1.密室に閉じ込められた。
夏の終わり、夕暮れ時。キッチンの窓の向こうから、ヒグラシの声が聞こえた。夕飯の下ごしらえをしながら、俺はその声に耳を傾けていた。
今日は夏休みの最終日。明日から、またいつもの日常が始まる。放課後にスーパーに寄り道して、食材を買って、家族のごはんを作る、そんな毎日が。
今日の夕飯はハンバーグ。デザートは、妹の要望でいちごプリン。夕飯までに作って冷やしておこうと、材料を冷蔵庫から出して並べてある。
ハンバーグ用にタネを形成し、あとは焼くだけの状態にして、いよいよいちごプリン作りに取りかかる。肉をこねた手を洗って、並べた材料の方を振り向いた瞬間、そいつと目が合った。
「あ」
いちごのパックに手を伸ばす、「白い犬」――もとい、白い犬の着ぐるみみたいな、耳つきの外套を羽織った、人間の女の子。一三○センチほどの小さな体で、俺を見上げている。俺に見つかるや否や、彼女はさっと、いちごをパックごと手に取った。
「暗殺者の気配に気づくとは、なかなかやるじゃねえか、サク。ま、いちごは私のものだけどな!」
「キル! 堂々とつまみ食いしてんじゃねえ!」
俺は咄嗟にフライ返しを振りかぶったが、キルはさっと避けた。
「遅い。お前の動きは読めている」
「知るか! いちご返せ!」
「やーだよ!」
いちごを奪い返そうとした俺の手をかわして、キルは楽しげにキッチンを飛び出した。
俺、朝見咲夜は、善良な高校二年生である。ただし、自宅で暗殺者を飼っている。
キッチンを出たキルが、野生動物のごとき素早さでダイニングの椅子に飛び乗る。俺はその動きを止めるべく、自分もフライ返しを持ったままダイニングへと転がり出る。キルのフードの襟首を掴もうと、手を伸ばした。いちごを口に運ぼうとしていたキルは、俺の攻撃を察知するなり前転で椅子を飛び降り、俺の手は空を掻いた。全身で転がったのに、キルの手のいちごは、ひとつもパックから零れていない。
「おいおい、せいせい食べさせてくれよ」
「返せ。そのいちごは今晩のデザートだ」
「なら、前借りしたっていいじゃねえか」
「夕飯時、お前の分だけデザートなしにするけど、いいか?」
「それならサクの分を奪うまでだ」
キルは、ニヤッと笑って、いちごをひとつ、口に放り込んだ。
「あ! 食べた!」
俺が叫ぶと、キルはよりご機嫌に笑った。
「んー! 甘酸っぱくておいしい! この種まで真っ赤に熟れてるいちごを選んで買ってくるあたり、さっすが、サクは分かってるね」
「お褒めに預かり光栄ですけど、残りのいちごは返してもらう!」
いちごにご満悦のキルの手からパックを奪うも、キルは素早く飛び上がり、再び俺からパックを取り返した。
「隙だらけだぜ、サク。いちごひとつ守れないようじゃ、かわいいかわいい美月ちゃんなんか到底守れないぜ」
キルの分かりやすい挑発に、俺は見事に乗っかった。
「お前な……」
彼女の名前を出されては、俺も手加減できない。
「今は日原さん、関係ないだろ!」
真っ直ぐ振り下ろしたフライ返しが、キルの頭頂部、フードの耳と耳の谷間に直撃した。かわしきれなかったキルが目を剥く。
「痛あー! やったな! もう怒った、いちご全部食べちゃうからな!」
キルはいちごのパックを掲げ、俺の脇をすり抜けてリビングの方へと逃げていった。このままでは、いちごが全部食べられてしまう。俺も迷わず追いかける。
リビングには、溜めていた夏休みの宿題に追われる妹、まひるがいた。まひるは俺とキルの攻防など気にも留めず、平常どおりの甘え声で俺に話しかけてきた。
「お兄ちゃん、算数ドリル終わんないよお!」
「だから早いうちからコツコツやっとけって言ったろ!」
俺はソファに飛び乗るキルを追いつつ、まひるに返す。まひるは泣きそうな声で俺の方に算数ドリルを向けた。
「お兄ちゃん、手伝って」
「今取り込み中!」
「キルちゃんとじゃれてるだけでしょ? まひるも遊びたい」
俺とキルの乱闘など、妹のまひるにとっては日常茶飯事なので、今更驚きも怖がりもしない。
ソファの背もたれの淵に立ち、キルがまたいちごを口に運ぼうとする。俺はフライ返しで水平切りして、キルの手元の動きを阻止する。
「させるか!」
キルの手からぽろっと、いちごが転がり落ちる。が、彼女はすぐさま、いちごの軌道に合わせて身を転がし、いちごが着地するより先にパックの中に受け止めた。
「危ねえな! いちごを粗末にする気か!」
キルがパックを持つ右手と反対の手を、外套の中に突っ込む。そして中からナイフを取り出し、瞬時にこちらに投擲してきた。真っ直ぐ飛んできたナイフを。俺はフライ返しで弾き返した。
「危ないのはお前だ、キル! そうやってナイフなんか投げて、まひるに当たったらどうするんだ!」
「私がそんなミスするわけないだろ。万が一にも、かわいいまひるに傷がついたら、私は気が狂ってしまうね」
「それでいて俺は狙うよな!?」
「サクは避けるし、当たってもまあ、すぐ治るから」
キルは全く悪びれず、二本目のナイフを投げてきた。頭上を飛ぶナイフを見上げ、まひるがぽやんとした声で言う。
「お兄ちゃんばっかりずるい。まひるもワンちゃんと遊びたいのに、宿題終わんない」
まひるはちょっと、というか、度を越した天然ちゃんである。この子は犬の着ぐるみみたいな恰好のキルを、そういう犬だと信じている。この危険極まりない暗殺者を家に招いて、飼いはじめた張本人が、このまひるなのである。
俺はキルがナイフを携えていようと、臆することなく彼女の懐へと突っ込んだ。距離を詰めたらナイフを避けにくくなるのは承知の上だが、今はその、いちごを取り返さなくてはならない。キルは俺の動きを読んで飛び退き、ソファを降りて壁際のチェストに飛び乗った。俺はキルがいなくなったソファに腹ばいになり、そこに置いてあった犬柄のクッションを引き寄せ、起き上がるより先にチェストの上のキルにぶん投げた。キルの悲鳴が聞こえる。
「うわっ!」
ドタッという音と共に、キルがチェストの下に落下する。ただし、いちごは零れていない。まひるが宿題そっちのけで歓声を上げた。
