第2話 白い美

 大学最寄りの駅前の居酒屋「榮川えいせん」は、保と今坂の行きつけの店だ。前日のデッサンの授業での保の奇行を心配、もとい面白がった今坂が、強引に保を誘ったのだ。適度に酒が入って顔の赤くなった保は、渋々昨夜の発見を今坂に打ち明けた。今坂は、大爆笑した。


「ははははは! マジか。まさか昨日のモデルちゃんが保のオカズだったとはな!」

「ちょっと……大声出すなよ」


 酔いの回った今坂は、いつも以上に口が悪い。平日で客が少ないとは言え、さすがに周りをはばかって保は小声になる。今坂はジョッキに残ったハイボールを一息に煽った。巨乳を机に押しつけながら、上目遣いに保の顔を覗き込んだ。


「確かに昨日の子、エロい体してたもんなあ」

「まあな……さすがに直接顔合わせることになるとは思わなかった」

「そりゃあな。どう? 嬉しかった?」

「いや、気まずいよ。というか、申し訳ない。『いつもお世話になってます』って」

「勃った?」

「いや……確かに、興奮したよ。ただ、性的にというより、あの人をもっと描きたいと思った」

「ほお。保っちゃん、珍しいな。最近創作意欲失ってたのにさ」

「うん、まあ。今度のコンクールのモデル、頼みたいんだよね」

「そうか。よし! 今坂お姉さんが一肌脱いでやろう!」


 今坂はつなぎの袖を腕まくりして、そう意気込んで見せた。若干の不安は否めないが、今坂の気持ちは素直に嬉しかった。


 次の日、今坂は保を伴ってデッサンの担当講師の元を訪れた。この先生は、仕事はできるがとっつきにくいことで有名だ。とてもじゃないけれど、保が交渉できるような相手ではなかった。しかし、意外にも今坂は先生と親しげに九州弁で話し始めた。どうやら、モデルと連絡を取ってもらうよう頼んでいるらしい。普段すまし顔の先生が思いの外にこやかに対応してくれるのを見て、保は印象を改めた。


「あの先生、アタシと同郷なんよ」


 得意げに話す今坂によると、先生とはこれまで何度か食事したこともあるらしい。モデルには、事務を通じて連絡を取ってくれるそうだ。今更ながら、今坂の顔の広さと行動力には驚いた。




 それからしばらくして、事務から今坂に連絡があった。どうやら、あの子は了承してくれたらしい。いきなり男と二人で会うのは何だからと、面倒見のいい今坂は大学のカフェでモデルの子と待ち合わせをして、保を紹介してくれるらしい。初対面ではないとは言え、いつもなら画面の向こうにいる子と直接会うというのは、やはり妙な感じがする。それ以上に、向こうは保のことを何も知らないのに、保は相手の一番恥ずかしいところを知っているということが、保の心の卑しいところを刺激した。


 約束の一時ぴったりに、相手はやってきた。今坂は立ち上がって、目印だという青いマフラーを振って見せた。向こうも気づいたようで、小走りに駆け寄って来た。


「初めまして。今坂です。お忙しいところ、お呼びだてしてすみません」

「いえ、大丈夫です。こちらこそ、お声がけいただいてありがとうございます」

「引き受けてくださって助かりました。あ、こちらが話してた反田保さん」


 今坂に紹介されて、相手の視線がすっと保を見上げてきた。動画で聞いた、あの声だ。授業のときとは違って、今日は胸まである黒髪をおろして、化粧をしていた。胡粉ごふんを塗り込めたような美しい肌だ。


「初めまして。牛田みゆきです。よろしくお願いします」

「反田です。こちらこそ、よろしくお願いします」


 今坂からは、大体の話は聞いているらしい。ニコッと笑うと、動画の様子からは想像できないほど純朴な雰囲気だった。話してみると、保の印象は間違っていなかったらしい。二つ年下の牛田さんはおっとりとした喋り方で、男の前で個人的にヌードモデルをするということに対しての警戒心を微塵も感じさせなかった。これが牛田さんの本質なのか、見せかけの純朴さなのかまでは、保には判断できなかった。


