緑のタクシー
増田朋美
緑のタクシー
寒い日だった。今日も、真冬の寒さであり、富士山ちかくでは雪が降ったという。その日も、由紀子は、水穂さんのことが心配になって、製鉄所へよってみたのであったが。
「こんにちは。」
と、製鉄所の玄関引戸を開けてみると、誰も返事が来なかった。
「あがりますよ。」
由紀子は、製鉄所の建物にはいってみたら、いきなりドドドドッと、走ってくる音がした。走ってきたのは、布団屋の有森五郎さんであった。
「五郎さん、どうしたんですか?」
由紀子が軽い気持ちで、そう聞くと、
「ゆ、由紀子さん、す、すぐに、お、お、いしゃ、さん。」
と、五郎さんは言った。由紀子はなにを言っているのか、わからなくて、
「何を仰ってるんです?」
と、聞いてみたのであるが、
「おい!もったいぶらないでさ、早く電話かけてくれないかなあ!」
と、杉ちゃんの声も聞こえ、同時に水穂さんが、咳き込んでいる声も聞こえてくるので、
「わかりました!私がします!」
と、思わず言ってしまった。五郎さんが、不明瞭な発音で、
「お、お、おねがいします。」
と言って渡した紙切れに書いてあった番号を、スマートフォンをだしてダイヤルした。電話の相手は、柳沢先生だった。由紀子が、水穂さんが咳き込んで大変だというと、すぐ行きますよ、と言ってくれた。
「す、す、ぐきて、くれ、ますか?」
由紀子が電話を切ると五郎さんがいった。
「ええ、来てくれますよ。それより水穂さんはどうしていますか?」
由紀子は、五郎さんに聞いてみたが、
「そ、それが、ぼ、く、にも、わ、かならい、の、です。お昼、の、とき、は大丈夫、だったですが、終った、あ、と、急に、く、るしみ、だして。」
五郎さんの答えは、へんだった。なんだか、おかしな発音なので、由紀子は、理解することができない。五郎さんに、説明をしてもらっていたら、何時間もかかってしまうような気がして、由紀子は、礼もいわずに、五郎さんをはねのけて、四畳半にいった。四畳半には、杉ちゃんがいた。
「なんにも食べないからそういうことになるんだ。もういい加減にしてくれよ!」
そういう、杉ちゃんを由紀子は睨みつけた。布団の上には咳き込んでいる水穂さんがいたが、布団は、吐いた内容物で、真っ赤に染まっている。まるで、赤いペンキをこぼしたときと、同じような色だった。
「水穂さん大丈夫?もうすぐ、お医者さんが来てくれるから頑張って!」
由紀子は、急いで水穂さんの背中をさすって、吐き出しやすくしてあげた。それと同時に、
「失礼いたします。」
といって、柳沢先生が四畳半にやってきた。先生は、赤いペンキで、すぐ何が起きたかわかってくれて、すぐ鎮血の薬を飲ませてくれたので、数分後には、咳こむのは小さくなり、水穂さんは、眠ってしまった。
「あ、あ、ありがとうございます。」
一緒にやってきた五郎さんが、柳沢先生に、れいをいった。
「いえいえ、それにしても今回は酷いですね。一体どうしたんですか?なにか、悪いものを食べさせてしまったとか?」
柳沢先生がそうきくと、
「いやあ、それはありません。逆に何も食べないので、困っていたところなんです。なんでなにも、食べないんだろう。
それくらい、悪いとは思わなかったので。」
杉ちゃんが、ぶっきらぼうにいった。
「何も食べない?」
柳沢先生がそう聞くと、
「はい、なんにも食べてません。悪いものどころか、ご飯も何も食べてないよ。」
と、杉ちゃんがいった。
「も、もしかして、きょ、しょく症にでも、かかった、んでしょう、か?」
五郎さんが、そう聞く。拒食症。由紀子はゾッとした。単にダイエットのし過ぎではなく、深刻な病気であることを、由紀子は、知っていたからである。
「そうですねえ、このあたりは、本人の問題で他人である僕達が、介入しても意味はないと思われるのですが、何よりも食べていないことが問題だと思うんですね。食べないのはきっと、精神的な原因だと思うんです。多分、肉体的に食欲があれば、嫌でも食べたいと言うはずですから。きっと、そういうことだと思います。」
柳沢先生は、腕組みをしていった。
「そうですね、というわけには行かないな。それでは、僕らにしてやれることは、何も無いの?」
杉ちゃんがそう言うと、柳沢先生ははい、といった。
「本人が食べようと思ってくれない限り、食欲は出ないと思います。こういう事は、本当に難しいのですが、なんとかして、食べようという気になるのは、本人次第ですからねえ。」
「まあ、そうなんだけど。僕達は、食べてもらわないと困るわけ。これ以上、悪くなっちまったら、水穂さんに助けてもらった奴らが浮かばれない。」
