暗夜に踊る ─ 2

 左手に端末をのせた将之が立ち上がる。折しも、奏は蠅の横腹に一撃をお見舞いして吹き飛ばしたところだ。

「行けるぞ、奏! 構えろ!」

「了解!」

 叫び返した奏がイヤホンコードを引っ張った。ポケットから、隠れていた先端が躍り出る。だが、それは少しばかり奇妙な造作をしていた。通常なら左右から集約され、Y字型になるはずのコード。その先端が、途中で二股になっているのだ。一方の先に繋がっているのは、掌に収まるような小さな黒い機械。だが、残るもう一方には何も繋がっていない。

 剥き出しのイヤホンプラグが、中空でキラリと光った。

 黒い機械のほうはポケットに突っ込みなおし、奏は行き先不明のコードを掌に巻き付ける。仕上げに固く、逆手でプラグを握り込んだ。


 ――ウラ……シイ


 途切れ途切れの声に、奏は思わず耳を押さえた。だが、すぐにハッとしたように飛び退る。

 間一髪。その足元で、青い光が弾けた。

 攻撃は一度で止まない。執拗に繰り返される電撃を、踊るような足取りで奏は軽やかに回避していく。その進路上には、川を背にして闇を突き上げる電信柱があった。蠅にすれば、そこに追い詰めようという腹積もりなのかもしれない。

 ふ、と奏は小さく笑みを漏らす。捕食者の笑みだった。

 川辺までの距離は二歩といったところだろうか。あと一度の電撃を避ければ、確実にその背に退路は無くなる。

 蠅がとどめの一撃を放つ。瞬間。

「いい手だった」

 言って、奏は足元を蹴り上げた。

 宙に放り出されたのは、先ほど将之が投げて寄越し、蠅の一撃を受けて落ちた金属サッシだ。

 一撃目の再現。

 サッシが激しく光を放つのと、奏が身を翻したのは同時だった。

 残った距離を一息で無にした奏が、電信柱を駆け上る。二メートルほど上ったところで、その両足が力強く柱を蹴った。

 曇った夜空を背景に、弓なりに反らされた身体が弧を描く。目がくらんだ蠅には見えていない。

「転送」

 呟き、将之がエンターキーを叩いた。途端に、奏が握ったプラグの先端が輝き出す。

 その光に、ようやく蠅が頭上を見上げた。複眼に映るのは、白い輝きを伴い迫ってくる奏の姿。瞬きもできずに見上げる赤い目には、やはりなんの感情も宿っていない。が。


 ――ウラヤマシイ


 零れ落ちた声に、奏の瞳が大きく揺らいだ。

 蠅の背中に着地した奏は、間髪入れずにその首を抱え込んで締め上げる。蠅は体を揺すって払い落とそうとはするが、電撃を放つ気配は無い。

 大きなガラス玉のような目が、奏を見る。歯を食いしばり、奏もその目を見つめ返した。

「どれだけ羨ましくたってなぁ……」

 白いコードが夜にひるがえる。振りかぶった右手に、左手が添えられた。

「他の誰かから奪う権利はねぇんだよ!」

 叫び、渾身の力を込めた奏は触覚の付け根にイヤホンプラグを突き立てた。それを見るや否や、将之も再度端末をタップする。

「展開!」

 叫びに導かれ溢れたのは、光の奔流。プラグを挿された場所を起点にし、無数の1と0が空間へと踊り出した。たった二つの数字の羅列が、瞬く間に蠅の全身を覆いつくしていき。

 ドクン、と。

 鼓動にも似た音が、一度だけ空間を揺るがせた。

 その音を境にしたように、蠅の内へと光が反転収束する。誰もが、動きを止めていた。

 一拍の静寂の後。

 ぱん、と風船が破裂するように蠅の身体が光の粒子となって弾け飛ぶ。音は、無かった。

 空気の代わりに吐き出された白い光が、空へと昇っていく。比例するように透明度を増した蠅は、やがて溶けるように消え失せた。

 嘘のように静かになった後には、アスファルトに焦げ跡が残っているだけだ。

 それが、それだけが、ここで戦いがあったことを示す唯一の証だった。

 蠅が消滅し、足場が無くなった奏は片膝立ちの姿勢でそこに着地する。

 ぼんやりと、彼は右手を持ち上げた。手の中にあるのは、奇妙な二股のイヤホンプラグ。それをしばらく見つめ、再び握り締めるとポケットに仕舞いこむ。

 そこでようやく気が抜けたのだろう。

 大きく息をついた彼は、後ろ手をついてべしゃりと座り込んだ。見上げた空は相変わらずの曇り模様で、星どころか月の姿も無い。


     *


 歩み寄った将之は、空を見上げて動かない奏に手を差し伸べた。微笑んだ目は、もう元の黒色へと戻っている。

 しばらく、奏はその手と将之を呆けたように見つめていた。だが、やがて彼の口元にも将之と同種の笑みが広がる。

 手が繋がり、立ち上がった奏のシルエットが焦げ跡だらけの地面に伸びた。

 どちらからともなく手を離し、そしてまた掲げられた拳が、コツンと曇天の下でぶつかりあう。

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