私の知らないあなたの素顔
親愛なるメイベル・ロックウェル嬢
手紙をありがとう。君から返事を貰えるとは思わなかったから嬉しいよ、本当に。私の気持ちの半分でも君に伝わったらいい。そう思いながらペンをとっています。
そうそう、君は東洋の文化に関心があるんだってね。風の噂に聞きました。そちらのことは詳しく知らないが、水墨画は悪くないなと思うよ。君を退屈させないよう、次に会う時までに勉強しておきます。おすすめがあったら、ぜひ。
我が家のバラも盛りを迎えました。はにかみ綻ぶバラの花を見ていると、君の慎ましい微笑が思い起こされます。叶うなら、この瑞々しさが失われないうちに君と会いたい。人の一生と同じに、溌剌と咲くこの花もたちまちのうちに色褪せ、朽ち果てていきます。ですから春の盛りを過ぎる前に、どうか。
愛をこめて レオナルド・クレイトン
今朝届いたばかりの手紙を開いて、メイベルは顔を顰める。
差出人の名前を見た時から、どんな内容が書かれているかは想像がついていた。けれど実際にその甘ったるい──演技過剰な文章を読み進めると、破壊力は抜群。すっかり胃もたれを起こし、冷えたレモネードすら美味しく感じられなかった。
特に最後の──バラが云々という部分。誠実な男を装っているらしいけれど、モテ男の傲慢さが隠しきれていないわよ、とメイベルは心のうちで悪態をつく。
古い詩からの引用だろうが、要するに『老いさらばえる前に、この僕が君と恋愛ごっこしてあげてもいいよ』と言いたいのだろう。まったく、余計なお世話だ。
──たとえ婚期を逃すことになってもあんたみたいな女ったらし、好きになるわけないじゃない!
本音としては今すぐ暖炉に火をつけて、手紙をくべてしまいたい。そうすれば少しは溜飲も下がるだろう。しかし何の解決にもなりはしない。だからメイベルは溜め息をつくだけにとどめた。
「人に見せられないお顔になっていますよ、お嬢様」
「こんな手紙貰ったら誰だってこうなるわよ」
メイベルを窘めるのは、長年仕えてくれているメイドのレベッカだ。無表情が常の彼女は、メイベルが同意を求めても応じてはくれない。子爵家の娘たるもの、といった様子で、「よいことではありませんか」と返してくる。
「レオナルド・クレイトン卿といえば社交界の花形、悪いお話ではありません」
「我が家にとっては、ね。でもわたくしの趣味ではないわ」
「情というものは、長年連れ添えば自然と生まれるものですよ」
気持ちなど、貴族同士の婚姻ではさして重要な点ではない。大事なのは爵位であり財産であり、同じ世界に属しているかだ。その前ではメイベルの主張など些末ごと。何をワガママ言っているのか──レベッカの考えは至極まっとうだった。
そんなことは百も承知。頭ではわかっている。ただ心が追いつかないだけ。……なんて、言ったところで甘えとしか捉えられないだろう。
だからメイベルは「そうね、その通りだわ」と投げやりに応じた。理解してもらえるはずもないし、してほしいとも思わない。わかってくれる人はたった一人。一人いれば、それでいい。
「クロード様にはクロード様の、メイベル様にはメイベル様の、正しい生き方というものがそれぞれにございます」
メイベルの閉鎖的な考えを見透したかのようなレベッカの台詞。淡々とした調子で、的確に弱点を突いてくる。
メイベルは返事をしなかった。その代わり、書斎机の上の白紙の便箋を睨むようにして見つめた。ささやかな抵抗だ。子供が母親に対してするような、甘えの残るそれ。メイベルは唇を噛む。
こんなことしかできない自分が腹立たしい。腹立たしくて、情けなくて、嫌になる。自分がこんなに無力だったなんて、思いもしなかった。知りたくなんてなかった。
──件のレオナルド・クレイトン卿がメイベルを訪ねてきたのは、
メイベルとしては頭痛を理由に無視を決め込みたかったのだが、レベッカがそれを許してくれるはずもない。それにそもそも在宅日とは飛び込みの客でも歓迎する日である。選択肢など、最初から存在しなかった。
「少しでも早く、このバラを君に届けたくて」
メイベルが居間に足を踏み入れると、レオナルドはそう言って微笑んだ。邪な感情なんてこれっぽっちもない。そう言いたげな微笑に、メイベルの心は却って凍りつく。
