雨の日に

 「ごめんください。」

 ぼくの声に返事はなかった。

 「ごめんください。」

 どうしたわけか、ぼくの手は、目の前の引き戸を引いていた。

 あとから思えば驚いたことだが、引き戸はあっさりと、そのまま開いた。開くと同時に、呼び鈴のような音が響いた。


 「ごめんくださあい。」

 さすがに三和土に踏み込む勇気はなくそのまま立っていると、

 「はあい。」

 と、奥から声がした。

 声の主がはだしで廊下を歩いてくる音がする。

 出て来たのはひとりの女性で、地味な色合いの、涼しそうなワンピースを着ていた。薄暗い玄関の間で、彼女の白い肌がほんわりと光を放っていた。

 彼女はぼくの姿にやや戸惑ったようだったが、二の句も次げずに立ち尽くしているぼくの顔を突然ふっと思い出したようで、

 「あら。」

 と言って、少し笑った。


             ・ ・ ・ ・ ・


 彼女に遭ったのは三年前の、春も進んだ頃のことだった。


 彼女が住む町からバスで2時間ほど行った、そこも歴史のある城下町をひとり歩いていたところ、急に雨に見舞われた。

 ごくごく細かい水滴がふんわりと満ちるように降るこぬか雨は、それでも油断すると全身びっしょりになってしまう。

 ぼくは、今日は必ず雨が降る、と、宿の人が持たせてくれた傘を、有り難く差して歩いていた。

 道にはほかに誰もいなかった。


 雨で視界にややフィルターがかかる。

 その中、ぼくの目は、何やら赤い塊を認めた。

 それは、古い家並みが続くからっぽの道のはじに、うずくまるようにした、人の後ろ姿だった。

 どうやらそれは女の人で、今どき珍しく、赤い和服を身につけていた。

 ぼくは足早にその人に近づいて、ふと傘を差し掛けた。

 彼女は最初それに気づかないようだったが、はっと振り向いてぼくの顔を見て、やはり驚いた顔をした。

 姉さんと同じくらいの年ごろかな、とぼくは思った。

 降り始めの雨に濡れてきた彼女の着物の、ところどころが濃く湿った色になっていた。


 

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