麦茶

 見れば彼女はどうやら切れた鼻緒を直していたところのようだった。

 まずい、ぼくは鼻緒なんか直せない。

 妙なところでどきまぎしていると彼女は急に安心したような顔になり、すみませんが、と言い始めた。

 「ごめんなさい、肩を貸してくださいませんか。片足ではバランスが取れなくて・・・。」

 ぼくは言われたとおり、傘を差し掛けたまま、彼女のすぐそばにしゃがんみこんだ。彼女の小さな肩がぼくの肩に寄りかかり、 彼女はそうして身体を支えて、あっという間に切れた鼻緒を直してしまった。

 「ありがとうございました。」

 傘から出て深々と彼女がお辞儀をするので、ぼくは慌ててふたたび彼女を傘に入れた。彼女は顔を上げて、少し笑って・・・それからぽろぽろと、笑ったままで涙をこぼした。


 ぼくは完全に固まっていた。

 そんなぼくを見て、彼女は済まなさそうに照れた笑顔になり、白い指で涙をぬぐって、顔を背けた。

 雨は音もたてない。

 「あのひとが」

 「え?」

 「あのひとがここにもいなくって」

 「あのひと。」

 「・・・ここにお住いの方ですか。」

 「いえ、旅行で・・・。」

 「いろんなところに行かれるんですか。」

 「ええ、まあ。」

 「では」

 彼女は、濡れた目でぼくを見て、言った。

 「あのひとを見たらわたしに手紙を下さいませんか。住所を書きますから・・・どうか。」


 彼女はぼくが持っていたメモ用紙に住所を書くと、一礼して、また傘から飛び出そうとした。

 「あの、送ります。」

 「いえ、いいんです。姉のうちがすぐそばですから、走って行きます。不躾なお願いでしたのに、ありがとうございました。本当に助かりました。」

 「いえ、あの・・・・。」

 「ありがとうございました。それでは。」

 と言い残して彼女は、まだやむ気配もない雨のなかに駆け出していった。和服の女性相手だというのに、ぼくは彼女を追うこともできなかった。追えば必ず追いつけたのに。

 四つ辻で彼女は足を止め振り向くと、もう一度お辞儀をして、それから角を曲がった。

 もうずいぶん水を含んでいた彼女の髪が、いくぶん重そうに彼女に張り付き始めていたのがぼくにわかった。


            ・ ・ ・ ・ ・


 彼女はぼくをうちに上げてくれて、畳敷きの広い客間に明かりを入れ、重そうな座卓の前に夏の座布団を置いてくれて、そこを勧めた。

 茶托に乗ったガラスの器に香りの立った麦茶を注いで出してくれたのを思わず三分の二ほど一気に飲んでしまったら、彼女は微笑んで、冷蔵庫から出したままのような麦茶の容器を持ってきてぼくの器につぎ足し、暑かったでしょう、と言って、麦茶の容器はそのまま自分のわきに置いた。


 

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