第3話 天啓

 和紙を貼ったパネルに念紙ねんしで大下絵を転写する。湯煎で膠を水に溶かす。墨を磨り、面相筆めんそうふで骨描こつがき(墨の線画を描く作業のこと)をしていく。保の後ろには、それら一つひとつの挙動を興味津々な様子で見つめている牛田さん。もちろん、服を着ている。小さなアトリエの中は、お互いの呼吸音さえもわかる程、静寂に包まれていた。一本いっぽんの線に魂を込めるように、筆を走らせていく。特に髪の毛は、色を塗るときに毛の流れがわかるように慎重に描いていく。さすがに二人きりだと息が詰まってしまい、保の方が先に音を上げて話しかけた。


「大丈夫? 寒くない?」

「はい、大丈夫です」

「足、崩してくれていいから」


 バイトがある日も制作を行った。授業が終わってバイトまでの数時間程度しか、描ける時間はない。日によっては一時間ないような日もある。その分、作業日数も自然と多くなる。彩色には、かなりの日数をかけることになった。先に塗った絵の具が乾いてからしか次の絵の具を塗れないときもあるので、ほとんど作業が進まない日もある。そういう日は、描くよりも話している時間が長いように思えた。話しかけるのは大抵保の方からだったが、喋っている時間は牛田さんの方が長かった。牛田さんは、やはり年頃の女の子で、最近食べておいしかったものだとか学生時代の友達のことだとかを楽しげに語った。保も問われるがままに、日本画を始めたきっかけや大学の授業のことなどを話した。保が絵の具の小瓶を並べる様子や、小皿で絵の具と膠を混ぜ合わせる様子を見て、


「なんか、保さん、魔法使いみたい」


 と、子どものように喜ぶところがかわいらしいと思った。気がつけば、保さんと呼ばれるようになっていた。保もそれにつられるように、みゆきちゃん、と呼んでいた。




 ある日、いつものようにみゆきちゃんは保のアトリエに来て彩色の様子を眺めていた。水干すいひ絵の具の下塗りが終わって、絵全体の色調が見えるようになってきていた。下塗りの上に岩絵の具を塗り込めながら、


「今日はヤバい寒いね」


 と、冗談のように言い合っていると数年に一度の大雪が降った。薄墨色に曇った空から凍てつくような風とともに雪の粒が吹き下ろしてくる。こういうときの関東の交通機関は弱い。バスはもちろん、鉄道も止まってしまった。


「帰れるようになるまで、ここにいていい?」


 無言で頷く。バイトは、休みの日だった。保は、一気に絵を描き上げようと思った。

 ストーブだけではあまりにも寒くて、保はダウンジャケットを着込んだ。みゆきちゃんは、毛布を体に巻き付けて、インスタントコーヒーで暖を取っていた。かじかむ指先をカイロで温めながら、画面に筆をのせる。菊の花びらの一枚いちまいに象牙色ぞうげいろや胡粉を重ねて濃淡のある白を描いていく。「そんなにたくさん絵の具を重ねるなんて思わなかった」と言うみゆきちゃんの言葉には応えずに、花に影を入れていく。描いてはぼかし、描いてはぼかしを繰り返す。無心に描いていたと言えば、嘘になるだろう。みゆきちゃんに聞きたいことがあったのだ。聞くか聞くまいか、繰り返し逡巡しゅんじゅんしていたのだ。

 制作は佳境にさしかかっていた。捨て膠をして砂子すなごをまくと、保の念が何度も塗り込められた和紙の表面が大小のきらめきに覆われた。その砂子の上から、さらに岩絵の具を重ねていく。極細の筆で髪や陰毛の一本いっぽんまで描き込む。最後に、瞳に光を描き加えて、保は大きく溜息をついた。


 どうにも、納得できない。


 確かに、絵全体からは圧倒されるような色気が感じられる。菊の荘厳さと相まって、裸婦の肉、肌、毛がより官能的に映る。しかし、どこか本質を捉えきれてないような感覚におちいった。足りないのは技術的なものではない。画題と向き合いきれていない、本質から目をそらしている、自分自身の弱さが表われているように思えた。




