そして舞踏会が始まる
メイベルにドレスを着せてやりながら、レディス・メイドのレベッカは「よろしいですか、お嬢様」と子どもに言い聞かせる調子で言った。
「クレイトン卿のパートナーに選ばれるなんて、とても名誉なことです。決して失礼のないよう……、旦那様も奥様も、お嬢様に期待していらっしゃるのですから」
「もう、わかってるわよ」
耳タコだ、とメイベルは顰めっ面。ちっとも『お嬢様』らしくない。
でもだって仕方がないでしょう?うんざりだという気持ちを隠さずに、「お父さまもお母さまもそればっかり」と溜め息をつく。
実際、レオナルドから招待状を貰ったこと、彼のパートナーに指名されたことを伝えて以来、顔を合わせればその話ばかり。父も母も、メイベルの名よりレオナルドの名前を口にする頻度の方が多くなっていた。
彼らにとって大事なのは『メイベル・ロックウェル』ではなく、『メイベル・クレイトン』なのだ──両親が娘に期待するのは、より良い縁談。ただそれだけ。
……別に今さら、悲しくもないけれど。
「でもね、今回のは本当に何でもないのよ。レオナルドさまとは……そうね、よいお友だちになれたと思うわ。でもそれだけ、……それだけなの。期待させてしまって、申し訳ないけど」
「お嬢様にとってはそれが真実でも、レオナルド・クレイトン様にとっては違うかもしれません」
レベッカがドレスの釦を留め終える。胸元の膨らみを整える目はいつになく真剣だ。袖口のフリンジ、そのひとつひとつの角度でさえ、計算のうち。そう錯覚するほどに。
でも違うのよ、レベッカ。あなたの期待通りにはいかないの。
あなたの、──お父さまやお母さまの望みは決して叶わないのよ。
「……本当に、違うのに」
突如としてメイベルはすべてを打ち明けてしまいたい気分になった。何もかもを──レオナルドとは共犯者の関係であることを。
今夜開かれるクレイトン家の舞踏会だって、メイベルとレオナルドの目的は他の誰とも違う。貴族同士の社交のためでも、独身者らしく恋の相手を探すためでもない。見つけ出そうとしているのは、先日レンジャー家で起こった毒殺事件、その犯人である。
あの場に居合わせた人々、その誰が標的であったのか。少なくとも、いま現在一番窮地に陥っているのはキャンディ・レンジャーだ。だからメイベルはキャンディに鍵があるのだと考えた。
彼女の側にいれば、きっと犯人に近づける。そう思ったから、今夜の舞踏会を利用することにした。何か有益な情報がひとつでも得られたらいいのだけど──そればかりを考えていたが、レベッカの真剣な目を見て、はじめて良心が咎めた。
レベッカはこんなにも──こんなにも真面目に、私の幸せを考えてくれているのに。私はそんな彼女の思いを裏切っているのだ。
「……ごめんね、レベッカ」
でも事件のことを話すわけにもいかず、メイベルは多くの言葉を呑み込んだ。呑み込んで、その代わりに謝罪の言葉を吐き出した。
それも結局は、自己満足に過ぎないのだけど。
「……お嬢様、いったい何を企んでらっしゃるのです?」
「え?」
「お嬢様がこんな殊勝な態度を見せるなんて……何か疚しいことがあるとしか思えません」
「ちょっと、それってどういう意味かしら。私はいつだって素直でしょう?」
「ですが私の小言を大人しく聞き入れるのは滅多にありません」
「…………」
メイベルはむっつりと唇を引き結ぶ。
しかし心当たりはあったから、反論の言葉は生まれなかった。
メイベルの姿を認めると、レオナルドは僅かに目を細めた。
「用意はいい?」
「ええ」
小さく顎を引き、レオナルドの腕に手をかける。淑女らしく、慎ましやかに。彼の──侯爵のパートナーとして相応しく見えるように。
階段を下りた先には大広間が待っていた。クレイトン邸の、舞踏室。鏡のように磨き抜かれた床、集う人々の華やかなる装い。彼らの視線が、メイベルに突き刺さる。
観察者の目だ、とメイベルは思った。冷たい、無機質な目。男も女も、メイベルを見ながら耳打ちし合っている。
あの方はどなた──子爵家の一人娘らしい──ロックウェル卿も必死だということか──耳を貸しては駄目だとわかっているのに、笑みが引き攣りそうになる。
──けれど、
「こんな時だけど、キミのパートナーになれて光栄だよ」
レオナルドがそんな冗談を言って、微笑むから。メイベルもホッとして、肩の力を抜いた。
「私も、あなたが共犯者でよかった」
楽団が演奏を始める。ゆったりとした、穏やかな曲。それを契機として、人々は列を作った。一曲目はメヌエットだった。
男女それぞれに別れ、向かい合わせになった相手に一礼をする。その様子を横目で見ながら、メイベルは息を整えた。
──大丈夫。ダンスは嫌いじゃない。それにメヌエットは基本中の基本。難しいステップはないし、今さら失敗なんてするはずがない。
だから、大丈夫だ。
「心配することないよ」
「え?」
「まだ夜は始まったばかりだ。事が起こるとしても、今じゃない。それにうちの従僕たちには彼女を見守るように伝えてあるから、大丈夫だよ」
「そう、そうよね」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。右にターンをしながら、メイベルは慌てて答える。
すっかり目の前のことに──ドジを踏んで、公爵の名に泥を塗らないかという点にばかり意識が向いていたけれど、今夜の目的は舞踏会の成功じゃない。……いや、もちろん失敗もしたくはないが。
今度は反対方向に身を翻しながら、メイベルは視線を走らせる。
キャンディの姿はすぐに見つけることができた。彼女もまた、ダンスを踊っている。けれどまだあまり慣れていないせいか、表情が固い。真剣な目をしているのが遠目にもよくわかる。
「……キャンディさま、緊張なさっているようだわ」
「そうなの?たかが舞踏会で?」
「……そりゃああなたみたいな人にとっては、こんなの日常茶飯事なんでしょうけどね」
というかこの人、緊張なんてしたことあるのだろうか。
ないんだろうな、と羨ましく思いながら、彼の手を取る。柔らかな手袋は、触れただけで質のいいものだと伝わってきた。
「でもあれは相手が悪いわ。普通は男性の方がリードしなくてはならないのに」
女性の側が不慣れであっても、そこは男性がカバーすべきだ。
もしもキャンディのパートナーがレオナルドであったなら、彼は苦もなくやり遂げたろう。今だって呼吸のタイミングすらぴったり合わせてくるし、型にはまったダンスをしているという感覚がない。肩肘張らずに済むというのは、こういう時には途方もなくありがたかった。
「ということは僕はキミのパートナーとして合格できたのかな?」
「なに言ってるの。当たり前でしょう?」
むしろ私の方が粗相がないか不安だったのに。
何を言うのかと呆れると、重なった指先に力がこもった。
「そっか。──よかった」
その笑顔があんまりにも無邪気で、危うく今夜の目的を忘れそうになる。
「そうやって笑うと、あなたって結構かわいらしいのよね」
「初めて言われたよ、可愛いなんて。ちなみにそれって褒め言葉?」
「ええ、私なりには」
「じゃあ有り難くいただいておくことにするよ」
こんな台詞で、誕生日を迎えた子どもみたいな笑みを浮かべるなんて。素直というか、欲がないというか。
育ちがいいってことなのかしら。そう思うと同時に、『そりゃモテるわよね』と納得してしまうメイベルだった。
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