起死回生の一手 ─ 1
けたたましい足音を鳴り響かせ、将之は鉄骨の折り返し階段を二段飛ばしで走り上がる。
屋上へと繋がる急勾配の階段は、残り三十段ほどだろうか。五階分の高さを休みも入れずに走破したため、息が苦しい。
限界を訴える膝を叱責して無理矢理持ち上げ、将之は一気に残りを駆け登った。
ぐんぐんと近づいてくる空。階段が終わり、足元が金属製の踏板からコンクリートに変わる。即座に体を右に回し、将之は屋上の奥へと走り込んだ。
屋上の縁には、落下防止の金属フェンスが設置されている。その向こう側では、すでにサンタの全身の大部分が見えるまでになっていた。
足元に滑らせるようにして端末を置いた将之は、フェンスから大きく身を乗り出す。目を丸くする奏に向かって投げ飛ばしたのは、肩にかけていたコードの束だ。
「掴め、奏!」
丁寧に片付けられたのだろう。回転したコードは絡まることなく宙を横断し、腕を伸ばした奏の元に届いた。
奏がその先端を掴んだと確認するや否や、将之はすかさずコードの逆側をフェンスに巻き付ける。
サンタの体が、一瞬だけがくりと大きく揺れた。それでも上昇は止まらない。一体どれだけの浮力を持っているのか。悠然と上昇を続けていたサンタが足裏を見せて静止したのは、ひとえにコードが伸びきったからだ。だが、ギチギチと悲鳴を上げるコードが千切れるのも時間の問題だろう。
ならば、できることはあと一つだ。フェンスから再度上半身を出し、将之もまたコードを鷲掴む。手や腕、考えうる限りの場所にコードを巻き付けて引き寄せると、全身に凄まじい重さがのし掛かってきた。
「うぐ……っ!」
もげそうになる腕に歯を軋らせ、将之は顔を上向ける。奏はサンタの上半身にしがみついており、高さにして数メートルの落差がある。水平距離も同じくだ。奏が飛び移るには無理があった。
少しでも引き寄せられないかと将之は腕に力を込めるが、頭上に浮かぶ寄生体はびくともしない。どころか、さらに上昇は続いている。絶えずビル側から吹く風が、その巨体を建物から引き離す。
ズ、と、引きずられた足が動いた。フェンスから上体が引き摺り出されそうになり、将之は必死で足を踏ん張る。
軋むような苦しげな音を立てているのは、自分の腕だろうか。あるいはフェンスか。将之の手が、指が、徐々に鬱血して紫色に染まっていく。
右手でサンタの帽子付近を、左手でコードを握りしめる奏が、将之の異変に目の色を変えて叫んだ。
「マサムネ、プログラムは? 完成次第転送しろ、今なら打ち込める!」
「駄目だ! 今そいつを消滅させたら、お前を支えるものが無くなる!」
「いいよ、そんなの」
「いいわけあるか、怪我で済む高度じゃないだろうが!」
がなり立てた将之の主張など、もちろん、奏とて承知の上だろう。にも関わらず、奏はもどかしそうに叫び返す。
「でも、このままじゃ逃げられるぞ! ツリーがうまくクッションになるかもしれないし、運がよければ大した怪我は――」
そう弁明しながら、奏が己の手に巻きつけていたコードを緩め出すに至って、ついに将之はブチ切れた。
「ゴチャゴチャうるさい、このバッカナデ!」
風すら追い散らしそうな勢いで響き渡る怒号。一度は緩められたコードを意地になって引き直しながら、さらに将之は怒鳴る。
「オレはお前を見捨てないぞ! どんな状況だろうが、絶対にだ!」
言葉を失った奏が、大きく目を見開くのが分かった。
何を驚いていやがる、と、胸中で将之は顔を顰める。
「くっ……」
腕の痛みに耐えながら、将之は唐突に、以前にも自分が究極の選択を迫られたことを思い出した。もっとも、それは今のような深刻な事態ではない。
ほんの半時間ほど前に奏と話していた、大学時代の彼女との逸話である。
当時の将之は電機寄生体の研究に没頭しており、研究室に寝泊まりすることもザラだった。デートはおろか、通話やLINKでのやりとりすら稀で、彼女と喫茶店でお喋りに興じるより、CやJavaを通じて機械と話す時間のほうが確実に長かった。そんな将之に業を煮やした彼女が、あのクリスマスの夜、やはり研究室に籠もっていた将之に、電話の向こうから尋ねてきたのだ。「私とメカのどっちが大事なの」、と。
将之の答えは明快だった。
「どっちも大事」
その即答でついに別れを告げられ、以来、将之に彼女がいたことはない。
だが、後悔はしていない。あれからもう何年も経ったが、今でも彼女の問いに将之は同じ答えを返すのだろう。
――そう。「究極の選択」などクソ食らえだ。この盤面が避けようのない二者択一であるなどと、決めつける根拠が一体どこにある?
寄生体は逃がさない。だが奏は助ける。
見つけ出せ、どちらも捨てずに済む好手を。
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