大きなモミの樹の下で ─ 4

 将之が呆然と見上げる中、不意に寄生体がツリーからふわりと空に舞い上がった。奏はまだ先端に到達していない。あれでは間に合わない。

 だが、相棒は将之の予想よりも思い切りがよかった。あるいは無謀とも言う。

 枝を蹴って跳び上がった体が、寄生体の丸い下半身にがっちりとしがみついた。奏はそのまま殴打を加えるが、寄生体に反応は無い。奏をしがみつかせたままの状態で、ゆっくりとツリーから離れていく。巨大な体は、近くのビルの壁をこするようにして上昇を始めていた。

「くそっ!」

 毒づき、将之はビルに向かって走り出す。奏のようにクリスマスツリーを登る身体能力が無い以上、最も寄生体に近付くことができる場所はあそこだ。

 すでに辺りに人の姿は無い。と、そう思っていた将之の進行方向に人影が現れた。突然のことにぶつかりそうになった将之は、すんでのところで急停止する。

 衝突を危うく免れ、将之同様に驚いているのは、戸惑った様子の保典だった。律儀なことに、台車を押して追いかけてきてくれたらしい。将之と、ツリー上空の寄生体を交互に見て、保典は信じがたい、という面持ちで尋ねる。

「あれが寄生体ですか? しがみついているのは、まさか」

 問いには答えず、台車のダンボール箱に視線を走らせた将之は、その中の一つに迷わず手を突っ込む。腕を通して肩にかけたのは、綺麗にまとめられたイルミネーションのコードの束だ。

「お借りします!」

 事後承諾の声すら置き去りに走る背は、すでにビルの外壁に設置された非常階段へと向かっている。

 鬼気迫る将之の勢いに、声も出せないまま固まってしまっていた保典は、ふと、残された段ボールへと視線を落とした。

 手を伸ばしたのは、一番上に収められていたビニール風船。丁寧に畳まれたそれを広げ、目の前に掲げる。

 その姿にゆっくりと目を瞬かせた保典は、再びクリスマスツリーの上空を――大きく膨れ上がったサンタクロースを見上げた。


     *


 風船を模しているためだろう。つるつるとして滑りやすい表面にどうにか手をかけ、奏は苦戦しながら寄生体の巨体をよじ登っていた。

 下を見ると、すでに地上は遠い。冬の夜風が吹きつけ、サンタの体を大きく揺らす。落とされないように両手の握力を総動員して堪える奏の前で、再び地上で赤い光が弾けた。

 続けて微かに響くのは破裂音と、逃げ遅れた、あるいは避難の最中である人々の甲高い悲鳴。

「やめろ! これ以上、ヒトに危害を加えるな!」

 しがみついたまま、奏はサンタの腰を揺さぶって訴える。答えは、眼下から再び響いた乾いた音だった。火のついたような子どもの泣き声、苛立たしげに怒鳴る罵声もあとに続く。

 先ほどまでは確かにあった、クリスマスの幸せな光景は、今や見る影もない。

「なぁ、違うだろ。忘れてほしくないっていうのは、こういうことじゃないんだろ……」

 気を抜けば滑ってしまいそうな手にぎゅっと力を込め、奏は固く目を閉じる。


 ――ワスレルナ!


 瞼を閉ざしたことで鋭敏になった聴覚が拾ったのは、今にも泣き出しそうに聞こえる叫び。その痛切な響きに息苦しくなった奏は眉を寄せた。

「そうだよな。忘れられるのは苦しいよな」

 賑やかな街路、輝くイルミネーション、幸せそうな笑顔。キラキラとした街に溶け込もうとしても、そこに居場所が無いことは、誰よりも自分がよく分かっている。

「知ってるよ。誰も見てくれないのは寂しいし、怖いってこと。でもな」

 奏の中にあるクリスマスは今も暗い部屋のままで、イルミネーションは扉一枚隔てた世界で輝いているものだった。

 だとしても。

「駄目なんだよ。誰も気付いてくれないからって、他人を傷つける理由にするのは」

 目を開いた奏は、サンタの顔を見上げる。

「そんなんじゃ、世界に『悲しい』しか残らないじゃないか」

 寄生体からの答えはない。代わりのように吹きつけた強風が、奏の体をサンタごと宙に攫おうとする。すでに高度は隣接するビルの屋上付近まで達しており、墜落すればただでは済まないことは明白だった。今さらながら、その事実に気付いた奏は顔を引き攣らせる。

 だが、今さら降りようにも手遅れだ。

 それ以前に、このまま寄生体を取り逃すつもりなど、奏には毛頭無かった。

 腹を据え直し、奏は再びサンタの体をよじ登る。目指すのは、ラインが繋がっている三角帽子の先端だ。一番掴みやすそうであるとともに、日頃から駆除作業で狙っているコネクトポイントに自然と引き寄せられたためである。

 と、そこで奏は気が付いた。

 ライン?

 そう言えば、いつの間に復活したのだろう。将之がコネクトチップを貼り直したのだろうか。ならば機器への固定は完了しているということになり、今ここで、無理をしてまで捕える必要は無いかもしれない。

 ――そう、考えてしまった。

 一瞬の油断。その隙を突くかのように正面からぶつかってきたのは、これまでに無く強い突風だ。高度が上がれば、当然ながら風の強さも増す。ツリーとビルの間をすり抜ける風に足を掬い上げられ、奏の下半身が一瞬だけ宙に投げ出される。

(やばい!)

 ここで手を離せば、奏の体は高度数十メートルから硬いアスファルトへと叩きつけられることになる。もしかしたら運よくツリーに引っかかるかもしれないが、確率としては低そうだ。

 風は止まない。腕全体を使ってサンタにしがみつくが、このままでは落下は免れない。ビルに飛び移るにしても、距離があり過ぎる。極寒の中でありながら、奏の額を汗が一筋伝った。

 一か八か、跳ぶべきか。跳ぶならば今しかない。選択を迫られ、奏がごくりと唾を飲んだ、その時。


「奏ーっ!」


 馴染みのある声が、耳元で荒れ狂う風の音を貫き響いた。

 目を見開き、奏は声が聞こえた方向へと顔を向ける。

「マサムネ……?」

 まさに今、奏が飛び移るか否かで迷っていたビル。その壁面に設置された非常階段を、猛然と駆け上がる見慣れた姿。

 暗闇に青い光の尾を引きながら、その瞳は奏を真っ直ぐに捉えて離さない。

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