第100話

土曜日、サッカー部の練習を午前中に終えた和人は、ゆきから待ち合わせ場所として聞いていたとある喫茶店に到着した。

約束の時間は午後2時。

今は午後1時45分だ。

和人は店のドアを開いた。

「いらっしゃいませ~。」

女性店員の軽やかな声が店内に響く。

「あの、後からもう一人来るんでふたり・・・」

その店員にそう話しかけた和人は大きく目を見開き言葉を飲み込んだ。

目の前にいる店員はゆきだった。

白い無地のブラウスに黒いパンツとブルーのエプロン、いつものようにポニーテールの髪形だがメガネはかけていない。

「こちらのお席にどうぞ。」

ゆきは軽く微笑むと和人を窓際の明るい席に案内した。

「2時まで仕事なの。ちょっと待っててね。コーヒーでいい?」

「う、うん。」

和人は予想もしなかった展開にポカンとしながら、カウンターに戻るゆきをじっと見つめた。

メガネをかけていないゆきは少し大人びて見える。

和人は2時までのほとんどの時間、ゆきを見続けた。

「お待たせしました。コーヒーです。」

ゆきとは違う女性の店員がコーヒーを二つテーブルに並べた。

ゆきの姿が消えた。

おそらく更衣室に行ったのだろう。

ほどなくしてゆきが現れ、和人の前に座った。

淡いオレンジのスカートをはき、いつものメガネをかけている。

先ほどコーヒーを運んできた店員がカウンターの中からゆきに小さく手を振った。

ゆきもにこっと笑い恥ずかしそうに手を振り返す。

「あー、恥ずかしい。ごめんなさい、和人君。またびっくりさせちゃったね。」

「うん、びっくりした。」

そう言って和人はコーヒーを一口飲んだ。

ゆきはコーヒーにミルクを注ぎ、スプーンでかき混ぜながら話し出した。

「今日はカミングアウトの日にするって決めたの。やっと吹っ切れたから。今まで私のこと全然話さなくてごめんね。」

和人はゆきの目を見つめ、次の言葉を待った。

「小学2年生の時に親が離婚して、お母さんが家を出て行ったの。お父さんは・・・あんなやつ、お父さんなんて呼びたくもないんだけど、すぐカッとなってしょっちゅう私に暴力をふるうもんだから、ある日児童相談所の人がうちに来て、私を保護してくれたの。そしてその時から今まで福祉施設にお世話になっている。西方町にある聖翔園せいしょうえんっていうんだ。」

「矢島さんもそこに住んでいるんだよね。」

和人を見つめるゆきの目が大きくなった。

「知っていたの?そうか、お兄ちゃんが教えたのね。絶対に話しちゃダメって言ったのに!」

「隠すことないよ。そんなこと何も気にすることない。」

「和人君ならそう言ってくれるとわかっていたわ。でもそうじゃないの。私の気持ちが整理できていなかったからなの。」

「どういうこと?」

ゆきはコーヒーを一口飲んでゆっくりと話し出した。

「私、和人君が好き。好きだからこんなもやもやな状態で和人君を振り回しちゃ申し訳ないって思ってた。」

「もやもやな状態って?」

ゆきはごくんと唾を飲み込んだ。

「私、お兄ちゃんのことも好きだったの。」

「えっ?」

和人はきょとんとした顔をした。

「お兄ちゃんと私、血のつながりはないから。」

「それはわかるけど。ゆきちゃんが矢島さんを好きって、じゃあどうして俺なんかを。」

「ごめんなさい、本当に。」

ゆきはしおらしく頭を下げた。

「お兄ちゃんが私のことを本当の妹のように思っているってことはわかってた。でももし私がお兄ちゃんに告白したら、私に対する思いが変わるかもしれない。私を妹じゃなく女として見てくれるようになるんじゃないかって期待した。だけど次の瞬間には別の想像が頭に浮かぶの。お兄ちゃんが困った顔をして私と話をしなくなってしまう。恋人どころか逆に遠ざかってしまうの。」

和人は、自分と付き合うのは矢島さんが嫉妬するのを期待したからなのか、とゆきに聞こうかと一瞬思ったが、ばかげた質問だとすぐに打ち消して次の言葉を待った。

「たぶんそっちの方が当たってる。それがわかっていたから和人君と付き合うことにしたの。でもつい最近までは完全には吹っ切れていなかったわ。」

「もやもやな状態って、そういうことか。」

「そう。」

「で?どうして吹っ切れたの?」

ゆきはにこっと笑い身を乗り出して小さな声で告げた。

「お兄ちゃんに彼女ができた。」

和人は言葉を発しなかったが、なるほどと言わんばかりに大きな目をして頷いた。

「そういうこと。すべてが丸くおさまったわ。」

「いや、まだ肝心なことを聞いていないよ。」

「肝心なこと?」

「君がどうして俺を選んだのか。」

「なるほど。」

今度はゆきが大きな目で頷いた。

「それについては悪いけどもう少し待って。」

「どうして?もう隠し事はやめようよ。」

「今は言えない理由があるの。でも安心して。私は本当に和人君が大好きだから。」

ゆきに見つめられそう言われた和人は、自分の顔が真っ赤になりはじめていることに気づいた。

「もう少しって、いつまで?」

和人はドキドキしながらも、平静を装いつつ言った。

「3年後かなあ。でも一つヒントをあげる。小さな男の子が和人君のシャツに絵の具をべったりつけた時、和人君は怒らずにでもしっかりと叱ってくれたわ。それを見た時、この人は本当に優しい人なんだって思った。」

和人は首を傾げた。

「いつの話?全然身に覚えがないんだけど。ていうか、もしかして人違い?」

「えっ、人違いなの?」

そう言ってゆきは和人の顔をまじまじと見つめた。

和人は息をのむ。

「ぷっ、冗談よ。あー、もう本当に楽しい。さあ今から和人君の寮に行こうよ。ダックスフンドのクロベエ君に早く会いたいわ。」

「うちの寮に?今から?いやいや、みんなに冷やかされるからそれはよそう。そうだ、近くの公園で待ってて。そこにクロベエ連れてくるから。それとクロベエはダックスじゃなくてシェパードだから。」

”肝心なこと”をゆきから聞き出すことはできなかったが、ゆきがようやく秘密を打ちあけてくれたことを、和人は素直に喜んだ。

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