第44話:教育観の多様化 ⑪

 これはテキストパターンも同じ事が言える。


 今の教科書は以前の教科書よりも内容が増えており、同時に使う参考書やテキストも以前に比べると増えているのが現状だろう。


 ただ、全員がテキストを買えるわけでも、参考書を買えるわけでもない。


 そのため、先生が使いたいと思うテキストや参考書は著作権法の関係でコピーなどをする事が出来ないため、当該テキストを子供たちに買ってもらわないと著作権法違反になり、これらの学習のためにお金が必要になる。


 このように授業プランがきちんと決まっているとしても、子供たちのレベルに応じた学習計画を立てるためには追加購入などが出来るのか?・子供たちはどういう子が多いのか?などを知ることが必要になると思う。


 私はICT教育の本格導入を進める上で必要なのは情報格差や教材格差を可能な限り少なく、子供たちが求めているレベルを維持することだと思う。


 その理由として、子供たちは同じ学校に異なった目的を持って通学しているため、個人で求める授業内容やレベルなどが異なっており、授業をする場合にも1つのレベルに縛るのではなく、子供たちが授業を理解する為に必要なツールや個別解説を見られるようにすることで個別レベルが顕著になることを避けることが出来て、そこから子供たちが自分のペースで学習していくことが出来るなど子供の学習意欲を育むために必要な要素を大人側から提供する事も子供たちの学力向上や関心・意欲や興味・観察を促すためには必要だと思う。


 以前にある記事を読んでいて納得に感じた事がある。


 それは“日本というのは答えが決まっている”や“統一基準を超えている人を邪険にされる”など日本の国民性の向上や関心・理解に乏しい部分が時代錯誤だと訴えているコメントだった。


 確かに、日本というのはトップダウン型社会だと感じることが多々ある。


 例えば、算数・数学などで教科書などに載っている数式なども教科書審査の時に”この数式を子供たちに定着させて“という上の意向がそのまま現場に降りていくことで子供たちにはその数式以外を正解と認めないなどあらかじめ決められた答え以外は認めないという一見すると”知識拘束“をされている印象を受ける。


 その他にも国語や英語など文章を用いる科目においては子供に対して状況理解や心情理解などが問題文として掲載されているが、これもまた答えが決まっていて、その答え以外は認めないもしくは先生の判断に委ねるなど徹底して決められた答えを正当化し、学習に対して柔軟性が乏しくなっていると私が小学生の頃から感じていた。


 一方で海外などでは日本のように知識拘束が行われている国もあるが、ほとんどの国ではコミュニケーション型学習が教育に関しては全面もしくは一部導入されており、子供たちの回答も“私はこう思います”・“僕はこう思います”と自分の意見を発して、他者の答えを分析させるという“自主創造型解答”と“決定型解答”を合わせて子供たちに学習させている。

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