「お兄ちゃんすごーい! 今、狙い定めずに当てたよね!? キルちゃんどこにいるか見えてなかったのに、ちゃんと命中した!」
「キルの移動のパターンは大体読める」
俺がソファから起き出して体勢を整えると、床に落ちたキルも、同じく身を立て直していた。
「くっ……突進の反動で隙ができると思って油断した。さすが伝説のアサシン・霧雨サニの息子!」
「それ言うなって言ってんだろ!」
ギャーギャーと口論している俺とキル、パフォーマンスを見ているかのように手を叩いて喜ぶまひる。そこへ、リビングのドアの向こうからまったりした声が割り込んできた。
「はいはい、そこまで。あなたたち、本当仲良しねえ」
騒ぎを強制終了させたのは、我らがボス、ばあちゃんである。おばあちゃんっ子十六年の俺はすぐさま、ばあちゃんにキルの蛮行を告げ口した。
「仲良くない! キルがいちごを強奪した! ばあちゃんからも叱って!」
「そういう事情ならキルちゃんが悪いわね」
ばあちゃんがにこっと笑う。
「でも咲夜も咲夜よ。またいつもみたいにキルちゃんの挑発に乗って、途中から楽しくなってたんでしょ」
優しい眼差しで言い当てるばあちゃんに、俺はなにも言い返せなかった。この人はのほほんとしているようで、こうやって人の心を見透かしてくる。叱られた俺を見て、キルがしたり顔でいちごを摘まんだ。
「やーいやーい! 怒られてやんの」
しかしそんなキルに、ばあちゃんはにこりと笑いかけた。
「あら、でも悪いのはキルだって言ったでしょ。そのいちごは、いちごプリンの材料よ」
「なっ!?」
途端に、キルの手が止まった。
「いちごプリンだと? これ、そのまま食べるんだと思ってたから数が減ってもサクのを横取りするつもりだったけど……プリンの材料だったんなら話は別だ。いちごが減れば減るほどいちごの風味が薄くなる」
狼狽するキルに、ばあちゃんはさらに畳み掛けた。
「因みに、いちごプリンはまひるの要望」
「なんだと! サク、それを先に言え! 危うくまひるの楽しみを奪うところだった!」
あれだけ逃げ回っていたキルだったが、急に素直になって俺にいちごのパックをつき返してきた。俺はため息をつきながらいちごを受け取る。
「お前、まひるとばあちゃんには従順だよな」
「当たり前だ。まひるは、行き倒れていた私を助けてくれた恩人だし」
キルがナイフを外套にしまう。
「おばあちゃんは、我らが組織、『フクロウ』の総裁だからな」
我らがボス、ばあちゃんは、朝見家におけるボスであると同時に、とあるデカイ組織を抱えている。
それが国家公認暗殺者組織、「フクロウ」だ。
世間的に公にならないが、実は日本は、世界でもトップクラスの暗殺技術を誇る、暗殺大国である。
政治、人、金。権力や富を持つ者は、常に人を恨み、恨まれている。そんな仕組みの中でどうしても邪魔な人間を、自分の手を汚さずして抹殺するため、上層の人間は暗殺者を雇う。そのために国に認められて暗殺を働くのが、「フクロウ」に籍を置く暗殺者たちなのだ。
この狂犬どもを取りまとめているフクロウの親玉、すなわち総裁が、なんとうちのばあちゃんである。戦後のスパイ活動の延長でこんな野蛮な組織を設立したそうだが、俺はばあちゃんをどこにでもいる優しいおばあちゃんだと信じてこの歳まできているので、未だに信じたくない。信じたくはないが、もう受け入れつつある。
そしてコードネーム「生島キル」も、このフクロウに所属する。故に、ばあちゃんとの上下関係は明らかなものなのだ。
「まひるは恩人、ばあちゃんは親玉、だから言うことを聞くっていうんなら……」
俺はいちごのパックを片手に、キルを見下ろした。
「ご主人様の俺にも、従順であるべきなんじゃねえの?」
「サクは別。からかうと面白いから」
キルはしれっと言って、ソファに座った。
「強い奴と手合わせするのは楽しいからな。サクだってそうだろ? お前の中のアサシンの遺伝子が疼いて、発散しないと燻っちゃうだろ。遊んでやってるんだよ、私は」
「こいつ、またそうやって俺を人殺し予備軍みたいに……」
たしかに、ちょろちょろ動くキルを追い回していると、夢中になってしまう。それは認めるが、暗殺者の仲間扱いは心外だ。
キルがこんなことを言うのは、俺の出生に理由がある。なんでも、俺の親父はフクロウの暗殺者に仕事を融通するエージェントで、早くに亡くなった母さんは、フクロウでも歴代最強と言われる敏腕アサシンだったというのだ。ばあちゃんが組織の総裁というだけでもおなかいっぱいなのに、両親ともフクロウの人間で、しかも母さんに至っては伝説である。
俺がキルの動きについていけるのは、どうやら母さんからの遺伝らしい。キルいわく、「暗殺者の才能がある」とのことだ。
とはいえ俺は善良な高校生である。虫一匹だって殺したくない性分なので、当然人殺しなどしない。たとえ暗殺の才能があるとしても、その才能は今後一切活かすつもりはない。
そんなやりとりをする俺とキルの横では、まひるが算数ドリルと戦って半泣きになっていた。
「全然終わんないよー! お兄ちゃん、助けて」
「そんなに溜め込むからだよ。宿題なんて、一日あたりの量を決めて少しずつ着実にこなしていけば、終わるものなんだから」
俺がお兄ちゃんぶって小言を言うと、ばあちゃんがうふふっと花笑んだ。
「あら、そう言う咲夜は当然、宿題終わらせてあるのよね?」
「そりゃあもちろん……」
言いかけて、俺はすっと血の気が引いた。
「……終わってない。一日あたりの量は決めてたけど、シエルが来たり陸と遊んでたりして、全然計画どおりに進んでないんだった……」
偉そうにまひるに諭しておいて、すっかり忘れていた。キルがニヤニヤする。
「おーっと、こいつは急展開だ。夏休みは最終日! さあどうする。朝見咲夜の運命やいかに!」
しかし俺を煽って楽しむキルに、ばあちゃんがぴしゃりと言った。
「キルちゃんだって、宿題終わってないでしょ」
「へ? 私は学校行ってないから、宿題なんかないが……」
「お仕事よ。日原美月暗殺はどうなったの? あれからもう十日も経ってるわよ」
ばあちゃんの言葉に、キルも、俺も、絶句した。
数秒の沈黙ののち、キルがばあちゃんに泣きつく。
