分かったからには対処できる。映画館までに本物の俺が追いついて、偽者とキルを映画館に寄せ付けない。映画が終わってからは、なるべく人目のつく場所にいればいい。


 走りながらスマホを取り出し、日原さんにかける。こちらから連絡すれば、隣にいる奴が別人だと気づいてくれるはずだ。しかし日原さんは着信に気づかないようで、応答してくれない。

 必死に追いかけて、やっと追いつく。大声で呼びかけようとしたが、息が上がって声が出なかった。咄嗟に掴んだ腕は、日原さんのものではなく、隣にいる俺の偽者の腕だった。そいつを引っ張って建物の影に隠れ、日原さんと引き離す。腕を引きながら、溢れ出すフェロモンで分かった。この、俺のそっくりさんの正体は。


「ラルか! なにしてくれてんだよ!」


 目の前にいるそいつは、まるで鏡を見ているかのように俺なのに、俺よりどことなく色っぽい。彼、否、彼女は、つまらなそうにため息をついた。


「なんだ。折角上手くいってたのに。声が違っても、『ちょっと風邪引いた』って言ったら信じてくれたぞ」


 俺の声真似がちょっと似ているのが、また腹が立つ。


「お前の好きにはさせない」


 俺は容赦なくラルの頬を摘まみ、マスクを剥がしてやった。下からラルのきれいな顔が現れ、彼女は急に、普段の態度に戻った。


「もう、乱暴ね。でもそういう荒っぽいところ、嫌いじゃないわ」


「服、洗って返せよ」


 剥がしたマスクを丸めて、自分の鞄に突っ込む。

 と、ラルが俺の首筋に触れる。身を捩ったが、遅かった。一瞬感じたチクッとした痛みに、背筋が凍る。


「……なにをした?」


「別に? ちょっといたずらしただけよ」


 ラルはにこっと笑うと、自ら、通りとは逆の方向へと消えていった。なにか、首に刺された。死に至る毒ではないと思いたいが、間違いなく、なにか注入された。俺に不利に働くなにかであるのは分かる。

 建物の影から通りへ戻ると、日原さんが困った顔で俺を捜していた。


「あ、いた! びっくりした、急にはぐれちゃった」


「ごめん! 人混みに流されてた。行こうか」


 なにごともなかったかのように合流する。日原さんは俺を見て、きょとんとした。


「あれ? 着替えた?」


「ははは、なにそれ。気のせいだよ」


 映画館の方向に向かって、歩き出す。先程までついてきていたキルは、今は見当たらない。ラルも追ってきていないようだ。日原さんは俺の横を歩きながら、ちらちらと俺の手元を見ていた。


「手、もう繋がない?」


「え?」


「さっきまで、『人が多いから』って、繋いでくれたでしょ」


 日原さんの純粋な表情を前に、俺は言葉に詰まった。ラルの奴、俺よりスマートでかっこいい。思いがけず日原さんの手を握るチャンスが巡ってきたが、どうしようかと迷っているうちに、映画館に到着した。

 ラルが予備のマスクを持っていたら、また入れ替わられてしまうかもしれない。絶対に、日原さんの傍を離れるわけにはいかない。


 ポップコーンと飲み物を買って、シアターに入る。今のところ、日原さんに変わった様子はない。指定の座席に座り、スクリーンを眺めている。周囲を見渡してみたが、キルもラルも見当たらない。キルが外套で姿を消している可能性を考えてしっかり目を凝らしてみたが、やはり見当たらない。もしかして、チケットを買えなくて入ってこられないのだろうか。いや、当日券もカード払いで買えるはずだし、仮に買わなかったとしても、あいつならしれっと潜入してくる。


 警戒しているうちに劇場が暗くなり、映画が始まった。最初に入るCMそっちのけで、日原さんの様子を窺う。大きな瞳にスクリーンの光を映して、ポップコーンを口に運んでいる。

 CMが終わって、いざ、本編が始まる――というその瞬間、俺は強烈な睡魔に襲われ、意識が途切れた。


 *


 意識が戻ったのは、エンドロールの最中だった。瞬時に頭が覚醒し、横を見る。日原さんは目を潤ませて、スクリーンを見つめていた。よかった、生きている。

 日原さんが存命ということは、二時間かけてじっくり毒を回す作戦の失敗を意味する。あとは人目につきやすい場所で、暗殺者の襲撃をかわし、自宅まで安全に送り届けるだけだ。

 映画館を出た日原さんと俺は、近くの喫茶店に入って休憩した。日原さんが紅茶を飲みながら、興奮気味に語る。


「すっごく良かったね! お姫様が敵国の馬を奪って流鏑馬でフルーツ狩りをするシーンなんか、私、感動して泣いちゃった……!」


 生憎俺は眠ってしまって、内容を全く知らないのだが、帰りがけにパンフレットを買って勉強し、なんとか話を合わせている。

 店内にも、キル及びラルの気配はない。どこかから狙っているはずだが、全然分からない。今思えば、俺が映画の最中に眠ってしまったのは、多分、ラルの攻撃だ。ラルに刺されたあの針が、麻酔針だったのだろう。俺の注意を奪って、じっくり日原さんを狙うつもりだったに違いない。

 しかしこのとおり、日原さんは生きている。もしや眠っているうちに、変装用マスクを『つけた偽者と入れ替わったのか? いや、キルならもっと身長が足りないし、ラルなら要らん色気が溢れているはずだ。ここにいるのは、日原さん本人で間違いない。

 なにか別の作戦にシフトしているはずだ。しかし、どこからなにをされるか予想もできない。


 神経を張り詰めて周囲を気にしていても、結局なにも起こらず、一日が終わった。

 夕方、日原さんを自宅へと送り届け、俺も家に帰った。とうとう、日原さんは無事だった。俺のミッションは無事に成功したのだ。玄関を上がると、出迎えたのはばあちゃんだった。


「お帰りなさい、咲夜。映画、面白かった?」


「あんま覚えてない。キルは帰ってきてる?」


「キルちゃん? まだよ」


 ばあちゃんの返事に、再び緊張が走った。まさか、俺が日原さんと離れてからが、キルの狙いだったのか。日原さんの両親が帰ってくるまで、日原さんの自由時間は続く。まさかまだ、このあと、彼女には予定があって、外出したとか……。

 などと考えていたら、背後でドアが開いた。


「ふう、疲れた。ただいま」


 玄関に入ってきたのは、白いブラウスにピンクのスカートの、金髪のチビだった。ポニーテールはくしゃくしゃに乱れ、日原さんマスクを外した顔には、小さな傷がある。ブラウスとスカートも汚れて、少し破けていた。


「キル!? どうしたんだ。なんでぼろぼろになってんだ」


 日原さん暗殺はどうなったのかとか、ラルのあの針刺しはやはり麻酔なのかとか、聞きたいことは山ほどあるが、まず最初にそれだ。キルはしかめ面で靴を脱ぎ、玄関を上がった。


「ったく。理想の彼女とのデート、なにごともなく満喫できたのは、誰のおかげだと思ってやがる」


 意味が分からなくて、俺はぽかんとして立ち尽くしていた。リビングへ向かっていくキルの後ろ姿が、俺たちを手招く。


「総裁、あとサクも。大事な話がある」


 その声は、いつになく不機嫌だった。


「真城ライ……古賀新一が動き出した」

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