私はこの世界のヒロインではない
レンジャー伯爵家は古くから続く名家で、広大な領地を所有している。そのくらいしか知らないメイベルでも、現在の伯爵に隠し子がいるという噂くらいは耳にしたことがある。誰もが表立っては口にしない、公然の秘密というやつだ。
今回のパーティーはその隠し子の──一応は遠縁の娘で養女として迎えたことになっているらしい──お披露目もかねている、とリチャードは説明した。
「私も詳しくは知らないのだけど、素朴で可愛らしいお嬢さんだという話です。貴女が招かれたのは、『できれば娘の友人に』という親心もあるのでしょう。まだ社交界に心許せる人はいないようですから」
「もちろん。こちらこそぜひ仲良くしていただきたいわ。わたくしもお友だちの少ない寂しい人間ですもの」
「おや、私だけでは不満ですか?」
「まさか!貴方ほど話の合う方、他におりませんもの。リチャード様はわたくしにとって特別な人ですわ」
「……ええ、私にとっても貴女は特別な人ですよ」
淡い微笑を浮かべる彼に、メイベルも笑みを深める。この場合、友人というより戦友……とでもいうべきか。
社交界の苦手な者同士、手を組み、共同戦線を張ろう。──手紙の中でそう提案してきたのはリチャードの方からだった。
これはメイベルにとってみれば願ったり叶ったりの提案である。いつもいつも従兄に頼っているせいで、ちょうど両親からの視線が痛くなってきていたところだ。伯爵家の長男がエスコートしてくれると聞いて、普段は口喧しい母ですらピタリと小言を言うのをやめた。まったく、貴族なんて現金なものである。
「……さぁ、着いたようですよ」
音を立てて馬車は止まる。この街にあるタウンハウスのひとつ、レンジャー伯爵家の所有する屋敷。その正門前は既に招待客の馬車や使用人たちで溢れている。
その中に降り立つリチャードの、神々しいことといったら!月明かりの白銀はさながらヴェール。彼の金に近い髪が宵闇の中であっても──だからこそ、かもしれないが──眩しいほどである。彼に手を取られ、馬車を降りる間も、メイベルはその輝きから目が離せないでいた。
けれど彼自身はといえば、己のことにはつくづく興味がないらしい。
「今宵の貴女はいつにも増して美しい。周りの男たちからの視線が痛いくらいだ」
称賛の言葉をさらりと放って、蕩けるような笑みを浮かべる。けれど気障な台詞が嫌みに聞こえないのは、声の調子が軽口を叩く時のそれと同じだったからだろう。
気の置けない友人だからこその台詞だと伝わってきたから、メイベルも素直に「ありがとう」と言うことができた。
ありがとう、「貴方もとっても素敵よ。まるで──」まるで、レッドカーペットの上を歩くハリウッドスターみたいに。
「……まるで、雪花石膏の像みたいに」
慌てて言い添えるが、幸いなことに動揺は闇の中へ紛れてくれたらしい。リチャードは気にした素振りもなく、「詩的な言い回しですね」と目を細めた。
──考える時間があったら、これよりずっと素晴らしい表現ができたのに!