「わ、私だって頑張ってるんだ! サクがごはん作ってたり、昼寝してる隙とか狙って、外出中の美月を追跡してる! でも攻撃が全部外れるんだよー!」
「お、お前ー! 俺がごはん作ってたり、昼寝してる隙になんてことを!」
俺はキルの白い後ろ姿に叫んだ。
暗殺者キルは、これでいて任務の遂行中である。それのターゲットは、俺のクラスメイトにして学校じゅうのアイドル、日原美月だ。
キルがこの子の命を狙うのは、日原さんがかわいくて頭が良くて性格も良くて、大病院の院長の娘で金持ちで、キルがそれを妬んでいるから……ではない。原因は日原さんのお父さん、病院の院長にある。なんでも、安井幸高とかいう政治家に賄賂を渡して癒着しているそうで、この問題にいちばん大打撃を与えられる方法が娘の美月さんの暗殺だというのだ。キルは安井と院長の暴走を止めようとする政界の誰かしらの依頼を受け、日原さんを殺しに、この町に来た。
ところがこの日原さん、なぜかキルの攻撃が当たらない。先程のいちごを巡っての攻防戦でも分かるとおり、キルは動きに殆ど隙がなく、的の狙いも正確で、フクロウ内でも最強クラスとされるほどの凄腕アサシンだ。それなのに日原さんは、キルがナイフを投げようと毒針で刺そうと、いつも運よく当たらない。
日原さんは、自分が暗殺者に狙われていることにすら気づかず、毎日平穏に暮らしている。
そんな日原さんを死なせたくない俺は、自宅でキルを匿うついでに、キルを監視し、日原さんを陰ながら守っているのだが……どうやら目を離した隙に、キルは行動していたようだ。
「油断も隙もあったもんじゃないな。たまたま日原さんが無事だったから良かったものの」
「サクは私の飼い主なのに、私の失敗ばかり祈ってるな。そんなに美月が好きなら、さっさと告白して振られちまえ」
キルは捨て台詞とともに、リビングを出て行った。俺はいちごを持ってダイニングに戻り、プリン作りに取り掛かろうとして、それからハッとなってキルを追いかけた。
「おい、違うぞ! 好きとかそういうのじゃないし……第一釣り合わないし! クラスメイトが殺されそうになってたら阻止するのが普通だろ!」
キルはことあるごとに俺を茶化すし、俺もいちいち反応してしまう――これが、朝見家の日常風景である。
*
翌朝、俺は学校の門の前で項垂れていた。とうとう宿題が終わらなかった。まひるも終わっていなかったようだし、兄妹揃ってこの有様である。
夏休み明けの学校は、やけに久しぶりに感じる。鞄の中の宿題を思い浮かべて、なにを何時間目の休み時間に終わらせればセーフになるか、計算していたら。
「よーっす、咲夜!」
背中にバチンと衝撃を受け、頭の中にあった計画が全部吹き飛んだ。振り返ると、大きな手をひらひらさせて笑う友人、陸がいた。俺は背中をさすりつつ挨拶する。
「おはよう。陸、お前やたらと力が強いんだから、もう少し加減して」
「ははは。加減してるよ。加減して、咲夜にはこれくらいやっても大丈夫だと思ってる」
長身の陸は俺を見下ろして、ちょっと意地悪く笑った。
陸は公園デビューから腐れ縁の幼馴染みである。筋肉質で運動神経抜群で、おまけに背が高いから、平均身長の俺は彼を見上げる形になる。陸は俺の横を歩き、軽快に笑った。
「いやあ、宿題終わんなかったわ。数学の問題集と、化学のプリント。咲夜、あとで写させて」
「生憎、俺も終わってない。なんならそれに加えて、読書感想文も書いてない」
「え、感想文なんてあったっけ? やべえ、回収いつ?」
陸はちょっと軽薄なところはあるが、明るくて気のいい奴である。
「せめて終わってない宿題が咲夜と被ってなければ、交換して写せたのにな。予め相談しておけばよかった」
「それいいな。来年はそうしよう」
お互いに冗談か本気か曖昧な会話をしつつ、教室に入る。途端に、俺と陸の視線は、窓際の席の美少女に引っ張られた。
窓から差し込む朝の光に、潤んだ黒髪が艶めく。長い睫毛にも光が憩い、大きな瞳をきらきらと輝かせる。話しかけるのも躊躇うほどの美しさを携えた彼女は、俺と陸に気づき、こちらにふわっと微笑みかけた。
「朝見くん、陸くん! おはよう」
甘く涼しげな声に名前を呼ばれ、つい、ぽーっと立ち尽くしてしまった。
この絶世の美少女こそ、日原美月――学校のアイドルにして、キルのターゲットである。
日原さんはきれいな所作で席を立ち、こちらに駆け寄ってきた。
「夏休みに海で会って以来だね」
「あ、う、うん。おはよう。そっか、海以来か。元気そうでよかった」
たどたどしく返す俺に、日原さんは不思議そうに顔を寄せてきた。
「元気そうでって……海で会ったの、ほんの十日前だよ。朝見くんって面白いよね」
十日もあれば、キルに殺されていてもおかしくはなかった、という意味なのだが、日原さんは自分が暗殺されそうになっているなど知りもしないのだ。
本来であれば、こんな高嶺の花と俺ごときが接点を持つはずもなかった。だが、キルからの攻撃を防御しているうちに、なんやかんやで親しくなってしまい、今はこんなふうに彼女の方から近づいてきてくれる。至近距離で覗き込まれると、ほんのりいい匂いが漂ってきて、気が気ではない。
こんなにかわいくて心優しく、悪いことなんてひとつもしていない女の子を、キルは殺そうとしているのだ。不正を働いているお父さんならともかく……いや、お父さんも殺してはいけないのだが、娘は本当になんの罪もないから、この殺害計画は理不尽にもほどがある。
日原さんとともに教室を横断し、自分の席につく。隣の席の日原さんは、荷物を下ろす俺に、引き続き話しかけてきた。
「アンフェールちゃん、無事に国に帰ったみたいね。王様になれたんだって?」
「うん。その節は本当にありがとう。日原さんがいなかったら、どうなってたことか」
実はこの夏休み、スイリベールという東ヨーロッパの小国から王女が来日し、それが暗殺者に狙われるという事件があったのだが、その際、日原さんはこの王女を匿ってくれていた。彼女は嬉しそうに微笑んでから、少し、神妙な顔になった。
「シエルくんは?」
「うん、あいつもなんやかんや無事だよ。今は日本に住んでる」
「そうなんだ、よかった」
