みるくせいき

kgin

第1話 オリオンのベルト

「今回もみるくの一人えっちをごらんくださり、ありがとうございます」


 たもつは動画を止めて、使用済みのティッシュをゴミ箱に投げ捨てた。一人暮らしの部屋に、虚しい静寂が響いている。保は、溜め息をつく。今夜もこの子のお世話になってしまった。ウェットティッシュで手を拭うと、グチャグチャに丸めてゴミ箱に放り入れた。






 保は、自信がなくなっていた。元々、デッサンが特別上手いわけでもなければ、色使いが抜群に優れているというわけでもなかった。構図だって平凡だった。それでも、唯々ただただ日本画を描きたい、という理由で美大まで来てしまったのだ。案の定、隣の芝は青いどころか、それを通り越して玉虫色に輝いて見えた。対して自分の作品はというと、どこか表現したいものを表現しきれていないようなもどかしさがいつでも付きまとっていた。


「保さ、そんな卑屈になってたら、描けるものも描けんよ」


 今坂は呑気な調子で言った。浮かない様子の保を見て「この間の人物画、悪くなかった」と珍しく褒める今坂の横顔を見下ろしながら、保はまた溜め息をついた。今坂も、別に格別センスがいい学生というわけではない。それでも、今坂の描く風景画の青は妙に凜としていて、好きだった。

 十一月の空は、今坂の描く空色よりも彩度が低かった。薄ら白く、緩く眩しい。キャンパスの草木の緑もどことなく元気がないように見える。寒空の下でもキャイキャイと騒がしい学生の群れを横目に、日本画学科のアトリエを目指す。キャンパスの南端。コンクリート製の芸術性の欠片もないような壁に、日だまりができていた。


「とにかくさ、今日のデッサン、無心で描いてみればええよ」


 アトリエに入るなり、バンッと保の背を叩いた今坂は「勃たせないようにな」と下品に笑って席に着いた。今坂が男だったら何とでも言い返してやれるのに、女だから具合が悪い。恨めしく今坂を睨んでいると、先生が今日のモデルを連れてアトリエに入って来た。保も急いで席に着いて、モデルを見やる。今日は、色の白い大人しそうな女の子だ。とてもヌードモデルをするような雰囲気ではないが、こういうモデルには慣れているのか臆することなく教室の真ん中でガウンを脱いだ。白いシーツの上でゆったりとポーズを取る。


「では、始めてください」


 先生の声で、学生たちは一斉に手を動かし始めた。保も、キャンバスに鉛筆を走らせる。全体像をざっくり描いたら、顔から細かく描写していく。眠そうな二重瞼と厚めの唇が印象的だ。胸に当てた手は、白魚を五本並べたような細い指の先、爪が短く切りそろえられていて清潔感がある。さほど大きくない乳房の先端、乳首が慎ましやかに赤い。西洋画のような腹部の曲線は、理想的な女性美に思えた。描くほどに、このモデルの魅力に引き込まれていく。描きたかったものを、初めて前にしているような気がする。上半身を描き終える頃には、保は「今度のコンクールのモデルも、この人にお願いしたい」と心に決めていた。

 そのときだ。

 下半身のデッサンに取りかかろうとした保は、モデルの太ももに特徴的なほくろがあることに気づいた。ちょうどオリオン座の「オリオンのベルト」のように三つ綺麗に並んだほくろには、どこか見覚えがあった。このモデルと、以前会ったことがあるのだろうか。鉛筆をせわしなく動かしながら、必死に過去のモデルたちを思い出そうとする。しかしながら、どの顔ともほくろの記憶が重ならない。それはそうだろう。一度描いたことがあるなら、そのときのことを忘れるはずがない。それじゃあ、一体どこで……。


 ガタッ

「あっ……!」


 突然、保は大声を上げて椅子から立ち上がった。アトリエ中の視線が保に集まる。モデルも、不思議そうな目でこっちを見ていた。


「どうした、反田たんだ

「いえ、すみません。何でもないです……」


 気まずそうに頭をかきながら、保は椅子に座り直した。今坂が、隣の席からニヤニヤとこっちを見ている。その視線を無視して、もう一度記憶を巡らせる。そうだ、あのほくろ、間違いない。保には心当たりがあった。




 なんとかヌードデッサンを終えた保は、モデルとなるべく目を合わせないようにしてアトリエを出た。今坂のいつもの飲みの誘いを断ってそそくさと帰路に着く。帰るなり、部屋を閉め切ってスマートフォンで動画サイトを開いた。目当ての投稿者はすぐ見つかった。動画を再生すると、見慣れたカメラアングルと白い太もも。そして、三つのほくろ。


「やっぱり……!」


 保は確信した。昼間のモデルは、この人だ。画面の中では、顔が映らないようにして下半身を丸出しにした女の子が、あられもない姿で甘い声を上げていた。“みるくせいき”さん。アダルト向け動画投稿サイトで、いつも無修正の自慰動画を投稿している人……そして、いつも保が夜、お世話になっている人だった。

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