 カフェで一杯ずつコーヒーを飲んでから、三人で保の家に向かった。大学前からバスで十分。少し古びた平屋の一戸建てが保の城だった。祖父母から受け継いだものらしい。日本画を趣味としていた祖母の影響もあって、小さいながらもアトリエを備えた造りをしていた。今坂は勝手知ったる様子で冷蔵庫から緑茶を出して、牛田さんに振る舞った。


「わあ! 図工室みたいなにおいですね」


 アトリエに入るなり、牛田さんは目を輝かせた。日本画のアトリエ特有の、絵の具やにかわのにおいが染みついていたに違いない。それ以上に牛田さんの興味を惹いたのは、日本画用の絵の具を入れた江戸時代の薬屋のような箪笥たんすや理科室で見覚えのある乳鉢・乳棒、習字教室よろしく干された筆の数々だったようだ。「祖母の遺品がほとんどですよ」と説明すると、満足したように種々の道具を眺めていた。ざっくりとした制作過程を伝えて、スケッチをする今日と、構図を決めて草稿を描く次回との二日間が必要だと伝えても、牛田さんは動じなかった。


「大丈夫ですよ、私、暇なので」


 牛田さんは自信満々にそう言った。

 初日はさすがに二人きりでは気まずかろうと、今坂に同席してもらってスケッチを行った。脱衣所で私服を脱ぎ捨てた牛田さんは、恥じらうこともなくアトリエの椅子に鎮座した。照明に晒された肌の照り返しが眩しい。全裸の肌の毛一本も描き逃すまいと、描写を行う。骨格や肌の質感だけでなく、周りの空気感や牛田さん自身から得た純朴な印象も込めるように画用紙と向き合う。線を描き込むほどに、保が目指す美の形に近づいていくのがわかった。牛田さんは、好奇心に満ちた目で、鉛筆の走る様子を見ていた。


 二日目も、保のバイトがない日の日中から行われた。この日も、今坂は同席してくれた。決めた構図の通りに、大下絵(草稿)を丁寧に描いていく。


「今日は、かなり大胆なポーズをお願いするけど、構いませんか」


 保の、こんな申し出にも牛田さんは二つ返事で快諾かいだくした。片膝を立てて、陰部が描き手に丸見えになるような官能的なポーズで、牛田さんは保を見た。あの、ほくろが見える。動画のワンシーンを思い出して、思わずドキッとしたのを悟られないように、画用紙に視線を落とす。一つ深呼吸をして、鉛筆を握り直した。鉛筆が牛田さんの体を這うように線を引き、曲線美を描いていく。鉛筆が画用紙を擦る音だけが響く。肌で感じ取れるような女性美と肉感を目指して、線の流れに集中する。




 一時間は経っただろうか。保が大きく息を吐いて立ち上がった。それを合図に牛田さんもポーズを崩して、大きく伸びをする。


「ありがとうございました。これで終わりです」

「はい、お疲れ様です。かなり集中されてましたね。とても話しかけるような雰囲気じゃなかった」

「すみません、疲れたでしょう」

「……ちょっと。でもいい経験になりました。描いたの、見ていいですか?」

「はい」

「すごい……」


 黙って見ていた今坂も、牛田さんの後ろから覗き込んだ。珍しく、今坂が息を呑んだ。


「保、これすごいぞ。線がエロい」


 確かに、今坂の言う通りだった。蠱惑的こわくてきな表情に始まり、艶やかな髪の一束一束、熱の感じられそうな肉、そして脇に添えられた菊の花びらにまで妖艶な香りが漂っていた。


「反田さん、私、絵のこと全然詳しくないんですけど、なんか、すごいです」

「あ、ありがとうございます」

「あの、よかったら、なんですけど。この絵が完成するまで、見学させてもらってもいいですか?」


 唐突な申し出に、保はなんと答えていいかわからなかった。隣から助け船を出すように、今坂が「いいけどさ、みゆきちゃん。いつもアタシが一緒に来れるわけじゃないんよ。保と二人きりでも大丈夫なん?」と、ずばりと言ってくれる。


「大丈夫です。描いてるとき、静かでも全然苦痛じゃないし」


 それに反田さんのこと、信用してますから、と無垢むくな表情で笑った牛田さんは年齢よりも幼く見えた。

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