シエルというのは、王女アンフェールの命を狙っていた海外の暗殺者なのだが、この一件はまた別の話なので、割愛する。
そこへ、荷物を自席に置いてきた陸が、こちらに割り込んできた。
「名案を思いついたぞ、咲夜! 宿題、美月ちゃんに見せてもらえばいいんだ!」
陸が数学の問題集を掲げる。
「美月ちゃんは品行方正、才色兼備、当然宿題を終わらせていると見た。夏休み中に終わらせられなかった計画性のない俺たちに、救いの手を差し伸べてくれるに違いない」
「あー、ふたりとも、宿題やってこなかったんだ! だめだよ、見せてあげないよ」
日原さんが容赦なく、陸の希望を打ち砕く。陸ががくっと項垂れた。
「ですよねー。見せてもらえたら最高だと思ったけど、美月ちゃんは品行方正、才色兼備だからこそ、不正に手を貸すなどしない」
「分かってるんじゃん」
俺はアホな陸に笑い、それからハッとした。陸が持っている数学の問題集に、透明の針が刺さっている。見落としそうになったが、窓際の席だったおかげで、日差しで光ったから気がついた。直感で分かった、この針は、ニードルガンから発される毒針だ。
こういうのは、初めてではない。というか、「また始まった」という緊張感が、全身を駆け巡る。
俺はさっと、窓の向こうに顔を向けた。校庭の木を用心深く見てみたが、怪しい点がない。他の植木や別の校舎なども目を走らせたが、「奴」の姿はない。
どこだ、と目を凝らし、もう一度、最初に見た木に視線を戻したときだった。
一瞬、きらっと、閃光が見えた。
俺は勢いよく立ち上がり、日原さんよりも窓際に立って、陸から問題集を奪った。
「ごめん、貸して!」
トス、と、問題集の背表紙に、二本目の針が刺さった。背中がひやっとした。問題集を盾にしていなかったら、日原さんの首筋にこの針が刺さっていた。
こんなことをする奴は、ひとりしかいない。
俺は再び、窓の向こうの木に目をやった。今度はしっかり目視できた。木の葉の中から顔を出す、我が家のペットの姿がある。
キルは以前にもこうして、学校に忍び込んで日原さんを狙っていた。彼女は俺が意図的に阻止したのに気がつき、不満そうに舌を出す。俺はそれをひと睨みし、カーテンを閉めてやった。
俺は陸の問題集から針を二本とも抜いて、陸に返した。
「急に借りてごめんな。答えの冊子、挟まってるか見たくてさ」
適当に誤魔化すと、陸はすんなり納得してくれた。
「ああ、たしか先生が回収しちゃったんじゃなかったっけ」
「そうだったかも。あーあ、写せたら楽だったのに」
「こら、ちゃんとやらないとだめだよ」
日原さんは笑いながら制してくる。俺は内心、この笑顔を守れてよかった、と安堵していた。
キルの犬耳フードの外套は、彼女の暗殺者としての最大の武器のひとつである。中に暗器を忍ばせているだけでなく、光学迷彩の特殊繊維でできていて、光の屈折で姿を消すことができるのだ。あくまで目の錯覚程度ではあるが、こうして木の中にいるのが見つからないくらいには、風景に溶け込んでしまう。
キルの狙撃によって、俺は宿題どころではなくなった。夏休み中に日原さんを殺せなかったキルは、こうして学校にやってきて、日原さん殺害のチャンスを窺っているのだ。キルがうちに来たばかりの頃もこんなことをされたが、日原さんは持ち前の運のよさで回避した。俺自身も、日原さんをひとりにしないように話しかけたりして、キルの邪魔をしていた。
今回も当時と同じく、日原さんに張り付いて警護しようかとも考えたが、やはり考え直す。キル本人を捕まえた方が、確実だし安全だ。
陸が問題集を団扇代わりに、ぱたぱた扇いでいる。
「ええと、まず始業式だろ。で、次が数学だから、それまでに問題集を片付けないとな。化学はまだ余裕があるが、ダークホースは読書感想文か」
「読書感想文は、始業式の前に集めるって言ってなかった?」
日原さんが言い、陸がぎょっとおののく。
「マジで!? じゃあこれは確定で間に合わない。腹を括ろう、咲夜」
ふたりの会話は、殆ど耳に入ってこなかった。俺は椅子を立ち上がり、教室を飛び出した。陸の声が背中に届く。
「咲夜!?」
「すぐ戻る!」
それだけ言って、廊下を走る。なりふり構っていられない。今すぐにでも、キルを捕まえるのだ。
スマホも鞄も教室に置いてきてしまったし、キルを捕まえる算段もない。校庭に出るころにはもう移動しているかもしれないし、入れ違いでキルの方が教室に接近するかもしれない。そんな懸念もあったけれど、今は夢中で、校庭へ向かった。
校庭では、運動部が朝練に励んでいた。始業式が始まるぎりぎりまで、こうして鍛錬を積んでいる。走りこみをする彼らを尻目に、キルを捜す。
ふいに、校舎の外壁のパイプを伝う、白い影を発見した。直径十センチないくらいのパイプを足場に、二階の窓の高さを平然と歩いている。あまりに危ないところにいるので目を疑ったが、人間らしからぬ動きをするキルなら、平気でああいうことをする。
「キル」
下から呼びかけると、キルはちらっとこちらを見た。
「サクてめえ、さっきはよくも邪魔しやがったな」
「しないわけないだろ、次やったら今日の夕飯抜きだからな」
「うぐ……お前はすぐそうやって私を揺する。食べ物で釣るのは汚いと、自分で思わないのか?」
食欲の権化であるキルは、食べ物で交渉すると簡単に揺らぐ。殊に、彼女は俺の手料理が大好きだ。
「今日のごはんはポークソテーの予定だったんだけどなあ。おいしいタレのレシピと肉を柔らかく焼くコツ、陸から教えてもらって、今日はそれを実践するつもりだったんだけどな」
煽る俺に、キルはパイプの上で震えて悶えた。
「あううう、聞いただけでよだれが溢れてきた」
「キルに食べてほしかったな……。なんだかんだ言って、俺の料理をいちばんおいしそうに食べてくれるの、キルだからさ。いっぱい食べるし、食べてるときの顔、かわいいし……でもそうか、お前は俺より日原さんを選ぶんだな」
今のは少し、わざとらしかったか。キルはごくっと喉を鳴らし、狭いパイプの足場で座り込んだ。
「お、おお……ポークソテー……」
