太平洋の真ん中で目を覚ました


ある朝、祖父は太平洋の真ん中で目を覚ました。

タタミ一畳分の板材の上にいた。

あたりに一面の青が広がっている。


「あ、よーやく起きた」


上半身を乗りあげ、祖父の顔を覗き込む女がいた。

彼は慌てて起き上がり、目を背けた。


墨のような黒々とした髪に絹のような白い肌を持つ女だった。

胸を覆う布以外、何も身につけていない。

隙間から見える深い谷間へ吸い込まれないように、女から距離を取る。


「ちょっと、大丈夫? 何があったか覚えてる?」


忘れられるわけがない。

敵艦から飛び立った戦闘機から空襲を受け、祖父が乗っていた戦艦は大きな損害を負った。


戦闘機が上空を飛び回り、あちこちから怒号が響き、煙が上がる。

船体は傾き、海が近づき、沈んでいった。


「船は……みんなはどうなった……?」


「いくつか沈んでいったのを見た。

あんたは息があったから、どうにか助けられたんだけど……」


「そうか……」


再び板の上で大の字になる。

祖国のために身を滅ぼすつもりでいたというのに、生き残ってしまった。

なんということだ。これからどうすればいいのだろう。


太陽の光が虚しく感じた。

一晩のうちに何もかもがなくなった。

波は穏やかに揺れている。


「とりあえず、近くまで送るよ。

こんなところにいてもしょうがないし」


女は板を押し、泳ぎ始めた。

とりあえず、彼女に敵意はない。

それは分かった。


ただ、軍に女はいなかったはずだ。

彼女の身元を明らかにしなければならない。


「君はどこからきた。所属は?」


女は泳ぐのをやめ、困ったように首を何度もひねる。


「……もう二度と会わないだろうし、別にいっか。

あたしたちさ、底でずっと見てたんだよ。あんたたちのこと」


「底? どういうことだ?」


「あんたねえ、自分の家の上でドンパチやられたら怖くてしょうがないでしょ? 

終わるまで待ってたんだよ」


言っていることがよく分からない。

海底でずっと戦闘を見ていたというのか。

嘘をついているようには見えないし、からかっているわけでもなさそうだ。


先ほどの戦いが彼女たちに悪影響を与えていたのはまちがいない。

家の真上を飛ぶ戦闘機ほど怖いものはないからだ。


「レイテ沖の人魚一族を知らないだなんて……と言いたいところだけどさ。

あんなバカでかい船が出てくるようじゃ、あたしらのことなんて目に入らないだろうし。ま、せめてこれだけは覚えて帰ってよ」


彼女はやるせなさそうにそれを見せた。

足と思われる部位にはうろこがびっしりと生え、先は魚のようなひれがついている。

冷たい汗が一気に噴き出て、背中を伝う。


「それは何だ! 明らかに異常だ!」


「だーから、人魚だって言ってるでしょ。

まさか、本当に知らないの?」


後ずさろうにも板が狭すぎる。

どうしても尻尾に目がいってしまう。


軍人ですらなかった。彼女は人間ではない。

国を示すものは何も身に着けていない。

彼女はどこにも属していない。


「……なぜ、人間を、俺を助けた?」


声をどうにか絞り出した。

彼女は半目で祖父を見た。


「あのさ、軍隊のヒトってみんなそんな感じなの?」


「というと?」


「自分の命をかけて国のためにガンバリマスってさ。なんか馬鹿みたいじゃない?

そんな国に自分の未来を預けられるほどの価値なんてあるの?」


尾ひれを左右に揺らす。

庭で日向ぼっこしていた猫を思い出した。


己の未来を委ねた結果がこれだ。

命の価値なんてあってないようなものだ。

奥歯を強くかみしめた。簡単に言ってくれるじゃないか。


「そりゃあ、君はどこにも属していないから気楽だろうさ。

うらやましい限りだよ。けど、俺たちは戦わないといけないんだ」


「あんたら暑苦しいよねー、本当に。

自分の命は自分以外、誰も守れないんだよ?

あたしがいなかったら、今頃海の底にいたのに」


「そうだよ! 海の底で船の下敷きになったほうがマシだった!

どうして助けたんだ!」


命を捨てる覚悟で船に乗った。

文字通り、この身を捧げるつもりでいた。

帰還できないと思っていたし、するつもりもなかった。


だから、この状況を受け入れられないのだ。

人魚を名乗る女はため息をついた。


「少しは冷静になりなって。いろいろ大変だったのは分かるけどさ。

あんたの帰りを待ってる人だっているんでしょ? 

守りたいものがあんなら、まずは自分を守らないと」


「ここから帰還したところで、これからどうしろと……」


「そんなのアンタが決めることじゃないでしょ。

ま、追い出されたらその時は呼んでよ。人間ひとりくらいは匿えると思うし」


そう言われて気楽になれるものでもない。

祖父はそれきり黙り込み、女は板を押して泳いだ。


太陽はなお、頭上を照らしていた。


いつのまにか眠っていたようで、砂浜で倒れていたところを漁師に発見された。

自分が乗っていた板もなくなっていた。代わりに鱗が置いてあった。

あの女の尾ひれと同じ色のうろこだ。


祖父は一番近い基地へ戻った。

先日の戦いで艦隊は壊滅状態に陥ったと聞いて、敗北という言葉がちらついた。

それでも、やるべきことはあった。最後の最後まで戦い抜くつもりらしい。


人魚のことは一切話さなかった。自分でも幻覚を見たとしか思えない。

鱗を見せない限り、誰も信じてくれないだろう。


「まずは生きて帰るか」


手の中にある鱗をぐっと握りしめた。

それが彼女の存在を示す証拠だった。


「――それが二人の出会いってワケ?」


栄一は頬杖をついて祖父の話を聞いていた。

白髪の老人の隣には高校生くらいの女子がいた。

祖父曰く、人魚はかなーり長生きするらしい。

出会った頃と見た目がほぼ変わっておらず、未だに祖母だとは思えない。


クラスメイトから姉妹と勘違いされているという話から、いつのまにか二人の馴れ初め話になっていた。脱線とは恐ろしいものである。


「この人ってばさあ、地元の漁師さんに片っ端から聞いて回ったのよ?

あたしの鱗片手に! 信じられる?」


「しょうがないだろ! これしか手がかりなかったんだから!」


「ずっと思ってたんだけどさ、恋人とかいなかったの?」


「忘れられるかあ! あんな状況で助けておいて無責任なこと言うな!

見つけられなかったら栄一に託すところだったんだからな!」


「家族総出で探し当てるつもりだったの?

いるかも分からない人魚なんて!」


「だから、証拠を残してくれただろ!」


今日も二人は喧嘩している。

出会った頃からこんな感じだったんだろうなと、何となく想像がついてしまった。

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