「あの時は本当に、変なお願いをしてしまって」

 彼女はそう言うと、また、あの時のように深々とお辞儀をした。ぼくもつられるように、座卓越しにお辞儀を返した。

 「メモはもう、とっくに捨てていらっしゃると思っていました。」

 「いえ・・・あの、そうだ、すみません、こちらこそ、突然来たりしてしまって。」

 「いいえ、来て下さって嬉しいです。」

 そして彼女は、今日はたまたまおやすみで本当によかった、と言った。デパート勤めなので、休みは基本平日なのだそうだ。

 「ひとりで住んでいますから、留守でしたら誰もいないところでした。」

 「おひとりですか。」

 「はい。」

 ここは彼女の育った家だが、残っているのはもう彼女だけだと話してくれた。でも玄関に鍵がかかっていなかった。不用心では、と言うと、夜にはちゃんと鍵をかけると言う。そういう問題だろうか、とぼくは思ったが黙っていた。

 「・・・あのひとには」

 ぼくが切り出せずにいるのを見抜いたかのように、彼女は言った。少し困ったような笑顔になっていた。

 「あれきり会えないままです。」

 そしてさらにぼくの疑問を読んだかのように、会えれば会えた方がいいんですけど、と小さく続けた。


 あの時彼女は、あのひと、がどんな人なのか、ぼくに話した。ここまで話しておけば、見ればわかるという口ぶりだった。

 あの時本当に、彼女がそう思っていたのかどうかぼくにはわからない。

 ぼくが、そのひとを見たらわかると自分でも思っていたかどうか自信もない。

 彼女はそのことも思い出したようで、あんなお願い、無茶でしたよねえ、とまた笑って言った。

 そして、本当にすみません、と笑顔で言ったが、その笑顔がちょっと、明るくなったようにぼくは思った。


 縁側のむこうには、草がいっぱいに生えている庭が少し見えた。

 手入れが行き届かなくって、と彼女は言ったが、庭は荒れているようには見えなかった。

 濃い色の花が数輪覗いていた。


 

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