「みゆきちゃん」


 うとうとと船を漕いでいたみゆきちゃんは、呼びかけられてはっとしたようだった。


「みゆきちゃん、聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

「何? 保さん」

「……みゆきちゃん、ネットに動画上げてるよね」


 えて、はっきりとは言及しなかった。ごまかそうと思えばごまかせる聞き方をした。保は、やっぱり自分はズルいなと思った。始め、みゆきちゃんは何を言われているのかわからないといった様子だった。その後、一瞬にして顔が朱に染まったと思うと、今度はさあっと血の気が引いていった。そして、見る見る泣きそうな表情に変わっていった。


「……知ってたんだ」

「うん。ごめん」

「……軽蔑してる?」

「ううん。ただ……なんで動画、上げてるのかな、と思って……」


 軽蔑していないのは、嘘ではなかった。信じてほしくて、保は、今度はまっすぐにみゆきちゃんの顔を見た。保の表情があまりに深刻だったのだろう。しばらく保を見つめていたみゆきちゃんは、涙目のままプッと吹き出した。


「そんな悲しそうな顔しなくていいよ。単純にオナニー好きだったから、誰かに見てほしくて。私も興奮するし、誰かのためになってるって思ったらがんばれるじゃん」


 好きなことで生きていくってやつだよ、とみゆきちゃんは笑った。決して自嘲めいた笑いではなかった。それからみゆきちゃんは、ぽつぽつと自分のことを話した。自慰動画を投稿するようになって、視聴者が徐々に増えていったこと。それが自信になっていること。今は「欲しいものリスト」に載せているものを視聴者さんが送ってくれて、それだけで生活できていること。


「将来のことなんて、考えられなくって。今は、今が楽しければいいかなって思う」

「そっか……」

「保さんは、将来何になるの? やっぱり画家さん?」

「そりゃあ、なれたらそれがいいけど」

「なりなよ。いいよ、好きなことして、応援してくれる人がいて、お金もらえて」


 まっすぐに保を見返してくるみゆきちゃんの目は、大学のカフェで初めて話したときと変わらず、純朴な色だった。真っ白な美しさというのだろうか。愚かさと淫靡いんびさをも飲み込む強烈な「清純」の花が咲いているようだった。


たまらなくなって、保はみゆきちゃんに口づけた。保にとって、初めてのキスだった。


「なんか、ごめん」

「ううん。大丈夫」


 目を開けて見たみゆきの顔は、恍惚として見えた。目尻が薄く朱色に染まっている。その色調を見て、保は天啓に打たれた。


「ちょ、みゆきちゃん、ごめん。もう一回モデルしてもらえないかな」

「え、今?」

「うん、なんか、今ならできそうなんだ」


 珍しく強引な保にせかされるように、みゆきは服を脱いだ。全裸になると、二の腕に鳥肌が走る。定位置でポーズを取ると、粘膜が潤んで、濡れていた。

 保は、臙脂色えんじいろの岩絵の具を手に取って小皿に移した。膠に溶かして、筆に含ませる。目元、口元、下腹部にそれぞれ血色を描き加える。筆を持ち替えて、それをぼかす。生々しいような粘膜の質感。今度は雲母うんもの白い小瓶を取り出して、それにも膠を多めに加えた。たっぷりと筆に含ませて、先程臙脂色を塗り込めた下腹部にパッパッと飛沫しぶきを散らす。水滴が肌を滑るような表現が加わった。仕上げに、雲母の光沢を下唇にのせる。


「できた……」


 保の吐息は震えていた。みゆきに近づくと、毛布で体を包んで、その上から抱きしめた。


「ありがとう、みゆきちゃん、ありがとう……」


 みゆきの吐息も、震えていた。カーテンの隙間から、朝日が差し込み始めている。朝日に照らされて、岩絵の具に含まれた鉱物がきらきらと曙色あけぼのいろに輝いた。できあがった表情は、“みるくせいき”の自慰のワンシーンを切り取ったように、とろけていた。




「本当は、今の状態でいつまでも続けていけるとは、思わないんだ」


 完成した絵を前に、鼻声で言ったみゆきは、どこか吹っ切れたように見えた。


「何かやりたいこととか、ないの?」


 憑きものが落ちたような顔をして、保は聞いた。


「考えたこともなかった」

「そのうち見つかるよ。きっと」


 そうやって二人、毛布にくるまって、いつまでも絵を眺めていた。

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