第2話:なぜ、教育格差が止まらないのか? ②
このような事象を防ぐ意味でもきちんとした指導と子供たちの啓発活動が必要になってくるのだ。特に、現在は家庭事情が多岐にわたっており、子供たちによっては精神的なケアが必要な場合や第三者のサポートが必要になることもあり、精神的自立と経済的な自立が難しい年齢の子供たちに対して、選択肢を狭めないようにフォローすることが大事なのだ。
これが大学生や成人してしまうともっと厳しい見方をされることが多い。なぜなら、中学生までは多くのことが“子供”とみなされるが、高校生になると“大人”とみなされる事が増えるのだ。そのため、精神的自立と経済的な自立が可能となるため、判断基準は大人と同じになる。
そして、高校生からは一般科目だけでなく、通う学校によっては専門科目も増えることになり、社会的いっそのこと大人への階段を上っていくためのプロセスとなり、大人と同じ見方をされる。つまり、中学生までは子供としてある程度の妥協点で物事の善し悪しが決まってくることも多く、“子供だから”という理由で許されることも多いが、高校生を超えると大人と同じ扱いをされる事が多い。そのため、高校生がいじめをすると傷害事件として扱われることもあるのだ。
しかしながら、このような年齢相応の対応がとられることは少なく、子供たちに与えられたチャンスは個人差があるため、子供たちの経験値がどの程度学習や行動に反映されているかでその子が伸びるか伸びないかが決まってしまうことも少なくない。
そこで、私が考えた方法の1つが“ターゲット・マルチ・エデュケーション”のための“パーソナル・ラーニング”だ。これは、一般的にいう通常教育とは異なり、“1つの夢に向かってどのように子供たちが動いていくべきなのか?”を考える段階で適切な学習と必要な行動習得を行うという現行の学習指導要領には存在しない部分の1つでもあり、キャリア教育とは違った視点から指導をすることが大切になっていくのだ。
次に、“個別適正確認の早期化”だ。これは、自分が会社員として組織などで働けるのか、それとも個人で活動する、会社を起業するなど自分の意思で動いて行く人が良いのかを早期から選択をさせていくことで、子供たちがつまずくことが減る事につながり、早くから選択させることが自分たちの行動に自信が付き、その事を極めることが正しいことであるという“価値観”の構築にも繋がる。
このように早期から子供たちの将来設計を考えさせることで、その夢に向かって頑張るにはどうすることが大事なのか、その夢をたくさんの人に応援してもらえることがどれだけ自分の心の支えになるかなど早期からお互いがお互いの夢に向かって頑張るためには“仲間”や“相互理解”など自分たちの“体験”や“経験”に繋がることを幼少期から自分で行動して勝ち取ることが大事になる。
しかしながら、日本というのは“利得権益”が判断基準になっていることが多く、表向きは“誰にでもチャンスはある”と言っておきながら自分たちに利益をもたらしてくれると思う人に一目散に集まっていくのだ。これでは、日本における教育の一貫性は取れないし、子供たちにとっては“自分は何も才能がないのか?”と思ってしまう事も避けられない。
そして、どれだけ努力しても1人で孤軍奮闘している姿に誰も振り向いてもらえないことで精神的に追い詰められる子供も少なくないため、どのようにフォローする事で子供たちが前向きに物事を捉えられるかどうかを全体で考えていかなくてはいけない。
しかし、日本において同じ教育を受けることが一般的で、1人でも違った方向性を持った教育を受けることでその人を集団で攻撃する、その人のデマや誹謗中傷を知り合いに吹き込み、孤立させるなどして、その子を追い詰めようとする子供も少なからずいる。これは今の日本における“協調性”や“同調性”など個人に対して社会の通念と同じ事を学び、“これらを共通認識として持つべきだ“という集団心理が働く。
これらを踏まえて考えなくてはいけないのは“子供たちが100人いるなら100通りの教育法があり、共通教養や知識を学ばせるにも1人1人の共通項をまず探さないといけない”と思うのだ。
その理由として、同じ問題をやらせてすぐに理解し、定着する子供たちもいるが、なかなか問題を理解出来ず、定着しない子供たちもいる。そのため、前者が多いからといって、後者にも“同じように出来るようになりなさい”と強要するということは“チャイルド・アカデミック・パワーハラスメント”や“教育差別”につながり、子供たちに恐怖心を植え付けてしまう。
だからこそ、このような子供たちに対して“理解させる”のではなく、“なぜ、解けないのか?”を考える事で子供たちは時間が掛かっても自分で学ぶことが大切だと思うようになる。しかも、現代では受験をする子供とそうではない子供の教育機会がかなりの格差が広がっており、子供たちの知識量が異なっていることから、同じテキストを用いて授業を行うにしても子供たちの知識量の差が広がることを想定してカリキュラムを進めなくてはいけない。
しかし、一部の学校においては受験をする子供の両親を含めた親御さんなどから“もっと難しい問題をやらせて欲しい”や“うちの子には授業が簡単すぎるからもっとレベルを上げてほしい”という要望が出たことがあると聞いたことがある。
これはいわゆる“教育機会格差”の象徴ともいえる現象の1つだと私は思っている。なぜなら、塾に通っている子供たちはその学年の問題はすでに学習していて、解法や答えなどまで知っているケースが多く、学校で同じ問題をやられることに対してストレスに感じることや“時間の無駄”と考える子供・家庭も少なくないのだ。
そして、学校に行かないと“内申書”などの受験をする際に必要になる書類を書いてもらえないだけでなく、出席日数が少なくなると受験を認めてもらえないこともある。
一方で、塾などに通っていないもしくは通えない子供たちにとっては学校の授業が唯一の教育機会の場であり、新しい事を学ぶ“新たな発見を見つける場”であることは言うまでもない。しかし、あまりにも出来なくて挫折してしまう児童・生徒も少なくない。このような児童・生徒は毎年数人程度ではあるが、教育的観点から見てもかなり深刻な問題であることは間違いない。
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