伯爵令嬢のとある朝
キャンディの朝はいつだって、レディス・メイドと共にやって来る。
「おはようございます、キャンディさま」
朝十時、毎日変わらぬ時間に開け放たれるカーテン。朝日を背にした、柔らかな微笑み。それを見ると時々『お母さん』と呼んでしまいそうになる。
昔は──この世界に来るまでは、恋しいなんて思ったことなかったのに。
「おはよう、エミリ」
首を振って、そこでキャンディはふと眉を寄せる。
「エミリ……もしかして体調悪いの?」
「え?」
「なんか顔色悪く見えるから、」
エミリはいつも、朗らかに笑う。それが田舎くさくて、最初はあまり好きではなかった。
でも今朝の彼女はいつもと少し違った。健康的な色の肌が、蒼白く見えた。光の加減だろうか、
「っ、……昨晩寝つきが悪かったものですから」
嘘だ、と瞬間的に思った。
どうして?なんて、理由はない。けれど、キャンディは自分の直感を信じている。
「今度はなに?なにがあったの?」
一昨日は土に汚れた小鳥の死骸が窓枠に捨て置かれていた。見つけたメイドは『他の動物に襲われたんでしょうか』と呑気に悲しんでいたけど、キャンディにはわかる。
──この家には、悪魔が住み着いているのだ。
「……お嬢様のペチコートやドロワーズ、シュミーズが何点か、使えなくなっておりました」
キャンディは自分の心が黒く燃え上がるのを感じた。
これは怒りだ。ペチコートもドロワーズもシュミーズも、今身につけているものすべてが父から与えられたもの。すなわち、キャンディがレンジャー家の娘として認められた証である。
それが何者かの悪意によって汚された──キャンディは激情を抑えて、「そう」と答えた。
「犯人は誰かな。私を妬んでる若いメイドとか、それとも忠義に厚い古参の連中?案外、か弱いふりしてる『お母様』だったりして──」
「そんな……そんな滅多なこと、仰ってはなりませんよ」
「うるさいっ!あんたの主人は私でしょ!?」
激昂して、すぐに我に返る。
「ごめんね、エミリ」エミリは悪くないのに。悪いのは、この屋敷に巣食う悪魔なのに。こんな歪んだ世界にした魔女なのに。
「大丈夫です、エミリはちゃんとわかっておりますから」
キャンディが癇癪を起こしても、エミリは怒らない。一緒になって怒鳴りあうこともなければ、顔をぶってくることだって。悲しんだり呆れたりもせず、エミリは温かな手でキャンディを抱き締めた。
彼女の腕の中でキャンディは思った。『エミリの方がずっと、お母さんって感じがする』
この世界での実母は母親というより夢見がちな少女だった。幾つになっても恋に恋する、愚かな娘。病の床にあっても、口にするのは伯爵の名前だった。
だから本当は父親のこともあんまり好きじゃない。彼に選ばれた『伯爵夫人』のことも、愛されて生まれてきた『お兄様』のことも。──みんなみんな、だいっきらい。
「旦那様にご相談いたしましょう?ここまできて、隠しだてすることはありませんわ」
「お父様に?……無駄でしょ。あの人、屋敷のことはお母様に一任してるからって言って、ちっとも興味ないのが本音だもん」
「そんなことありません、旦那様はお嬢様を愛してらっしゃいますよ」
「……そうだね。でもそれ以上に建前とか名誉とかそういうのの方が、大好きなんだろうけど」
「そんな……」
愛してるよキャンディ、と父は言う。可愛い娘、どうか幸せになってほしい。……その言葉に嘘はない。嘘はないけれど、彼の考える『幸せ』はひどく押しつけがましいものだ。
伯爵の考える『幸せ』は、キャンディが有力な貴族の元に嫁ぐこと。相手は自分を裏切らない程度の家格が望ましい。理想は、真面目で優しい、家族を愛し、慈しむことのできる男。だから父はリチャード・ガードナーを選んだ。
父の望みはキャンディにとっても都合のいいものだった。リチャードが優しいこと、決して裏切らないこと、一途なことはゲームのシナリオで知っている。そんな彼ならこの家からも連れ出してくれる、そう信じられたから──
「……っ、」
──でも、そんな彼ですら、あんな目を向けてきた。
先日の、お茶会の席。血を吐いた小鳥から顔を上げて。キャンディを見るリチャードの目は、とても冷ややかなものだった。
その眼差しの硬質さを思い出して、キャンディは唇を噛む。悔しい、腹立たしい、憎らしい──負の感情はすべて、彼の隣にいた女へ。
異分子であるメイベル・ロックウェル──あの女さえ、いなければ!
「……キャンディ様、お茶を」
またも激情にかられ、何かを口走りかけた時。キャンディの前に、湯気の立つティーカップが差し出される。
「エミリ……」
「お茶を飲めば心が落ち着きます。さぁ、」
「ん、」
流し込むと、喉の焼ける感覚があった。紅茶にブランデーが入っていたのだ。体に良いのだとか言って、エミリは時々こうしてブランデー入りの紅茶を淹れてくれる。本当だろうか?
元々別の世界の人間だったキャンディにはいまいち馴染みがないから、アルコールはアルコールでしかないと思う。でもきっと、ここでは正しいことなのだろう。エミリが言うのだから、間違いない。それに体が温かくなって気分が高揚するのはキャンディ自身、実感していた。
「大丈夫ですよ、キャンディ様。悪は必ず裁かれるもの、それが世の常ですわ」
「そう、そうだよね……」
「ええ、お嬢様のことはガードナー様が救ってくださいます」
「リチャード様が……」
「まだお若いから自由に動けないだけで、障害さえなければきっと今すぐにでも」
「しょうがい……」
空になったティーカップに、ブランデーが注がれる。ゆらゆら、ゆらゆら。揺れる湖面を見つめていると、吸い込まれてしまいそう。
ぼんやりとした思考で、キャンディは考える。
障害って、なんだろう?リチャード様を縛るもの、……私の邪魔をするモノ。それはなんだったろう。何を、誰を恨んでいたのだっけ?
「そういえば、ロックウェル様からお手紙が届いておりましたよ」
ロックウェル──その名を聞いて、思い出す。同情、憐憫、──(ちがう、私はかわいそうなんかじゃない!あんたに哀れまれたくなんてない!)そんな感情の滲む目で、偽善者の顔で。手を伸ばしてきた、この世界の異分子。
──私の邪魔をする、忌々しい魔女!
「……手紙には、なんて?」
「今度クレイトン家で開かれる夜会へのお誘いが書かれておりましたわ」
「……そう」
キャンディは二杯目のブランデーを飲み干して、頷いた。
「……了解したと返事を出しておいて」
「よろしいのですか?」
気遣わしげに問いかけてくるエミリに、自然と口角が上がる。
「大丈夫。私、ちゃんと戦えるから」
この母のように優しいメイドを守るためにも──そのためなら、なんだってできる。そう、キャンディは思った。
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