第6話:幼少期の教育環境格差 ①
私は1~5歳までの期間にどれだけ子供たちと向き合えるか、個性を個性だと思えるのかを意識させるかでその人の基礎的な価値観が出来てしまうと思っている。
なぜなら、子供というのは5歳までが脳の柔軟性があり、その柔軟性を活かして、必要な事を少しずつ覚えるには絶好のチャンスだからだ。
そして、幼少期は自己判断が難しいことが多く、子供たちの行動のほとんどを周囲の大人の接し方で判断し、周囲の接し方を真似しようとする。そのため、両親を含めた大人が悪い言葉を使っているなら相手に対しても悪い言葉を使っても罪悪感を持たない。そして、その発した言葉を聞いた子供たちが別の子にその言葉を使うことで悪い言葉であるという認識を持たないまま“悪意のない連鎖”が広がっていってしまうのだ。
これは誰が悪いというわけではないのだが、こういう環境にこのような“ヒューマンエラー”をどれだけ早く修正できるかで小学校などで起きやすいいじめや暴言などを最小限に押さえることが出来るように感じている。
そして、現在問題視されている“経済格差”・“教育格差“・”家庭格差“などあらゆる格差が大なり小なりこれらの問題因子に関係性を持たせられているという印象だ。
ただ、これらの格差=将来性というケースが当てはまらない場合も多く、人によってはこれが強みになって大化けする可能性もある。つまり、個人の努力も必要だが、周囲も本人が助けを求めてきた際にはきちんと正面から向き合ってその事を一緒に考えていく事も必要になってくる。
ただ、周囲の人がどこでアプローチするかでも本人の潜在能力を発揮する状況はかなり変化する。例えば、普段から交流がある人から自分がチャレンジしていることに対して、“すごくいいね!”と言われるのと“それでは世界では通用しない”と言われるのでは本人の受け取り方次第ではせっかくの才能を潰してしまうこともある。
では、どうすることが正解なのか、私なりに考えた正解としてはいくつかある。まず、“子供とコミュニケーションをどれだけ取れるか?”、次に“命令や束縛に近い言動や行動をやめ、子供の意思を1度尊重して、挑戦させてみる”などまずは主導権を子供たちに持たせて、子供たちが考えて動ける環境を整備することだろう。つまり、どれだけ子供たちを見守り、子供たちを尊重できるかで子供たちが自己肯定感や自尊心を持てるかが決まってくる。私はその中でも“幼少期から褒めることと叱ることのバランス”が大事だと思うのだ。
例えば、お友達を叩いてしまったときに謝らなくてはいけないという気持ちを持たせるには“○○君・○○ちゃんはこういうことされてどう思う?”とまず子供たちに対して質問を投げてみる。そして、“○○くん・○○ちゃんに謝らないとダメだよね?”と話して、叩いてしまった相手の子供のところに行かせて、目の前できちんと謝らせる。これは、最初は理解せずに行っている場合が多いが、こういうことを習慣化させるのはなかなか難しいが、同じ行動を繰り返すうちにきちんと謝るという1つの習慣を習得することが出来るのだ。そういう考え方1つをとってもその事を習得させ、習慣を作るためにはそこにいたるポイントを根気強く教えていかなくてはいけない。
しかしながら、殴ることや相手をどなることは幼少期から両親がいずれかを殴っている姿や兄弟が殴られている姿など本人が見て覚えたことがそのまま正当化されてしまい、そこから相手の立場に立って考える事などが難しくなる傾向があり、このような子供たちがこういう行為の積み重ねでいじめを正しいことだと思う子や違和感を覚える子に分かれる。
これらの行為はどちらかというといくつかのタイプに分かれる。
まず、1パターン目として“日常的に親から暴言を吐かれている”という子だ。こういう子は今の日本においてかなりの割合を占めている。しかし、このような思考がいじめやハラスメントなど多岐にわたる負の連鎖を生むことにつながり、これらの行為を正当化してしまう世論が完成してしまうことが懸念される。
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