第27話:なぜ、人は比較するのか? ②

例えば、“良い学歴を持っていると社会的なイメージも社会的信用も得られるから”と考えているならあながち間違いではないが、学歴が免罪符になるということではないし、良い学歴を持っているからと言ってそうではない人を見下して良いわけでもない。


 ただ、良い学歴を持っているというだけで周囲からのイメージは良くなるし、そういう人は実績がなくても発言することで協賛する人が集まりやすく、トラブルなどの標的にされにくいのは事実だろう。


しかし、私は こういう価値観を形成する際に見誤って欲しくないのは“良い学歴を持っているから他の人よりも選択肢が増える”という誤解だ。


 なぜなら、良い学歴を持っていても人間性や価値観が良くないと人は遠ざかっていくし、能力だけが良くても孤立をしていく可能性があるなど自分のイメージと世間全体から見えているイメージの乖離が顕著になるだけでなく、個人でも相互関係性の在り方が変わってくる可能性もある。


 私は学歴よりも付加価値を持っている人や周囲に気を配れる人のほうが好印象を持てる。その理由として、前者は同じ目標を持っている仲間で集まることで“同じ目標に向かっている”という共通認識は生まれるが、同じ目標に向かっていることで競争意識が強くなり、学年があがる毎に競争心が芽生えてしまい、お互いをライバル視してしまう可能性がある。


しかし、後者の場合は1つの目標ではなく、いくつもの目標を持っている仲間が集まることで個々が知らなかったことを知る事が出来て、いろいろな目標を持っている人同志がそれぞれの目指している目標について共有する事で多角的な視点を得られるし、自分の目標について分析をする際に周囲の目標から学べることも出てくる。


 現在はどちらかというと前者が色濃くなり始めている印象が強く、どこか“良い学校に行っているから”という価値観が社会における社会的価値や社会的信用に繋がっているように感じる。


 その他にも容姿や家柄などその人と繋がることで得られるメリットを探して人間関係を築こうとするなど“自分自身のメリット”を協調するケースも少なくない。


 これが“数的評価の弊害”だと私は思う。


 なぜなら、数的評価と幼少期から隣り合わせの教育を受けてきたことで自然と人を数的評価してしまい、無意識のうちに優劣を付けることで自分の精神面をコントロールすることを学んでしまう自分よりも上の人に媚を売ること、下の人には圧力をかけて従わせることを無意識のうちに学んでいってしまうのだ。


 確かに、世界どこに行っても個人を数的評価する風潮は存在するし、それで社会的イメージが変わることもある。


 しかしながら、日本と世界では少し捉え方に違いがある。まず、“トップダウン型評価”が挙げられる。


 これは、成績上位者がそうではない人たちに対してアドバイスを送り合うなど“お互いに成長し合う事が大切”という考え方が先行しているのだろうか、Give精神を惜しまず、お互いに助け合って行くことの大切さを尊重することが多い。


 しかし、日本の場合はトップダウン型評価であっても“実績”や“ブランド”など個別評価を重視することが多く、自分に不利なことが起きそうになると嘘をついてでもその人との関係を引き離そうとする人が多い。そして、お互いに助け合って物を作るのではなく、1人もしくは1法人が利益などを独占することや海外のように成功報酬として関係している社員に利益を分配するということもあまりない。


 その他にも個人が考えたアイディアを海外では個人が会社に対して“貸与する”物であるという認識だが、日本では個人のアイディアは会社に提出してしまうと会社の資産として扱われるため、仮に利益が出たとしても会社の利益になってしまうのだ。


 これもまた価値観の違いもあるが、私は教育の格差が世界との認識格差に繋がっていると思っている。

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