彼を想いながら綴った詩は数知れず。だからこそメイベルは悔しさに臍を噛む。書斎に隠したポエムノートの存在は、メイベルにとって誰にも知られたくない重大な秘密のひとつだった。
「ああほら、あちらが件のご令嬢ですよ」
声のよく通る従僕に名前を呼ばれ、広間へ入る。
鏡かと見紛うほど磨き抜かれた床、流行に沿いながらも上品さを失わないデザインの壁紙。硝子のランプはきらきらと輝き、広々とした室内を明るい光で満たしていた。
さすがは地位も財産も兼ね備えたレンジャー伯爵家。『非の打ち所がないわ』と感嘆していたメイベルだったが、リチャードに耳打ちされ、ハッと我に返る。
リチャードの視線の先、そこには今回のパーティーの主催者である伯爵と、彼に挨拶する招待客──その他にひとり、見慣れない顔の少女がいた。
「……可愛らしい方ね」
遠目で、はっきりしたことはわからないけれど。でも物慣れないその様子はメイベルの目に微笑ましく映った。
そう感じたのは、自分よりも年下に見えたことも大いに関係していたのだろう。メイベルには弟の他に兄弟はいないし、その弟も今は寄宿学校で生活していたから。
それに彼女は下町育ちだという話だし、根っからの貴族じゃない分話しやすいかもしれない。何しろメイベル自身、前世はまったくの庶民であった。その感覚が抜けきらないせいか、どうも他の貴族令嬢と上手く付き合えないのだ。お陰で話し相手ときたら家族ぐらいなもの。時折気紛れに声をかけてくる人もいるが、交流が長く続くことはなかった。
だから──もしかしたら──今度こそ、きっと、
「きっといいお友だちになれると思います。……いいえ、そうなりたいと、わたくし自身が思ってるんだわ」
呟くと、何故だかリチャードは目許を緩めた。
「……貴女ならそう言うと思った」
その目はまるで懐かしいものでも見るみたいだ──そう考えて、メイベルは内心首を傾げる。
懐かしい、なんてありえないことなのに。
それとも、まさか──?
「こんばんは、メイベル嬢。よく来てくれたね。ロード・ガードナーとは先の休暇以来かな。紹介するよ、こちらは娘のキャンディ」
目が合うと、レンジャー伯爵の方から歩み寄り、挨拶をしてくれた。
人の良さそうな焦げ茶の目と、趣味の乗馬で引き締まった身体が特徴的な人だ。お陰で実際の年齢よりも若く見える。
そりゃあモテるわけよね。メイベルは納得と共に微笑む。それよりも気にすべきは、伯爵の隣に立つ少女の方だった。
「は、はじめまして、こんばんは」
キャンディと呼ばれた少女は、その若さに相応しい、若草色のドレスを身に纏っていた。緊張と興奮のためだろうか、紅潮した頬も相まって、一輪の花のようだとメイベルは思った。
「この通り拝謁したばかりでね、まだ右も左もわからないんだ。メイベル嬢とは歳も近いし、色々と教えていただけるとありがたいんだが、」
「それはもちろん。仲良くしていただけると嬉しいですわ」
そういえば伯爵夫人はどうしたのだろう?
普通なら夫婦揃って挨拶に出てくるはずなのだが、辺りを見渡してもそれらしい姿は見当たらなかった。体調でも崩しているのだろうか?それとも──血の繋がらない娘が主役のパーティーなど出たくないのか。
いずれにせよ、いま聞くべきことではない。何も気づかなかったふりをして、メイベルは伯爵の言葉に微笑んだ。
本当なら娘に教育を施すのは母親や母親が選んだ使用人の役目だろうが、キャンディの場合それも難しいだろう。そう考えればいっそう力になってやりたいと思った。通常よりも早くに社交界デビューをせざるを得なかった少女のために。
「よろしくお願いしますわね、ミス・キャンディ──」
メイベルは優しい笑みを心がけながら、手を差し出す。
しかし綻びかけたばかりの少女からの返事はない。「ミス・キャンディ?」繰り返しの呼び掛けにも、なお。彼女の大きな目は目の前のメイベルを通り越して、その後ろに立つリチャードを捉えて離さなかった。
さて、どうしよう。行き場を失った手は宙に浮いたまま。メイベルは困惑を露にする。
と、そんな娘の様子には父親であるレンジャー伯爵も怪訝な顔。「どうしたんだい、キャンディ?」と眉を寄せて、少女の剥き出しの腕を軽く叩いた。
そこでようやっと自分が注目を集めていることに気づいたらしい。ハッと我に返ると、「ごめんなさいっ!」と慌てて父親に謝った。しかしその顔は緊張や羞恥だけではない赤さに染まっていた。
けれどメイベルには少女の気持ちが痛いほどわかった。わかったから、だからメイベルは鷹揚に微笑んだ。
「無理からぬことですわ。お相手がリチャード様とあっては誰だって目を奪われてしまいますもの」
むしろ鼻が高い、とさえ思う。……メイベルは彼の親兄弟でも何でもないのだけれど。それでもつい、誇らしい気持ちになってしまう。
──そりゃあまぁ当然ですけどね。だってリチャード様は世界一美しい王子様にそっくりなんですもの!