こんなのはゲームでしかないのに、よくもまぁまめまめしいこと。手紙に訪問に贈り物……そこまでする価値が、果たしてこの遊戯にあるのだろうか?だったらキネトグラフの研究でもして映画文化の発展に寄与した方がずっと意味があるだろうに。
尤も、この世界の歴史はメイベルが知るものとは少し違うらしく、エジソンの映画スタジオもリュミエール兄弟の名前も存在しない。まったくの異世界なのだ──というのがメイベルとクロードの共通認識だった。つまりはかつての推しがこの世界に生を受けることもないのだろう。
……なんだか無性に悲しくなってきた。
「それとも君の好みではなかったかな」
「いいえ、美しいものは好きですわ。誰だって、……そうでしょう?」
メイベルは対人用の微笑を取り繕った。受け取った花束からは濃厚な匂いが立ち込めた。
なんて鮮烈な赤色なんだろう。メイベルは思った。赤色というより緋色といった方が正しいかもしれない。ルノアールの描いたあの有名な赤バラを思い起こさせるそれ。
白い膚の上に散らしたら、この色がどんなに映えることか!考えただけでワクワクしてきた。胸元や髪に挿すのもいいけれど、この赤さを一番際立たせるのは膚の白さだと思う。
たとえばバスタブに沈めた膚の上、生と死の間を揺蕩う身体にこの赤いバラを幾つも降らしたら──どんなに頽廃的な画面になるだろう。メイベルの中で、夢想のモデルはいつしかこの世界の推し──リチャードの姿をとっていた。
できるならその姿を後世に残しておきたい。絵画よりも正確に、物語よりもリアルに。映像として残しておけたら──
「僕が君を気に入ったのはただ美しいからというだけではないよ。それだけは覚えていてほしいな」
笑みを困ったような形に変えるレオナルドに、一瞬良心が咎める。自分がとてつもなく悪いことをしてしまった、そんな気にさせられた。……ほんの一瞬だけ。
「……信じられませんわ、形のないものなんて」
これがこの人の【手】なんだわ。哀れを誘って、怯んだ隙につけ込む。それが悪いことだとは思わない。思わないけれど、メイベルはこういった遊びを楽しめるような性格ではなかった。
子どものような可愛いげもなければ、駆け引きを楽しめるほど大人でもない。だからきっとレオナルドもすぐに飽きるだろう。メイベルはそんな予測を立てていたのだけれど。
「では信じてもらえるよう努力しなくてはならないね」
「その必要がないと申しているのです。わたくしなどに拘らずともよいでしょう?」
「それは僕が決めることであって、誰の指図も受けるつもりはないよ。もちろん、君にも」
「……そうですか」
なんとまぁ勝手なこと!
メイベルはただ耐えるしかないのだ。勝手極まりないゲームにも、この男の甘い誘惑にも、貴族令嬢たちの冷たい視線にも、何もかも。
選択権はないのだと改めて突きつけられ、メイベルは肩を落とした。さっきちょっとだけ『申し訳ないな』と思った気持ちを返してほしい。
「ところで今度開かれるレンジャー伯爵家でのパーティーだけど、」
「あら、奇遇ですわね。わたくしも招待状をいただいておりますの。リチャード様がエスコートを申し出てくださいましたし、せっかくですから参加しようかと」
「……しまった、先を越されたか」
悔しそうに歪められた顔を見ると少しだけ胸がすいた。
せっかくのゲームだ。どうせなら勝ちたい。勝って、この百戦錬磨の男の鼻を明かしてやりたい。これは矜持の問題だ。
──人として、女として、貴族として、この男には負けたくない。
「ふふっ、残念でしたわね」
「本当だよ。リチャードにだけは負けたくないのに」
「まぁ、わたくしとの勝負ではありませんでしたの?酷い人だわ、貴方って」
「あぁ、ごめん。今の僕が君しか見ていないのは真実だよ?ただ彼とは同い年だからね、色々あるのさ」
「色々?」
「そう、色々とね」
少し意外に思う。レオナルド・クレイトン──公爵家の嫡男で、後腐れない火遊びにも慣れた、自信に満ち溢れた人。そんなイメージしかなかったから、リチャードに対する【負けたくない】という言葉が強く印象に残った。
けれど深く語るつもりはないらしい。メイベルがじっと見つめても、はぐらかすように笑う。
本心に触れた気がして、──そんな彼はいつもより好ましく思えたのに。
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