「なあキル、今からでも遅くない。日原さんを狙うのはやめないか。この案件から降りてくれるなら、俺は毎日だって、キルのリクエストを聞いてキルのためにごはんを作る」
俺がひと押しすると、蹲っていたキルはゆっくり、顔を上げた。分かった、と言ってくれるのを、期待したのだが。
俺を見下ろすキルの表情は、悪魔のような笑みだった。
「ヘッタクソなプロポーズだな、サク。なんと言われようと私は殺し屋だ。お仕事優先なんで、美月の命はいただくぜ」
「だめかー!」
食べ物で釣った上に情で訴え、さらに追加条件を出したのに、それでもキルは仕事を選んだ。このままパイプを伝って教室に侵入されたら、いよいよ日原さんが危ない。俺が教室に戻ったって、外壁を上るキルには追いつけない。
と、思った矢先だった。
「はわ。はわわわ」
キルがなにやら間抜けな声を出し、腕をわたわたさせている。
どうも足を踏み外したらしい。絶縁手袋を嵌めたキルの手が、校舎の壁を引っ掻く。しかし掴まる先もなく、キルは真っ逆さまに滑り落ちた。
「キル!」
俺は反射でキルの落下地点に飛び込み、腕を伸ばした。キルの軽すぎる体がすぽっと、俺の腕の中に納まる。キルは大きな目を見開いていて、俺を見上げて呆然としていた。
「おお、ナイスキャッチ」
「よかった……もうあんなとこ上るなよ」
「別に、サクが受け止めてくれなくても、受け身くらい取れる。逆にお前が真下にいたから、着地点を見誤ってだな」
俺に抱っこされているくせに、キルは生意気に言い訳を並べた。俺はそんな彼女を下ろしてやるでもなく、むしろぎゅっと、自分の胸に抱き寄せた。
そして一気に、校舎沿いを走り出した。
「は? うわ!? え!? おい!」
キルが困惑して暴れるが、生憎こいつは動きが素早いだけで筋力では俺に劣る。しっかりホールドしてしまえば、簡単には抜け出せない。
「おいサク! 離せ、下ろせー!」
「折角捕まえたんだ、逃がしてたまるか!」
幸い、キルは体重が軽い。陸なら片手で担ぐほどだ。キルを抱えたまま全力疾走して、俺は校舎の脇の体育倉庫を見つけた。外開きの戸が全開になっているそこへ、キルもろとも飛び込む。
中に重ねてあった高飛び用のマットにキルを放り、俺は戸を閉めた。キルが青い顔で目を剥く。
「貴様、私を閉じ込めるつもりか」
「仕方ないだろ、キルが大人しくしててくれないんだから」
放課後、日原さんが無事に帰宅するまで、こいつをここにしまっておく。
キーンコーン、と、予鈴が鳴るのが聞こえる。あと数分で、体育館で始業式が始まる。
キルはマットの上で胡坐をかき、肩を竦めた。
「でもお前、バカだな。なんで自分も入ってるんだよ」
「それは……そうだな」
キルだけ放り込めばよかったのに、勢い余って俺まで入ってしまった。俺はキルが脱走しないよう、背中で戸を押さえつけた。
「まあいい、キルを縄で縛り付けてから、俺だけ出て行けばいいんだからな」
ここは体育倉庫だ。ロープなんかも、捜せば見つかる。キルが怪訝な顔をした。
「サクに私を縄で縛るなんて、できるのか?」
「でき……たら、とっくにやってる……」
キルは、常人にはついていけないような動きでちょこまか逃げ回る。こいつを拘束しておくなど、そんなことができたら、はじめから縛って日原さんに近づけないようにしている。
それにキルは、恐ろしくすばしっこい。俺がロープを取りにこの戸の前から動こうものなら、キルが先に戸を開けて脱走する。
「まあいい。俺だけ出て、外から戸になんか重いもの立てかけて、出られなくしてやる。で、職員室から鍵持ってきて、完全に封じてやるからな」
「ふうん。サクが戸を開けた瞬間、出て行ってやるがな」
キルは挑発的にニヤニヤした。
俺は戸に背中を預け、考えを巡らせた。キルが戸を押し開けられないほどの重いものなんて、近くにあっただろうか。あったとして、それを戸の前に運んでくるまでの間に、キルに脱走される。どうやって切り抜けるか……と、そのときだった。
カチャンと、俺の背後で軽やかな音がした。
「え?」
俺が口をつき、キルは絶句する。振り返って戸のノブをガチャガチャ回してみたが、開かない。
「やべ……外から鍵、かけられた」
多分、朝練に勤しんでいた運動部員だ。俺は戸を叩いて、外に向かって呼びかける。
「おーい、誰か! 開けて!」
しかし、始まろうとする始業式へと、部員たちも慌てて出向いてしまったのだろう。返事はないし、外に気配もない。
数秒立ち尽くしていると、後ろからキルの弾んだ声が聞こえた。
「ほほー、やったじゃんサク。私を閉じ込めたな」
顔を向けると、マットの上で脚を組むキルが、意地悪く笑っていた。
「自分も閉じ込められてるけどな! バアーカ!」
「言い返せない……!」
膝から崩れ落ちて、俺は床に座り込む。
「どうすんだよ。スマホ、教室に置いてきたから、陸とかに連絡とれないし……」
夏休み明け初日から体育の授業があり、そしてそのクラスがこの倉庫を開ける確率は、どれくらいだろう。放課後になったら、また運動部が開けるだろうか。そうだとしても、それまで俺はキルと一緒にここに閉じ込められていなくてはならないのか。
項垂れる俺を可笑しそうに見下ろし、キルは余裕綽々だった。
「はははは、おっかしー。あっ! 私、今、密室でお年頃の男の子とふたりっきり? やば、ドッキドキじゃん」
「こっちは密室で暗殺者とふたりっきりでドッキドキだよ」
キルのターゲットは俺ではないし、むしろ彼女の生活を保障する立場にあるので、殺されないのは分かってはいる。でも、人を殺せる武器を引っさげ、これまでもいちいち数えていないくらい人を殺してきた奴と、密室に閉じ込められてしまったのだ。……まあ、それは自宅に住まわせている時点で、今更なのだが。
こんなことをしているうちに、本鈴が鳴った。始業式が始まってしまった。
気を取り直して、俺は倉庫の中を見回した。狭い倉庫の中は、乱雑に物が詰まれ、狭い空間をより狭くしている。壁際に備品棚があり、小物が乱雑に収納されている。床にはキルが乗っている高飛び用のマットをはじめ、得点板や三角コーンや石灰、各種ボールやラケットなど、ごちゃごちゃである。
