4.Gorgon
両親からの暴言暴力から弟が逃げだしたのはオレが高二の…弟がまだ小学四年の冬だった。
数年に一度の大寒波。逗子にも雪の降る静かな夜。弟はいつもSUPでのりだしていた海へ助けを求めてとび込んで、そのまま、帰ってこなかった。
オレが家を空けた、一瞬の隙をついたできごとだった。
『学校でいじめがあった』
父はそうはなしていたけれどそんなのは嘘だった。支援学級の人気者だった弟は毎日、学校を楽しみにしていた。いつまでも校庭で遊んでいる弟を、学校に迎えにいかなければ帰ってこなかった。
『自殺』
父のはなしにお巡りさんはそう書類だけ書いて帰っていった。
「自殺なんかじゃ、ねぇよ? 大丈夫、」
雪に煙る海を見つめるだけのオレの手を、そう、無骨な手が取る。
「死刑にしてやるよ、オレが」
ゆっくり顔を向けると、優しく笑む朧月がそこにいた。そこで、「ダメだよ、そんなの」て、いえていればなにか変わっていただろうか。けれど、
「お前の親父さんを、さ」
凍ったオレの指にそう、熱い指を絡めてくれるのに、
「……うん、」
その熱がオレの気持ちまでを融かすことはなかった。
*
「大丈夫! 事故にすりゃいいじゃん!」
例によって夜中にバルコニーから侵入してきた朧月はそう、悪い顔で笑っていった。
「酒呑ませて、海に突き落とすか。ばれねぇよ?」
「それは……」
ロウの自信満々な提案に、オレは口籠もった。
弟がせっかく逃げ込んだ海に、父を任せたくはなかったし。両親を片したら、弟を迎えにじぶんも海へ入るつもりでいた。迎えにいかなければ、弟はじぶんでは帰ってはこれない。
「あ、あぁ、そうだよな。悪りぃ」
なんて、珍しく萎れるのも一瞬で、
「あ! じゃあ、」
ロウはまたひらめいた! みたいに顔を上げた。
結局、実行されたのは交通事故死だった。
「詫びらせてぇしな!」
弟が海に入るのを目撃して救急車を呼んでくれた、逗子海岸対岸にあるカフェ店長さんに頼んで、父を呼びだした。
「亡くなられた息子さんのことで、おはなしがあります」
そう店長さんがはなすと父は、冬の海風が吹き荒れる国道をとばしてやってきた。
「アオは、そこに立ってればいいだけだから」
朧月にいわれた場所、鎌倉から逗子へ抜けるトンネルの出口で、父がくるのを待っていた。
このトンネルは鎌倉側から緩い上りで、抜けたところで下りになり、大きく左にカーブする。それでこの冬の風だ。スピードとカーブと、海と道の境を消す闇と凍結した路面とで、事故の絶えない場所だった。
古いトンネルの天井に車のライトが映るのを認める。トンネルを抜けたところで大きく父の……白い外車の車体がぶれる。計画通り。
弟のはなしだと呼びだされて動揺した父は、闇に佇むオレの姿を弟の亡霊かなにかと勘違いしてさらに動揺する。動揺してブレーキを踏み凍結した路面に足を取られる。それから、
大きな車体はカーブを曲がりきれず堤防にぶつかり、その反動で県営駐車場の閉門柵に激突した。
「大丈夫! 事故なんだから、仕方なしだな、はは!」
大破した車体の下からぶらり、ぶらさがる汚しい腕をただ見つめるオレの手を、ロウが取ってそう笑った。
手を握られてはじめて、じぶんの手が震えていることに気がついた。悴む手に、ロウの熱い指が絡む。
「大丈夫、もう、」
繋いだその手で、伸ばした前髪に隠した傷を撫でてくる。
「大丈夫、」
凪いだ海みたい。静かで深くて、温かい声が耳に届く。
「もう、大丈夫だから」
「……うん…」
「事故だから、」
「……うん、」
「いこうぜ? さみぃわ!」
「うん」
手を引かれてカフェに戻る道。なにか清々しい気持ちで見上げた夜の空は、弟が消えたあの日と同じ、雪の色をしていた。その中で、
「……星、…オリオン座…? ……っわ!」
不自然に瞬く見知った星座に気を取られていると、ロウに思い切り引っ張れてたたらを踏む。
「手ェ、冷え冷えじゃんよ」
なんて、ロウは構わずニヤニヤ、繋いだふたつの手を上着のポケットにしまっている。彼が凪ぐのはほんの一瞬だ。
「……ロウ、」
「ん?」
「……ポケット、ゴミ入ってるよ?」
「はぁ? あ! ゴミじゃねぇよそれ、課題のプリント。まぁ、ゴミか」
「ゴミじゃないよ、それ」
「はは!」
加減を知らないのか朧月の、オレの手を掴む手は痛いくらいの力で。けどそれは、いわないことにした。
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