推しが褒められて嬉しくならないオタクはいないだろう。そんな不純な動機に端を発する台詞であったが、そうとは知らない伯爵は「心優しい人だ」と破顔した。
「メイベル嬢の評判についてはかねてより聞き及んでいたが……、なるほど、今夜招待した私の判断は正しかったようだ」
「評判……ですか?悪いものでないとよいのですけれど」
「子爵家の掌中の珠ともあろう方が、何をご謙遜を」
伯爵とにこやかに言葉を交わしていると、それまで静かに様子を見守っていたリチャードが「そうですよ」と相槌を打った。
「何しろこちらのメイベル嬢、かのレオナルド・クレイトン卿ですら敵わなかった女性ですから」
「まぁ、リチャード様ったら」
「おや、それは興味深い話だ」
それは場を和ませるための冗談であったのだろう。けれど、伯爵に思いもがけず興味を示され、メイベルは焦った。
なんせレオナルドに対しては普段被っている猫もどこかへ行ってしまっている。その姿を──特にリチャードには──知られたくなかったから、その件についてはあまり触れてもらいたくなかったのだ。
メイベルは引き攣りそうになるのを抑えて、なんとか微笑みをキープした。
「そんな大それたことではありませんわ。レオナルド様のお眼鏡にかなわなかった、ただそれだけの話ですのに」
「しかし我々の間ではちょっとした話題になっていますよ。貴女が彼を手酷く振ったと。それがいっそう狩人の闘争心を掻き立ててしまったんだとか」
「噂などあてにならないものですわ。レオナルド様とのことは……そう、ゲームのようなもの。ですからどうかお忘れになってくださいな」
本当に、噂話なんてろくでもない。メイベルは自分が女性たちの間でどう評されているかよくわかっていた。
歴史があるだけの子爵家。その一人娘が財産目当てに年若い青年貴族をたぶらかしている──社交界にデビューしてすぐ、多くの人に愛を乞われて、いい気分になっていたのは否定できない。ほんの短い時間だったけれど、あの頃はパーティーも舞踏会も心から楽しむことができた。
でもすぐに陰口を叩かれるようになって──愛を乞うてきた人たちもただ束の間の火遊びを楽しみたかっただけなのだと知って──メイベルは社交界というものにほとほと嫌気が差した。
どんなに造作のいい貴族だって、どんなに優しそうに見えたって、人は仮面を被っているもの。深く関わりたくなどないし、遠くから眺めているだけが一番楽しい。
「残念。彼が振られたなら私にもツキが回ってきたのかと思ったのですが」
──そうやって冗談めかして笑う、リチャード様のことだって。
「リチャード様のことはとても良いお友だちだと思っておりますわ」
にっこり笑いながら、メイベルは思う。友人であって、恋い焦がれる対象じゃない。遠くからその姿を眺めていられればいい。それだけで幸せだ。
──だから優しい王子様の仮面を被って、微笑んでいて。たとえ嘘でも構わないから、だから永遠に私を騙していて。
「実に堂々としたものだね。ロックウェル卿も鼻が高いだろう。ぜひ我が娘にも男のあしらい方というものを教えていただきたい」
レンジャー伯爵の少々明け透けともいえる物言いに、メイベルは一瞬戸惑った。けれどすぐに「ええ、わたくしに教えられることがあるのでしたら」と応じた。伯爵とその娘の事情を思えば、何も不思議なことじゃない。
後ろ楯のない、けれど確かに伯爵家の血を引く娘──野心家の男から見れば良質な獲物だろう。そういった不埒な輩から娘を守りたいと思っているのは、伯爵の真摯な眼差しを見れば明らかなことだった。リチャードの推測は当たっていたのだ。
