第3話 天啓
和紙を貼ったパネルに
「大丈夫? 寒くない?」
「はい、大丈夫です」
「足、崩してくれていいから」
バイトがある日も制作を行った。授業が終わってバイトまでの数時間程度しか、描ける時間はない。日によっては一時間ないような日もある。その分、作業日数も自然と多くなる。彩色には、かなりの日数をかけることになった。先に塗った絵の具が乾いてからしか次の絵の具を塗れないときもあるので、ほとんど作業が進まない日もある。そういう日は、描くよりも話している時間が長いように思えた。話しかけるのは大抵保の方からだったが、喋っている時間は牛田さんの方が長かった。牛田さんは、やはり年頃の女の子で、最近食べておいしかったものだとか学生時代の友達のことだとかを楽しげに語った。保も問われるがままに、日本画を始めたきっかけや大学の授業のことなどを話した。保が絵の具の小瓶を並べる様子や、小皿で絵の具と膠を混ぜ合わせる様子を見て、
「なんか、保さん、魔法使いみたい」
と、子どものように喜ぶところがかわいらしいと思った。気がつけば、保さんと呼ばれるようになっていた。保もそれにつられるように、みゆきちゃん、と呼んでいた。
ある日、いつものようにみゆきちゃんは保のアトリエに来て彩色の様子を眺めていた。
「今日はヤバい寒いね」
と、冗談のように言い合っていると数年に一度の大雪が降った。薄墨色に曇った空から凍てつくような風とともに雪の粒が吹き下ろしてくる。こういうときの関東の交通機関は弱い。バスはもちろん、鉄道も止まってしまった。
「帰れるようになるまで、ここにいていい?」
無言で頷く。バイトは、休みの日だった。保は、一気に絵を描き上げようと思った。
ストーブだけではあまりにも寒くて、保はダウンジャケットを着込んだ。みゆきちゃんは、毛布を体に巻き付けて、インスタントコーヒーで暖を取っていた。
制作は佳境にさしかかっていた。捨て膠をして
どうにも、納得できない。
確かに、絵全体からは圧倒されるような色気が感じられる。菊の荘厳さと相まって、裸婦の肉、肌、毛がより官能的に映る。しかし、どこか本質を捉えきれてないような感覚に
「みゆきちゃん」
うとうとと船を漕いでいたみゆきちゃんは、呼びかけられてはっとしたようだった。
「みゆきちゃん、聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「何? 保さん」
「……みゆきちゃん、ネットに動画上げてるよね」
「……知ってたんだ」
「うん。ごめん」
「……軽蔑してる?」
「ううん。ただ……なんで動画、上げてるのかな、と思って……」
軽蔑していないのは、嘘ではなかった。信じてほしくて、保は、今度はまっすぐにみゆきちゃんの顔を見た。保の表情があまりに深刻だったのだろう。しばらく保を見つめていたみゆきちゃんは、涙目のままプッと吹き出した。
「そんな悲しそうな顔しなくていいよ。単純にオナニー好きだったから、誰かに見てほしくて。私も興奮するし、誰かのためになってるって思ったらがんばれるじゃん」
好きなことで生きていくってやつだよ、とみゆきちゃんは笑った。決して自嘲めいた笑いではなかった。それからみゆきちゃんは、ぽつぽつと自分のことを話した。自慰動画を投稿するようになって、視聴者が徐々に増えていったこと。それが自信になっていること。今は「欲しいものリスト」に載せているものを視聴者さんが送ってくれて、それだけで生活できていること。
「将来のことなんて、考えられなくって。今は、今が楽しければいいかなって思う」
「そっか……」
「保さんは、将来何になるの? やっぱり画家さん?」
「そりゃあ、なれたらそれがいいけど」
「なりなよ。いいよ、好きなことして、応援してくれる人がいて、お金もらえて」
まっすぐに保を見返してくるみゆきちゃんの目は、大学のカフェで初めて話したときと変わらず、純朴な色だった。真っ白な美しさというのだろうか。愚かさと
たまらなくなって、保はみゆきちゃんに口づけた。保にとって、初めてのキスだった。
「なんか、ごめん」
「ううん。大丈夫」
目を開けて見たみゆきの顔は、恍惚として見えた。目尻が薄く朱色に染まっている。その色調を見て、保は天啓に打たれた。
「ちょ、みゆきちゃん、ごめん。もう一回モデルしてもらえないかな」
「え、今?」
「うん、なんか、今ならできそうなんだ」
珍しく強引な保にせかされるように、みゆきは服を脱いだ。全裸になると、二の腕に鳥肌が走る。定位置でポーズを取ると、粘膜が潤んで、濡れていた。
保は、
「できた……」
保の吐息は震えていた。みゆきに近づくと、毛布で体を包んで、その上から抱きしめた。
「ありがとう、みゆきちゃん、ありがとう……」
みゆきの吐息も、震えていた。カーテンの隙間から、朝日が差し込み始めている。朝日に照らされて、岩絵の具に含まれた鉱物がきらきらと
「本当は、今の状態でいつまでも続けていけるとは、思わないんだ」
完成した絵を前に、鼻声で言ったみゆきは、どこか吹っ切れたように見えた。
「何かやりたいこととか、ないの?」
憑きものが落ちたような顔をして、保は聞いた。
「考えたこともなかった」
「そのうち見つかるよ。きっと」
そうやって二人、毛布にくるまって、いつまでも絵を眺めていた。
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