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無機質にも見下ろしてくるベイルードの瞳…は、この近距離でも確認できないけれど…視線は交差しているはずなので、その…推定・瞳を見返す。


…野生動物に対しては目をらさない方が良いんだっけ?見返しちゃいけないんだっけ?


転生するならもっと有用な知識を蓄えておくんだったと後悔するけれど…普通は異世界やらゲームの世界やらに転生しないと思い直す。

今の自分の状況が特殊すぎるだけで、輪廻転生するにしても同じ地球上だろうし、前世の記憶は消えるはずなのだ。

前世がマリー・アントワネットでも織田信長でも同じ地球の生命体。

物語の主人公でした、モブでした、モンスターでしたって言うのはなかなか聞かない。


ちなみにわたしは、アラフォー時代前世にやってみたユニーク占いの『前世占い』では『ミジンコ』だった。そんなバカな、と2回目をトライしたら『綿ぼこり』だった…生物でもなくなった。


涙目ながらの必死の説得が効いたのか、両サイドにあったベイルードの腕が下がり、ようやく『壁ドン』から解放される。


推しキャラからされるのを憧れはしていたが、今のところ恐怖しか与えてこない男にされても命の危機しか感じない…壁ドンとは恐ろしい行為なのだと、経験して初めて知ることができた。

もし、また経験するならば…次こそ、ときめきを感じる相手にしてもらいたい。


下がる腕に知らずに詰まっていた息を吐き出し、必死に握っていた命綱のペンダントから手を外す。

しかし彼は、その隙を逃さず、四肢を弛緩させたわたしに抱きついて動きを封じてきた。


先ほどよりも強く香る男性用香水の香りと、頬を掠める髪がくすぐったい。

回された腕の意外なたくましさや、肩の骨が当たるわずかな痛み…自分以外の体温にどうすれば良いのか分からず、反射で突き飛ばそうと胸を押すがびくともしない。


突然の行動に、一体どんな意図があるのか計りかねていると、首筋に息が当たるのを感じこそばゆさに身を捩った所為で首元を晒してしまう。

人体にとって重要な弱点を、殺意の沸点がすぐ振り切れるこの男の眼前に晒せばどうなるか…マズイ!と思った時にはもう遅く、遠慮会釈無く噛みつかれる。


人体の皮膚は弾力性があり、生半可な咬合力では歯形がだと聞いたことがあったが…それが嘘だ、と今、判明した。


少なくともこの世界『悠久のうた』と言う乙女ゲーム世界では、そこそこに強く噛み付けば血が出る。

もしかしたら、ゲーム中にもこんな感じのイベントがあったのかもしれない。


あったっけ?こんな猟奇的なことするキャラいたっk…いたわ〜目の前にいるこの男はやりかねないキャラだったわ〜。


最初に噛まれたのが予想外すぎて、およそ令嬢らしくない『ぎゃっ!?』と言う悲鳴が出てしまった。

その事がどれほど面白かったのか…喉の奥で堪えるように笑うせいで、その度に息が掠めてくすぐったい。


角度と場所を微妙に変えてまた噛みつかれ、背中に回していたはずの片手が器用に制服のリボンと襟をくつろげていく。

絶えず与えられるくすぐったさと痛みと困惑に翻弄され、対処が遅れてしまい…気が付いた時には胸元までボタンが開けられてしまっていた。

慌てて片手で押さえながら、空いた手で無駄とは分かりつつもベイルードの胸を押したり叩いたりと抵抗を繰り返す。


「ちょ…も、う…離れてくださ、痛った!?痛い痛い。噛まないで、もう、噛まないでっ!!」


右から左から、と首筋を噛みつかれトドメとばかりにべろりと舐められ引きれたような悲鳴が喉から漏れる。


ベイルードの顔がさらに下がり、わずかな抵抗として押さえていた胸元の手を外され、拘束はさらに強くなる。

肩口から鎖骨と、唇が徐々に下がっていく。

ワザとなのか音を立てるように吸い付き、何回かには痛いほどキツく肌を吸う。


前世も合わせてうん十年…未知の経験をわけだけど…知ってるよ。わたし、これ、知ってる。

肌をキツく吸うことで出来る…いわゆる、キスマークってやつじゃない??

え…待って、キスマークつけられてるの?なにゆえに??


必死に抵抗しながらも、背中に回された腕や掴む腕からは逃れることが出来ず、無駄な抵抗を嘲笑う様に次々とキスマークが量産されていく。

ついに、少しカサついた唇が下がりきり…『胸』と言っても差し支えない部位の上部を掠めたところで、咄嗟に足が出た。


そう!!今まで存在をすっかり忘れ、腕でのみ抵抗をしていましたが…わたしには大地をしっかり踏みしめる2本のがあるのです!!


思わず目をつむって膝を蹴り上げたのでどこに当たったかは定かじゃないけれど、お腹を押さえて蹲ったのでこの選択肢は間違いではなかったのだろう。

…ちょっと押さえてるとこ、お腹と言うか下っ腹というか…うん、深くは考えないようにしよう。


今はこの隙を逃さず逃げることが先決だ。

先ほどの、お亡くなりになったロウテーブル大破時や、今のベイルードのナニカが潰されたような呻き声にも誰も駆けつけなかった。

この屋敷内は、今は本当にわたしとベイルードしかいない可能性が高い。


真っ青い顔をして声もなく震えている姿は申し訳なくなるが、自業自得だ。

結局夢だったけれど…乙女のベッドに無断で寝転んだり、ベロベロ舐め回したり…とんでもない痴漢野郎だ!!


瀕死状態で喘ぐように息を繰り返すベイルードを無視し、部屋を飛び出す。

顔の熱が冷めないまま、震える指でボタンを止め直し屋敷の扉を開ける。


洋品店ですれ違った公爵家の執事と馬車は、そのまま後を追って来てくれたらしい。

外部との門は番兵もおらず、これ幸いに通過はできても、流石に、離宮に通じる門まで無断で越えるのは憚られたのだろう。

それでも、横付けして待っていてくれて助かった。


五体満足で出てきた我が家のお嬢さまの姿に安堵の表情を浮かべ、押し込むように馬車に乗せると、御者は狂ったように馬に鞭を入れ脇目もふらずに馬車を走らせる。


王城の尖塔を遠く望むところまで来て、ようやく深く息を吐いてぐったりと椅子に寄りかかる。

いつもなら『行儀が悪い』と注意をされるが、なぜか、彼はわたしの姿を見て凍りついていた。


あ、やべ…。


慌ててボタンは締め直したが、リボンは行方不明だし壁に押し付けられながら、さんざ暴れて抵抗したおかげで髪はぐちゃぐちゃだ。

極め付けは…襟を閉じても隠しきれない噛み跡と鬱血痕。


何事かありました、と晒しているようなもんじゃないか!!


『お願い見なかったことにして』と拝み倒すけれど、に〜っこりと笑った顔をするだけだった。



ちなみに、この時のわたしは

突然行われたベイルードのこの痴漢行為を『この後におよんで正直に答えないわたしへの嫌がらせ』だと思っていた。

それだけではなかったと気がついたのは、クリスマスパーティー当日だった。

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