左右の壁には、五十センチ程度の幅の小さなガラス窓がある。開閉はできない嵌め殺し窓で、そこから差し込む光だけが、この倉庫の明かりになっていた。
キルが俺に話しかけてきた。
「サク、スマホを教室に置いてきたと言っていたね」
「うん」
「そんな愚かな我が飼い主に朗報。有能なペットはなんと、通信機を装備している」
「あ!」
俺は勢いよくキルを振り向いた。
「そうじゃん! キルの耳に、通信機ついてるんだった!」
フードの中に隠れたキルの左耳で、金色のイヤーカフが煌めいた。
暗殺者組織フクロウは、独自の技術で開発した便利なアイテムを多数、暗殺者たちに支給している。キルのイヤーカフ型の通信機も、そのひとつだ。同じ通信機同士はもちろん、一般的に普及しているスマホや固定電話とも通話できる優れものだ。キルは暗殺者として、ターゲットである日原さんの連絡先を入手しているし、陸の番号も知っている。助かった、キルが助けを呼んでくれれば、ここから脱出できる。
「よしキル、今すぐ陸を呼んでくれ」
「おっと。まさかお前、タダで助けてもらえると思ってないだろうな」
キルが左耳のイヤーカフに手を添えて、にやりとする。俺は息を呑んだ。
「え、条件があるのか? キルだって閉じ込められてるのに?」
「私は被害者だぞ。サクがこんなことしなければ、閉じ込められたりしなかった。それで私に助けてもらおうだなんて、虫がよすぎる」
「お前が日原さんを殺そうとしなければ、俺もこんなことしなかったんだけど」
「言ってろ。どっちにしろ、通信機でりっくんを呼べるのは私だ。この場の主導権は私にある」
認めたくはないが、そのとおりだ。仮に俺がキルからイヤーカフを奪ったとしても、謎技術の謎通信機だから、操作の仕方が分からない。この状況は、キルが圧倒的に優位である。
「……条件は?」
素直に交渉に応じる。キルは満足げに目を細めた。
「そうだなあ、今日のポークソテー、たーっぷりサービスしてもらおうか。肉の枚数マシマシ、タレもマシマシ、お肉で進んじゃう白いごはんもマシマシだ。そして今後、私のリクエストを聞いて私のためにごはんを作れ。お、プロポーズじゃないぞ。お前を奴隷にしてやるって言ってるんだ」
ウキウキな声で自分に都合のいい条件を並べている。なんと言われようと、断る道などない。
「分かりました……キルの仰せのままに」
「うんうん、物分かりがいいな。で、条件はそれともうひとつ」
キルはフードの中で、笑った口から牙を覗かせた。
「日原美月に関する、知ってる情報を全部吐け」
「な……」
こいつ。この状況を利用して、ここまでするか。俺は一瞬言葉を呑み、そして言った。
「なにも知らない……」
「は?」
「言い逃れじゃない。本当に知らない。日原さんがかわいくて頭がよくて性格もよくて、大学病院の院長の娘ってことくらいしか。だってお近づきになれないくらい尊い存在だったから、キルでも知ってることしか俺、知らない」
事実、日原さんと親しくなったのはキルが現れて以来だ。予め情報収集していたキルの方がよっぽど、日原さんに詳しい。キルもそれは分かっているみたいだ。
「今に今って話じゃない。今後入ってくる情報を全て明け渡せと言ってるんだ」
「そんなに親しくなれると思うか?」
「それも期待してない。私が求めているのは」
キルは一旦。そこで呼吸を置いた。
「りっくんから得る情報だよ」
「陸……?」
幼馴染みで親友の、陸。彼も日原さんをアイドルのように拝んでいるが、彼も俺と同じく、日原さんとは適切に距離を保っている。ぽかんとしている俺を見下ろしていたキルは、やがて痺れを切らした。
「ああもう! 一から十まで説明しないと分からないか!? スイリベール王朝との関係を洗い出せって言ってんだよ!」
「へ? スイリベール?」
先だっての、王女暗殺の件で散々聞いた名前だ。まだ頭に疑問符を浮かべている俺に、キルは丁寧に説明した。
「りっくんはスイリベール王朝のSP部隊に所属する軍曹なんだろ。そのりっくんが、美月の暗殺を企てていた。つまり美月、というより日原院長やそこと繋がりを持つ安井議員は、スイリベール王朝にとっても都合の悪い存在だったといえる」
「ん? え?」
先程までお夕飯のリクエストの話をしていたと思ったら、急に規模が大きくなった。陸が王朝SPだとか言い出して、意味が分からない。数秒の困惑ののち、俺はあっと声を上げた。
「インターギャラクティックカスタムⅡか! あれ冗談だよ。まだ信じてたのか!」
あまりにもくだらない冗談だったので、思い出すまでに時間がかかってしまった。
夏休みに海に遊びに行ったとき、陸は自分でカスタマイズした水鉄砲を持参していた。その水鉄砲、インターギャラクティックカスタムⅡが、スイリベール王朝のSPのみが所持している特殊加工の拳銃とデザインが酷似していたらしく、陸にSP疑惑がかかった。陸も否定してくれればいいのに、面白い遊びが始まったと思ってしまい、喜んでSPごっこを始めてしまったのだ。
もちろん、陸は外国の王朝SPなどではない。一般的な、日本の男子高校生だ。幼馴染みで親友で、傍で見てきた俺が言うのだから間違いない。
「あれはただの水鉄砲だって。嘘だと思うなら陸から借りてバラしてみなよ」
「王朝SPが簡単に拳銃を差し出すと思うか?」
「だーかーらー、SPじゃないって! あいつは一般人!」
「そんなわけあるか! サクだって、間近でりっくんの動きを見てきただろ。逃走する私を捕まえたり、罠を解除したり、ラルの誘惑にも惑わされなかったり」
キルの言うとおり、陸の行動には何度も驚かされている。でもキルを捕まえられたのは単にあいつの運動神経が抜群だからだし、罠を解除したのも単に器用だからだし、誘惑に惑わされないのは、惑わされているものの単に奥手だからだ。
キルはさらに、神妙な顔で言った。
「さっきだって、私が放った毒針を問題集で受け止めて、美月殺害の妨害をした。私が木の中に隠れているのを、りっくんはサクより先に見抜いていたんだ」
たしかにあれはファインプレーだったが、それだって偶然だとしか説明できない。キルは眉を寄せて、唸った。
「以前りっくんは私に、自分の狙いは美月だと零した。りっくんからすれば美月は自分の獲物だから、私には獲らせない」