杉ちゃんの言うとおりだった。水穂さんが、助けた人物は何人いるだろうか。本人は勘定なんてしてないと思うけど、彼は多くの人を助けている。水穂さんにもらった焼き芋で、助かったという利用者は多いと思う。
「まあ、な、んと、かして、みず、ほさん、にご飯を、食べて、もらう、よ、う、呼びかけるしか、な、いのですかね。」
と、五郎さんが言う。確かに、五郎さんは、水穂さんにご飯を食べてもらうように呼びかけるしか無いと言っているのだろうが、由紀子はそれが何となく、腑に落ちなかった。なってしまったものは、受け入れるしか無いというのは確かなんだろうが、由紀子は、五郎さんに言われると嫌な気持ちがする。
「こんにちは!」
ちょうどそこへ、元気な女性の声がした。米山みどりさんである。何も声は聞こえないけれど、もうひとりの人物が入ってきた音もする。多分、米山貴久くんであろう。
由紀子は、この二人も、正直あまり好きではない。なんだか、こういう人の弱みを商売にする人ってどうなんだろうかと思う。人のできないところ、あるいは、実現できない事を、実現させてやる人ということで、周りの人からは、羨ましい目つきで見られるが、彼女たちも障害者であり、援助が必要な人であることに、気がついていないような気がするからだ。
「こんにちは。今日も、大変だったみたいですね。なんだか、日に日に大変になって行くみたいですね。」
みどりさんは、明るい声で言った。そういうふうに、明るい感じの二人は、なんだか嫌だなと由紀子は思うのだ。それに、一緒にいる貴久くんは、言葉を失っている。五郎さんよりもひどいと思う。
「ああ、ご飯を食べないで、困ってるよ。なんで、ご飯を食べてくれないんだろうかって、今、悩んでいたところだ。」
杉ちゃんが、由紀子の代わりに言った。
「そうですか。じゃあ、お願いというか、一つ提案があるんですがね。ご飯を食べないのは、ずっと布団の中にいるためでは無いでしょうか。あたし、いろんな病気の人を見てきたんですけど、皆さん、外へ出て、楽しんででかけていることで、意欲を取り戻す人は多いと思うんです。それは、あたしが勤めていた施設で、よく体験しました。だから、今だって、手伝います。水穂さんを、ストレッチャーに乗せて、ハイエースか何かを手配して、ちょっと、外へ出てみませんか?外へ出て、風に当たって、そうすれば食欲も出るかもしれませんよ。」
みどりさんは、明るい顔でそういう事を言う。
「大丈夫ですよ。あたしが、そういう会社を手配します。そういう会社を、あたしは知っています。あたしが、水穂さんと、そういう人を、お願いさせる、パイプ役になります。」
「そうですか。でも、なにかあったとき、困ってしまいますから、そういう事はしないほうがいいのでは?」
由紀子はそういう事を言うが、
「いいえ、そういうときだって、そういう人は、ちゃんとやり方を知っています。それが、商売というものですから。それでは、行きましょう。水穂さん。あたしが、電話して、そういう会社手配します。」
みどりさんは、急いでスマートフォンを持った。そして、なにか調べ始めた。さらには、楽しそうに、はい、お願いしますなんて話をしている。みどりさんのネットワークは、由紀子が思っている以上に強力なのだと由紀子は思った。
「じゃあ。明日。来てくれるんですね。それでは、よろしくおねがいします。ええ、水穂さんをよろしくおねがいします。」
と、みどりさんはそう言って電話を切った。
「明日、水穂さんを河川敷まで連れていくことになりました。河川敷の、ヒイラギナンテンの森まで連れていきます。あそこなら、観光名所として知られていますけれど、人はあまりいませんから、人目を憚らずに、行くことができます。」
「会社名と、運転手の名前は?」
と、由紀子がそうきくと、
「はい、株式会社、田宮運送。運転手の名前は、田宮光子さんという方です。」
と、みどりさんがそう答えた。
「田宮光子。なんか聞いたことある名前だな。どっかで、聞いたことある名前だと思うんだけど。僕は、テレビ見たこと無いけどさ。なんか聞いたことある名前。」
と、杉ちゃんがそう言った。
「まあ、そういう事は気にしなくていいや。それでは、お願いしような。」
細かいことは気にしない杉ちゃんではあるけれど、由紀子はなにかこの女性になにか言ってはいけないことがあるような気がしてしまったのであった。
「それでは、明日、来てくれますから、本人にも伝えてあげてください。よろしくおねがいします。」
