第13話:社会における教育的価値観 ③-1

そして、日本というのは“学歴”や“容姿”など可視化されている部分で評価している事が多い。そのため、子供によっては“自分は良いところがない”と自分を否定する行動に出てしまうこともある。これは、小学生から高校生でよく見られる精神心理だ。例えば、「○○くんは背が高いけど、自分は背が低い」と子供が話したときに親は「今からあなたは伸びるのよ!気にしないの」と言っても子供の心には響かない事が多い。なぜなら、子供は“○○君になりたい”わけではなく、“○○君のようになりたい”という願望を親に聞いて欲しいと思っただけなのだろう。そして、学校の中で人気のある子たちを見たことでそういう発想が生まれることも十分に想定できる状況だ。


 確かに、今は以前に比べると小学生から中学生では子供たちの高身長率が上がっているように見受けられるし、容姿や成長などだけの曲線を見ても私が同じ年代だった頃よりもはるかに環境が整っているように感じる。


 ただ、個人差が広がることで子供によっては自責過剰(自分を必要以上に責めて精神的に疲弊してしまう)状態になり、場合によっては極論を選択してしまう子供が出てくる可能性を想定して動かないといけない。なぜなら、子供たちの心理というのは経験したことがないことをたくさん受け止めなくてはいけない状態にあり、想定外の出来事が起きるとパニック状態になる事が十分に予想できる。しかしながら、周囲の大人が子供たちの異変に気が付き、フォローしていることで子供たちに心の余裕が生まれ、想定外の出来事が起きたとしても大きな問題には発展することはなくなるのだ。


 このように、きちんと子供たちに知識や心構えなどの対処法を先回りして教えていくことが大事だと思っている。なぜなら、現在は変化が激しく、子供たちの学習開始する年齢の時点で子供自身がすでに経験していることが多くなっているように感じるからだ。


 特に、性教育や相互理解教育など幼少期から行うことで段階的な知識習得と定着を図れて、本人たちの人格形成やこれから起きる出来事を早期から理解する事が出来るように環境を整備し、実行することで子供たちの不安は一定程度解消されるし、万が一、何かあったとしても“すでに知っている”のと“全く知らない”のでは雲泥の差が出来てしまう。


 今の日本における社会的価値観は以前とは全く違った形相を見せており、情報の移り変わりや成長環境の変化などが急速化している印象がある。そのため、幼少期から“多様性教育”など“自分と他人は違う”というベースを子供たちに作っていかないと容姿に関するいじめはなくならないし、容姿のことをコンプレックスにして生きていく子供たちも増えていってしまう可能性があるのだ。実際の問題として多くの子供たちが“こうなりたい”という理想を幼少期からすでに持っている事も多く、理想と現実で苦しむ可能性や価値観のズレが起きてはいけない事の発端となる事もある。


 例えば、周囲から容姿などを“褒められている”人は自分が周囲よりも優れている、勝っていると思ってくれている“と思うし、逆に周囲から容姿などを”貶されている(けなされる)“人は”自分は周囲よりも劣っている、負けている“と思う事になり、このような小さいことが幼少期の子供たちの精神発達に支障を来すこともある。


 これらの一例として学校などで背の順で整列した事を挙げてみたい。


 私は小学生の時から整列するときは基本的には後ろの方に並んでいた。


 しかし、学年があがる毎に後ろが嫌になった。なぜなら、周囲から「あの子大きいわよね。どうやったらあんなに背が高くなるのかしら」や「うちの子チビだからあんな大きい子には育たないわよね」という偏見や妬みに似たような感情を感じることが増えた。


 そして、自分はいろいろな学年の子供たちとの活動などで触れ合う中であることを感じた。それは当時1年生だった子が「届かないから手伝って」と私に声をかけてきた。当時その子は自分の腰より少し上くらいだったため、肩車をするとにっこり笑っていた。少しして仲良くなった時に「もっと大きくなりたい」と言ってきたのだ。自分はまだ1年生だから大丈夫では?と思ったが、同じ学年の子を見ると確かに他の子がその子と並ぶとその子よりも背が高い子が多い。そして、他の子よりも華奢だった印象がある。


 当時を振り返ると背が低い子はそこまで多くはなかったが、コンプレックスになりかけていた子が多かったように感じる。


 なぜなら、当時は平均身長が平均を上回る学年が多く、男女別で見ても平均よりも背が高いのだ。そのため、学校内を歩いていても学年を問わず背が高い子が多かったからだ。


 そのため、その子もそうだが、背が低いことに劣等感を抱いて、どうしたら大きくなれるのかを考えてしまう子も自分が知る限りでは多かった印象だ。


 これは現代においても似たようなケースが起きているように感じる。例えば、現代は子供たちの身長が私の子供の頃よりも大きくなっている印象が強く、容姿に関するコンプレックスや美容整形に似た行為が子供たちにも波及しているように感じる。そのため、今後、このような問題が起きるのではないか?ということに加えて、現在はデジタル化やスマホなどの保持(所有・所持)開始年齢の低年齢化が進んでおり、いじめの不可視化が進んでいるように感じることもある。


 “他者比較をしないで生きていく”


 これは多くの人が言っている言葉だが、この言葉は裏を返すと今の社会を象徴しているのではないだろうか?


 なぜなら、今の社会において有名になる人の容姿やテレビでインタビューを受けている人にも言えることだが、出てくる人は全て肯定的な意見しか言っていない人が多い。そして、メディアなどでは必ずと言っていいほど身長などの容姿に関する情報が出ている、経済的な話しなどかなり踏み込んだ情報を用いていることもある。


 これは社会が作ってしまった“虚像”ともとれる評価対象が過剰に作用していく事で新たな基準が生まれるなど、これまでの比較社会が生んだ負の産物なのかもしれない。


 “1人1人が違っていい”という意識を持たせることが重要なのだが、自分の容姿に満足している人にとっては自分の容姿が当たり前になってしまうことで、自分が基準になってしまうことが多い。そして、もっといい人を見つけるとその人のようになるためにとことん突き詰める人もいることから“他者を比較するな”と言っても難しい面がある。


 まず“その人に勝たないといけない”という競争意識が芽生えてしまうと相手を潰そうという心理が働くため、これが他者比較に繋がる要因の1つになる。そして、現代は小学校から受験する子も増えているため、子供によっては“○○よりも出来ないとこの学校には行けない”と言われることや“これくらい出来て当たり前でしょ”と親から叱咤激励が飛んでくることもある。そのため、子供たちは無意識に競争意識を持つことになってしまうのだろう。そして、そういう感情を育んでしまうといざ立場の弱い人などに対して対応しなくてはいけないときに相手の立場に立てない子供が増えてしまう事もある。


 もちろん、日本というのは1人1人が違った個性や容姿などを持っている。しかし、幼少期からのこのような競争が常に行われているため、子供たちの意識にかなり差が出てくる事が多い。


これは私が子供の頃にもあったが、その時と今では全く風変わりしているだろうし、基準も異なっているだろう。


 しかし、変えられない物や事を個々の判断基準として解釈することは悪いことではないが、そういう言葉が将来的にいった相手の人生を変えてしまう可能性を秘めていることは理解しておかなくてはいけないし、そういう部分を影響力がある人が積極的に発信していき、“なぜ、そういう事を言ってはいけないのか?”など“なぜ”を中心に細かく教えていく必要があると思う。可能なら、教育の一環として定期的にお互いを考える時間を作るなど“多様性”を幼少期から考える事が精神発達の進んだ際に多角的な視点を得られるのではないだろうか?

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