それも、俺と陸と日原さんが集まって勉強会をしたとき、陸が日原さんと親しくなる目的で近づいた、という意味合いで言った言葉である。陸は日原さんを狙う暗殺者でも、それを兼任する王朝SPでもない。
キルはため息まじりに言った。
「りっくんはスイリベール王朝の専属SPでありつつ、日本で美月の暗殺を謀っている。つまりスイリベールという国と、日原院長や安井議員周辺に、なんらか関係があるってわけ」
「ないと思う」
なぜならそれは、陸の冗談とキルの勘違いで形成された情報だからだ。しかし俺がなんと言おうが、キルは取り合ってくれない。
「この件に関しては、依頼人と直にやりとりしたエージェント、すなわちミスター右崎も知らないそうだ。スイリベールの王女……いや、今は国王であるアンフェールの暗殺を担っていたシエルにも聞いてみたが、あいつもなにも知らなかった。なんか新しい仕事を任されたみたいで、忙しくしててろくに話もできてないけど」
彼女は難しい顔で続ける。
「ラルに諜報活動を任せてるけど、そっちも今のところ大きな動きはない」
「そうでしょうよ、だってなんの関係もないんだろうし……」
「私自身もりっくんと仲良くなったし、仲間に取り入れて、情報の共有を図った。しかしりっくんはあれでいて適切な間合いを取る。殺し屋に仲間なんて必要ない、裏切りのリスクを考えたら協力関係にない方がいいと、割り切っているんだ。私が近づいても、情報を吐く気配がない」
「だって一般人だもん……」
「そこでサク。お前だけが頼りだ」
キルがふわりと、マットから飛び降りた。
「お前はりっくんの親友なんだろ? りっくんの方も、幼い頃からサクを見ていて、信頼が厚い。海に出かけたときにサクがエージェントの息子だと知って驚いてはいたが、その後も接し方が変わってない。上辺だけの可能性もあるが……私は、サクとりっくんの友情に賭けたい」
彼女は座っている俺の前に立ち、真剣な瞳で言った。
「親友相手になら、ぽろっと情報を洩らすかもしれない。だからサク、無垢な善人のふりをして、りっくんから情報を引きずり出せ。スイリベールと日原の関係を、徹底的に暴く」
キーンコーン、と、遠くからチャイムの音が聞こえる。始業式が終わったみたいだ。
俺はしばらくキルの童顔を見上げ、呆然としていた。
「無理だ。できない……」
だって、陸は本当になんの関係もないのだ。どんなに鎌をかけたって、なにも出ない。キルは俺を見下ろし、冷徹な殺し屋の目で言った。
「できないじゃねえ。やれ。殺し屋一家に生まれておいて、命を慈しんできたサクだろ。善人ぶるのは大得意じゃん。今更親友を騙せないとか、腑抜けたこと言ってんじゃねえぞ」
そうじゃない。火のないところに煙を立てろと言ったって、無理だと言っているのだ。
キルは外套の中に手を突っ込み、そして拳銃を抜いた。その銃口を、俺の額に突きつける。
「拒否権はないはずだ。助けを呼んでほしかったら、『はい』とだけ答えろ」
キルのこういう脅し方を見ると、彼女が殺人を生業としているのを実感させられる。キルは俺を殺さない。分かっているのに、体が強ばって、背中に冷や汗が伝う。
喉の奥から、微かに声が出た。
「はい……」
俺の返事を聞くなり、キルはニッと片頬を上げた。
「いい子だ」
静かな倉庫にすっと、彼女の囁きが消える。鳥肌が立った。密室で暗殺者とふたりっきりで、ドッキドキ。自分で言った言葉が、今になってやけにリアルに感じられる。
「いよっし、約束どおり助けを呼んでやろう。これ以上、お前に求めるものもないしな」
キルは拳銃を振り上げて万歳し、俺から離れた。普段どおりの元気な表情に戻ったキルが、左耳のイヤーカフに手を当てる。俺は床に座ったまま、無言でその姿を眺めていた。
気迫に押し負けて「はい」と答えてしまったが、よく考えたら、特に問題はなかった。キルの要望は、陸から情報を引き出すよう努めろというものだ。しかもその方法は、善人のふりをして、親友の立場を利用すること。つまり俺はいつもどおり陸に接すればいいし、陸は別になんの情報も持っていないのだから、成果を得られなくて当然なのである。となれば、俺はせいぜい、今晩のポークソテーをキルにサービスし、キルの気が済むまで夕飯のリクエストを聞いてやればいいだけである。
キルがイヤーカフに手を添えて、応答を待っている。なかなか繋がらない。始業式が終わって、そろそろ授業が始まる頃だろうか、陸も電話に気づけない状況なのかもしれない。
やがてキルの顔から、すっと血の気が引いた。
「……まずいことになった」
「なに?」
「バッテリー切れだ……」
キルのそれを聞いて、俺も青くなった。数秒の沈黙ののち、がしっとキルの肩を掴む。
「バッテリー切れって、イヤーカフが!?」
「ここのところ充電サボってたからさ……今、コール中に完全に切れた」
頼みの綱だったキルの通信機が、使い物にならなくなった。それまで余裕たっぷりだったキルが、急にへっぽこになる。
「わああん、サクー! どうしよう、誰かが気づいてくれるまでこのままだよお! 美月殺せないよお!」
俺に飛びついてきて、首に手を回してくる。サイズ感覚がまひると変わらないので、俺は思わず手癖で彼女の背中をぽんぽん撫でた。
「落ち着け! 暑い! 日原さん殺すな! そんでもって約束破ったから、さっきの取引は白紙!」
背中を撫でて宥めつつも、口では手厳しく接する。キルはしばし俺に体重を預けていたが、しばらくすると、体を離した。でも、手は肩に置いたままである。
「ねえ、本当にどうする? このまま何時間もここにいるの、私、我慢ならないよ」
「そうだな。脱出の方法、考えるか」
まだ気温が高いし、ずっとここにいたら熱中症になってしまう。俺とキルは、お互い少ない脳味噌で知恵を出し合った。
「窓から出られないかな」
キルが壁の窓を見上げる。俺は少々唸り、備品棚を上って、窓に顔を近づけた。しかし窓ガラスは、壁に嵌め込まれていて開閉できるタイプではない。
「だめだ、やっぱ嵌め殺し」
俺はまた備品棚を足場にして、床に下りた。
