第10話:社会における教育的価値観 ①

日本というのはさまざまな教育カリキュラムが存在しており、全てに文部科学省が準拠している“指導要領”に基づいたカリキュラムが採用されている。しかし、一般公立校と私立校では学習指導要領に準拠した形にはなっているものの、学習内容や学習難易度(使用教科書の参考書や応用問題など子供たちの学習量)が学校によって異なっていることから個別学習量の格差で学習格差が広がっているような印象を持つ。


 現在は公立校(県など公的機関が運営・管理している学校)と私立校(学校法人などが運営・管理している学校)が存在していて、子供たちの学力や方向性などで自由に選択することが出来る。


 しかし、ここにもいくつか問題が存在している。まず、“家庭における経済格差”だ。これは、昨今の社会情勢による家庭環境の変化が激しく、今まで私立校に通えていた子が公立校に転校せざるを得ない場合や延納を申請して、あとからまとめて払うなど個別所得の不安定感が強くなっている。そのため、子供の夢を叶えるために私立校に行かせたくても奨学金を使わないといけない、その夢をあきらめなくてはいけないなど子供たちの評価に対して、家庭における経済状況が思わしくなく、子供たちに我慢をさせてしまうという負の連鎖が起きているような印象が強い。そのため、その子が持っている個性がいくら素晴らしくても個性を生かすチャンスを“経済力”が奪ってしまうことに繋がりかねないのだ。


 日本というのは将来性がある子供たちの教育には熱心だが、そうではない子供たちに対する教育は今ひとつぱっとしていない。


 私はこういう問題をどこまで改善できるかで子供たちの可能性を更に高めて、その子の可能性を広げるチャンスがこれまでよりも増えていき、本人の将来に対する価値観形成や経験値から周囲に手を差し伸べられる回数が格段に増えていく。


 そして、これらの問題が“学歴”や“出身校ブランド”などに波及して、“○○君は○○出身だから”・“○○さんは○○出身だからこれくらい出来るよね?”といった固定概念で評価されて、社会で勝手に作られたイメージで振り回されるという現状を個々が学んできたことを活かし、個々が評価される社会に作り、個々の固定概念を打ち壊し、意識を変えることが大事だと思う。


 私がこう思った理由に“同じ人は1人としていないし、数字でその人の判断をしてしまうとせっかく持っている個性を打ち消してしまう”という持論がある。


 現代社会において、1つのイメージで人を判断する事が習慣化していて、その習慣がその人の成長を阻害する要因になっている可能性もあるのだ。


 そのため、小学生から受験をすることが当たり前になり、そこから受験をして良い学校に行くことがある意味1つのステータスのようになってしまうのだ。


これが日常化していると、“受験をしないのはあり得ない”と言う感覚が芽生えてしまって、受験をしない子供たちに対する視線もさることながら自分の当たり前を相手にも強要してしまう傾向が強くなる。


 これは日本における個別認識のダイバーシティ化(多様性)が進んでいないことを表していると思うし、これらの問題をどのように動かしていくかを考える機会の現象と知識不足も徐々に露呈しているように感じる。


 そして、日本ではパワーバランスがかなり偏向化しており、これは子供であってもすでに小学生の頃から順位を付けられて、評価が始まる。すると、良い成績を取っている子は“もっと頑張れ”と言われ、成績が振るわない子には“もっと頑張れ”と声をかける人もいるが、たいていは“なんで出来ないの?や”もっと勉強をしましょう“など自分たちの価値観を子供たちに押しつけているのではないか?と思われる可能性が高い。しかし、子供たちは”自分の成績が悪い“など自分が周りよりも劣っているのではないか?”という心理になり、その心理が芽生えることで自己肯定感が下がり、“良い成績を取らないとパパ・ママに怒られる”という不安に襲われる。


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