また、そういう事を、言われても不安になる。由紀子は、もし、水穂さんの身分がバレてしまったら、どうなるだろうかと不安にかられた。そういう事は、どうしようもない、不安であるけれど、それを解消するのは、ときがたつのを待つしかないのであった。それは、やってみなければわからないと、言うことでもあるけれど、不安で仕方なかった。
翌日、由紀子は、製鉄所に行ってみた。柳沢先生はいなかったが、米山貴久くんとみどりさんが、水穂さんに出かける支度をさせている。寝たままであっても、水穂さんは、ちゃんと外出用の着物に着替えていた。もしかしたら、みどりさんが、勝手に着替えさせたのかもしれない。
「さあ、もうすぐ10時です。田宮さんが来てくれます。ヒイラギナンテンの森は、静かで空気がきれいですよ。」
と、みどりさんはそういう事を言っていた。水穂さんは、なんだか不安そうな様子だ。
ところが、製鉄所の柱時計が10回なっても、運転手さんは来なかった。みどりさんが、何をしているのかしら、と催促の電話をかけようとしたところ、
「すみません、遅くなりまして。」
と、中年の女性の声がした。
「あら、来てくれるのは、もっとお若い女性だったはずだけど?」
と、みどりさんは、そういう事を言った。
「田宮光子さんではなかったのかしら?」
由紀子は、思わず呟いた。
「それでは、行きましょうか。今日は私が、相手をしますから。さあ、すぐにストレッチャーに乗りましょうね。随分、おきれいな方ですね。それでは、楽しんで行きましょうね。」
と、そう言って入ってくる女性は、若い女性ではなく、中年の、ちょっと落ち着いた雰囲気がある女性だった。
「あの、田宮、、、さんでよろしいんですか?」
と、由紀子が聞くと、
「ええ、そうです。田宮運送の田宮ともかです。」
と、女性は言った。
「ともか?確か、予約をしたときは、ともかじゃなくて。」
と、みどりさんがそう言うが、
「ええ、あの会社は、光子がやっていたんですが、ちょっと事情がありまして、光子ではなくて私が、代理で運転しています。」
と、ともかさんは、急いで言った。
「そうなんですか。それでは、お願いします。じゃあ、ちょっと予定変更ですけど、ちゃんと、ヒイラギナンテンの森まで連れていってください。」
みどりさんは明るく言った。
「わかりました。じゃあ、行きましょう。」
と、ともかさんは、水穂さんをヨイショと抱えあげて、玄関先まで背負って連れていき、用意していたストレッチャーに彼を乗せた。中年女性でも、彼を持ち上げることができるのだから、相当、軽いのだろう。そして、水穂さんを、製鉄所の玄関前に止めてある、ハイエースにのせた。そのハイエースは、緑色だった。何だか、緑の車ってちょっと縁起悪いと由紀子は思った。だって、グリーンスリーブスという楽曲では、みどりは喪の色として使われている。
「それでは、行きますよ。」
と、ともかさんがハイエースのドアを閉めようとすると、
「私も、連れて行ってください!」
と由紀子は急いで言った。彼女は、強引に水穂さんと一緒に乗っていってしまった。ともかさんは、彼女を止めなかった。みどりさんは、連絡係として、製鉄所に残った。
由紀子が、緑のタクシーに飛びのると、緑のタクシーは発車した。ヒイラギナンテンの森は、そんなに遠くないはずであったが、由紀子は、何十分も乗っているように見えた。水穂さんが、外の景色も眺められずに、車の天井ばかり見つめているのを、なんだか由紀子は可哀相に見えてしまうのだった。水穂さんが咳き込んだりしないか、由紀子は慎重に観察を続けた。
「さあ、ヒイラギナンテンの森に着きましたよ。街の公園じゃなくて、郊外の森だから、自然がいっぱいあって、楽しいわよ。」
と、田宮ともかさんは、ヒイラギナンテンの森と看板が設置されている駐車場に車を止めた。確かに、観光名所とされているだけであって、何人か、観光客も訪れている。だけど、大体が、森を好む、若いカップルばかりで、水穂さんのような事情がある人はいなかった。
「じゃあ、ここからは、車椅子に乗って行きましょうね、水穂さん。車椅子はリクライニングできるから、なにかあれば横になれますよ。」
ともかさんは、水穂さんを車椅子に乗せた。確かに、手動の車椅子ではあるのだが、背もたれが倒れるようになっているものであった。
「じゃあ、ヒイラギナンテンの森を一周しましょうね。」
と、水穂さんが乗った車椅子を押しながら、ともかさんは森の中を歩き始めた。
「空気が美味しいですね。こんなきれいな場所が、もっと他にもあればいいのに。」