「キルの武器を上手く使って、どうにかできないかな。例えば、ピッキングできるものはないかとか……だめか、この倉庫の鍵は外からじゃないといじれない」
「うーん、建物ごと爆破してやりたいが、生憎それほどの火力がある爆発物は、必要なときしか持ち歩かないんだよな」
「そもそも爆発なんか起こしたら、中にいる俺たちも巻き込まれるんだけど……」
「今持ってるのはナイフと、ハンドガンと、毒針入りのニードルガンと……」
話しながら、キルが腰に垂らしたポーチのファスナーを開けた。犬の尻尾みたいな、ふわふわしたポーチで、キルは外套の中とこのポーチの両方に所持品を格納している。
まひるが犬と見間違えるような犬耳の外套と、犬尻尾のポーチ。ファンシーでかわいらしい装備の中から、刃物や銃がゴロゴロ出てくる。キル自身も小さくてかわいいのに物騒なので、なんというか、こういう生き物なのだと思い知る。
床に散らばった武器を眺め、俺はひとつ提案した。
「この拳銃で、窓を割れないかな」
先程、俺の額に突きつけられていた拳銃だ。これで壁の嵌め殺し窓を破り、そこから外に出る作戦だ。
「こんな倉庫の窓が防弾ガラスではないでしょうし、弾が実弾なら割れるんじゃないか? 窓が小さいけど、キルなら潜れると思う」
「ふむ。悪くない」
キルも拳銃を一瞥し、壁の窓ガラスを見上げた。
「そんじゃ、私が窓を割ってここから出る。そんで、助けを呼ぶなり鍵を入手するなりして、サクを出してやる」
「それで行こう。弾の数は?」
「五発。予備はない」
キルの真剣な眼差しが、俺を射抜く。
キルほどの暗殺者なら、動かない的を狙撃するなど容易い。たったの五発でも、キルが出入りできるくらいに、穴を広げられる。
「行くぜ」
キルは力強くそう言うと、散らかした武器を再び外套に忍ばせた。ただ、拳銃だけはしまわず、そのまま窓に向かって翳す。
暗殺向けの、サプレッサーつきの拳銃だ。銃声も閃光も殆どなく、ただピシャッと、窓のド真ん中が砕ける音だけがした。
もう一発、さらにもう一発と、キルが引き金を引いていく。右上、今度は左上と、ガラスは見事に割れ、最後には割れ残しは殆どなく、ただ窓の形に枠が残っただけとなった。俺はつい、キルに拍手を送った。
「すげえ。かっこいい」
シンプルに褒めると、キルは一瞬面食らった顔で俺を一瞥し、そして偉そうにぺたんこの胸を反らせた。
「恐れ入ったか! これがフクロウ現役最強クラスの凄腕暗殺者の実力だぜ」
「こういうときは本気で頼りになる!」
冗談でもおべっかでもなく、純粋にすごい技術だと思う。
ひとしきり褒められたキルは、拳銃を外套の中に収納し、備品棚に飛び乗った。棚板を梯子代わりにしてするすると上っていき、窓に到達する。くりぬいた窓の枠は狭いが、小さな体のキルなら、すり抜けられそうである。窓枠に手をかけたキルが、こちらを振り向いた。
「じゃ、ひと足お先に失礼するぜ」
そして外から差し込む光の中で、ニヤッと笑う。
「サクはそのまま、放課後までそこにいな。私はお前の妨害を受けず、美月を清々殺してくるぜ!」
「てめええ! 裏切ったな!」
俺は即座に備品棚を駆け上がり、キルの胴体を引っ捕まえた。体の半分を外に出しかけていたキルだったが、俺の体重に引っ張られ、上体が窓から零れ落ちる。俺はキルを抱えて壁を蹴り、マットの上に仰向けに落下した。キルの腰は、離していない。俺の腹の上で同じく仰向けのキルは、手足をばたばたさせてもがいた。
「離せ離せ! 美月殺すんだ!」
「一瞬でもお前を信頼した俺がバカだった! そういう魂胆ならお前も放課後まで道連れだ!」
ぎゅうっと腕に力を入れると、キルはぐわあと悲鳴を上げた。
「苦しい! くそ、挑発しなきゃよかった! 暗殺者の魂が覚醒したサクの動きが、ありえないほど速いのを忘れていた!」
キルいわく、なんらかの目標に一点集中したときの俺は、普段の様子からは考えられないほど素早く、正確に動くらしい。知ったこっちゃないが。
しっかりホールドしていても、暴れるキルを完全には押さえ込めない。もぞもぞやっているうちにキルはいつの間にか腹ばいになり、腕から抜け出そうと身を捻った。勢いに引っ張られて俺も転がったが、横寝の姿勢になっただけで、キルを離してはいない。
キルが転がる度に、姿勢が変わる。キルは抵抗してきて、俺の腕に噛み付き、短い脚で鳩尾を蹴ってくるが、こちらもキルを脚で固定したり羽交い絞めにしたりして、キルを逃がさない。うっかり腕を離してしまっても足首を引っ掛けて転ばせ、再び掴んで引き寄せる。
「だああ、もう! 離せ! 毒針ぶっ刺されてえのか!」
キルが怒鳴った、そのときだった。
カチャッと音がして、閉ざされていた戸が開いた。俺とキルの取っ組み合いが、一瞬、止まる。開け放たれた戸の向こうでは、呆然とした顔の体育教官が、俺たちを見上げていた。
*
その後、俺は教室で陸に死ぬほど笑われた。
「咲夜、お前……! 読書感想文の提出が間に合わないからって逃走して、体育倉庫に篭城して、しかも従姉妹と遊んでたって! もう伝説だよ、お前!」
決してそんな事情ではないが、説明するのも面倒なので、そういうことにした。
始業式が始まっても帰ってこなかった俺を、陸と日原さんは心配していた。スマホは教室にある鞄の中で鳴っているし、休み時間に校内を捜しても見つからない。そんな中、二限の途中くらいに、体育教官の通称ゴリ岡が、窓ガラスの割れる音を聞きつけた。そして体育倉庫の脇にガラスが飛び散っているのを見つけ、俺たちを発見したのだという。
当然ながら、俺とキルは体育教官室に呼ばれ、こっぴどく叱られた。取っ組み合いをしたせいで制服も体もぼろぼろだし、めちゃくちゃ怒鳴られたし、反省文まで書かされる有様だ。キルの方も、まず不法侵入から叱られ、おうちに強制送還された。その後再び学校に戻ってきた様子はないから、今日のところは懲りたのだろう。
陸に笑われて不貞寝する俺を、日原さんも堪えきれずに笑っている。日原さんが無事で、その笑顔を見せてくれるのなら、俺はもうなにもかもどうでもよかった。
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