「ですがわたくしも経験の浅い身。レオナルド様との件も、あの方自身、どちらが先に攻略されるかだけを楽しまれているようなもの。ですからあまり期待なさらないでくださいませ」
「ああ、私の言い方が悪かったね。そこまで気負う必要はないんだよ。私としては娘と仲良くしていただけるのが一番だからね」
「そのようなお考えでしたらわたくしも安心ですわ。……ね、キャンディさま?」
しかしキャンディの方は夢見るような眼差しでリチャードを見つめるばかり。彼が困ったように眉を下げているのにも気づいていない。もう一度メイベルが呼び掛けて、それでようやく自分が水を向けられている立場だと察するレベル。これでは先刻のやり取りの繰り返しだ。
メイベルは素早く伯爵に視線をやり、彼が僅かに顎を引いたのを認めて、再度キャンディに笑みかけた。
「お疲れのご様子ですわね、レディ・キャンディ。少々休まれてはどうかしら?」
「それがいいですね。このあとも貴女に挨拶したい者は後を絶たないでしょうから。今のうちに少しでも体調を整えておいた方が良いでしょう」
メイベルの提案に、リチャードはさかさず援護の台詞を並べ立てる。その顔は笑っているが、有無を言わさぬ迫力が感じられないでもない。
キャンディもそれを感じ取ったのか。「でも……」と躊躇いながらも、はっきりとした拒絶の言葉は紡げなかった。だから救いを求めるように父を見上げるが、伯爵にも「その方がいいだろう」と優しく言われ、少女は肩を落とす。
その様子の、なんと哀れを誘うこと。ただでさえ小さな身体がいっそう頼りなく映り、メイベルは庇護欲を掻き立てられた。
「休憩室に行きましょうか?よろしければわたくしが付き添いますわ」
「ああ、すまないが頼んでもいいだろうか。まだ挨拶のできていない方々がいるものでね、──キャンディも、それでいいね?」
「……はい、お父様」
若干の不満を滲ませながら、少女は従順に頷く。もしかすると己の不甲斐なさを悔いているのかもしれない。それとも、もっとリチャードを観賞していたかったのだろうか?
後者ならなかなか素質がある、とメイベルは思った。同坦歓迎派のメイベルとしてはありがたい話だ。共に推し活ができたらどんなに楽しいだろう。
勝手な期待を募らせるメイベルだったが、休憩室となっている応接間に入った途端、少女に手を振り払われた。
「──悪いけど、私は仲良くなんてするつもりないから」
敵意すら感じさせる目で、キャンディはメイベルを睨み据える。
「どうせあんたも転生者なんでしょ?おかしいと思ったんだよね、主人公のお友だち枠でしかないサポートキャラのあんたが攻略対象のリチャード様と一緒にいるなんて……」
「ええっと……?」
「でもおあいにくさま、私はあんたを苛めたり追放したりもしないから。私はね、こういう設定には理解が深いの。だからあんたがいくらこのゲームを乗っ取ろうったって、絶対に私が阻止してみせる。ボロなんて出さないし、やられ役にもならない。あんたなんてモブに毛が生えたようなもんなんだから、身のほどを弁えて、ゲーム通りモブと結婚すればいいの。わかった?」
──彼女は何を言ってるんだろう?
理解の及ばない単語を駆使し、言い募るキャンディを前に、メイベルは呆然と立ち尽くした。
メイベルにわかるのは、彼女がちっとも友情を感じてくれていないということだけだった。
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