森は、森と言っても、観光化されている森だ。遊歩道は、車椅子でも行けるように、アスファルトになっている。由紀子は、なんだか水穂さんと一緒に、たしかにともかさんがいるけど、出かけられてとても嬉しいと思った。
「ほら、森の中に、泉があるわ。きれいでしょう。素敵な景色ね。もし、よろしければ、記念写真撮ってもいいわよ。私、こう見えても写真部に所属していたんですからね。」
という、ともかさんは、とても明るかった。こういう仕事をしている人は、みんな明るいのかと思うくらい、みどりさんもともかさんも明るかった。なんで、こんなに明るいんだろうと、由紀子は疑いを持ってしまうほどだった。
「いえ、写真は結構です。森の中を観光できるだけでも、幸せです。」
そういう水穂さんは、なんだか健気に見えるのであるが、無理をして言わないでほしいと、由紀子は思った。
「そうなのね。せっかく来たんだから、写真くらい撮ればいいのに。」
そういうともかさんのスマートフォンがいきなりなった。何だろう?と、由紀子は思った。
「はい、もしもし、ああ、今仕事中なのよ。電話かけないで!」
と、ともかさんはなにか冷たい言い方で言う。誰に電話しているのだろうか。いずれにしても、水穂さんに言っている言い方とあまりにも違うものであった。
「誰に電話かけているんですか?」
由紀子は思わず聞いてみる。でもともかさんは名優みたいに、表情を変えて、
「ああ、娘ですよ。ただ、話しが好きでそういう事を言っているだけのことです。大したことありません。」
というのであった。
「話が好きなんですか。でも、とてもそういうようには見えませんでしたけど。」
と、由紀子は、急いで言った。
「何がですか?あたしたちは、水穂さんを、こちらに連れてくることが、今の役目なんです。だから気にしないでください。」
ともかさんはそう言うが、水穂さんが少し咳き込んだため、すぐに表情を変えた。彼女は水穂さん大丈夫ですか、と、声をかけてやったが、水穂さんは答えなかった。
「このままだと、咳き込んでまた大変なことになると思うから、すぐに出ましょうか。」
もうヒイラギナンテンの森も、八割くらい観光していたから、いいと思ったのか、ともかさんは急いで、彼の車椅子を押して、緑のタクシーに彼を戻した。すぐにストレッチャーに乗せて、背中を擦ったり、叩いたりして内容物を、吐き出しやすくしてやったりしなければならなかった。確かに、そういうところにはなれていると、みどりさんの言うとおりだった。ともかさんは冷静だったし、由紀子がどうのこうのと手を出したりする事はなかった。でも、由紀子は、心配で仕方なかった。やっぱりこの計画は、行けないことではないかと思ったのである。
「薬、持ってきてありますから、とりあえずは大丈夫だと思います。なにかあったら、連絡しろって、みどりさんから、連絡先ももらってあります。」
そういう彼女は、冷静沈着で、しっかりとやってくれるのは頼りになった。急いで由紀子と水穂さんを乗せて、製鉄所に戻っていく。すでに薬を持ってきていたので、水穂さんはそれ以上咳き込むことはなかったが、でも、流石に車に乗っているせいか、水穂さんは眠ることはしなかった。
「じゃあ、近道がありますから、そっちを通って製鉄所に戻りましょうか。ちょっと、大きな車では運転技術がいるけれど、まあ、この時間帯なら、人も少ないでしょうから。」
そういう、ともかさんは、大通りを離れて、急いで車を走らせた。大通りを離れて、山道を行くのは、ちょっと由紀子は不安ではあったが、なんとか急いで行くことができた。対向車に遭遇したら、もうだめなのではないかと思われるほど狭い山道だったけど、何もなかったのが、由紀子は良かったと思った。
「さあ、製鉄所に着きましたよ。まあちょっと大変なことがありましたけど、でも、行けたんだから、いいじゃありませんか。ちょっと疲れてしまったのかな。それはちゃんと先生に話しておくわ。」
そうやって、水穂さんを背負って、製鉄所につれていく田宮ともかさんは、なんだか仕事をしているときは、すごい人に見えるけど、もっと重大な欠陥があると由紀子は思った。
「田宮さん。」
由紀子は、水穂さんを布団に寝かせている、ともかさんに言った。
「あの、娘さんにも、もっと優しくしてやってください。」
田宮さんは困った顔をした。
緑のタクシーはずっと製鉄所の前で止まったままだった。
緑のタクシー 増田朋美 @masubuchi4996
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