暗夜に踊る ─ 1
この時期の日暮れは早い。
辺りはすっかり暗くなり、対岸では家から漏れた明かりが、そのずっと後ろでは、都会の夜景が煌々と夜を照らしていた。
もっとも、川を一つ挟むとその光景は全く違うものになる。人工の明かりは橘時計店のものと、そこから伸びる青い帯状の光だけだ。
「恨めしい、とか、なんとか言ってたな」
時計店から伸びた光の先。バチバチと触角を閃かせる蠅に、奏は厳しい口調で問いかけた。片耳のイヤホンを軽く押さえて蠅を睨みつけるが、答える声は無い。静まりかえった空間には、蠅が発する乾いた敵意の音だけが響いていた。
「どんな理由があったとしても、たとえ殺意は無かったとしても。お前がしたことは許されることじゃない」
糾弾に反論するように、蠅の関節や翅からギチギチという嫌な音が発せられた。臨戦態勢に入った相手に、眉を寄せていた奏も耳から手を離す。
「駆除させてもらうぞ、『ブラックマリオネット』」
静かな宣言。ゴングの代わりに、時計店のガラス扉が勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、端末を片手に持った将之だ。蠅から目を離さず、奏は端的に問いかけた。
「マサムネ、あとどのくらいだ?」
「三分、いや、二分で終わらせる。持ち堪えられるか?」
「お前がそうしろって言うならな」
微笑した奏の返答と同時に、蠅が動いた。二人にとっては見慣れた光が闇を切り裂く。
「奏、使え!」
将之が投げて寄越したのは、蠅が散々に壊したショーケースの一部だった。顔は正面に向けたまま、奏はその金属片を正確に掴み取る。将之が続けて叫んだ。
「飛ばれると厄介だ、翅を狙え!」
「了解!」
青白い光が迫る。その光が弾ける寸前、奏は大きく腕を振りかぶった。
「っ、らぁ!」
槍投げの要領で投げられたサッシが、ブン、と空を切る音。それは放物線の頂点で、あたかも避雷針のように電撃の全てを受け止める。
インパクトの一瞬、周囲が真昼のように明るくなった。
視界を焼かれた蠅が動きを止める。無防備に広げられた翅を、奏の蹴撃が貫いた。下から上へ。穿たれ、散った薄片が花火のように暗闇を彩って消えていった。
ぼろりと崩れた身体に、蠅が不快そうな鳴き声を軋ませる。苛立っているのだろう。狙いも定めずに無茶苦茶に電撃を放つ姿は、
感情的な攻めほど見切りやすいものは無い。事実、戦況は一方的に傾いていた。奏の方へと。蠅の攻撃はもはや当たらず、カウンターで重ねられる拳にただ打ちのめされている。「さすが」と唸った将之は、小さく笑みを浮かべた。
「オレも約束は守らないとな」
彼もまた、別の戦いへと挑んでいる最中なのだ。
将之が己に課した猶予は二分間。その間に、全ての処理を終える必要があった。だが、端末の画面下部に示されている完了予定を示すプログレスバーは遅々として進んでいない。キーを叩きながら、将之は端末に呼びかける。
「【LIZ】、コード解析完了までの時間は?」
≪チェック。完了まで残り三分≫
思わず将之は顔をしかめた。
「遅いな。照合先をDとFに限定。優先順位は
≪承諾。波形データ送信。完了。モードをマニュアルに変更≫
従順な機械音声のあとに、新たなソフトが立ち上がる。画面に現れたのは、刻一刻と色や形を変化させる多角形。そして、画面を流れていく膨大な数値だった。
「さあ、これでどうだ」
固唾を呑んだ将之が見守る前で、完了予定時刻を示すプログレスバーが、グンと進んだ。
≪完了予定時刻更新。残り一分≫
先ほどよりもずっと早くなった時間に、将之は満足気に笑みを深める。
と、その時。背後から微かな音が聞こえた。振り返った将之は、思わず目を見開く。そこにいたのは、いつの間にか店から出てきていた時子だ。
「! 隠れているように、と」
「ごめんなさい」
将之の言葉を遮った彼女は、勢いよく頭を下げた。
「でも、どうしても……」
彼女が胸元で握り絞めた左手首。そこに嵌められた腕時計を一瞥し、将之はもどかしそうに顔をしかめた。
「分かりました。けれど、危なくなったらすぐに店に入ってください」
端末に顔を戻した将之に、ほっとしたように時子は頭を下げた。
≪残り三十秒≫
アラートにも似た秒読み。緑だったプログレスバーが赤く変じ、一秒ごとに短くなる。緊張感が高まる画面と、吐き出され続ける数値の群れ。爆発でもしそうな物騒な様子に「一体、何を?」と、時子は慄いた。画面から目を離さず、将之は早口で解説する。
「電機寄生体を消滅させるには、組成データ解体のための破壊プログラムを、実体化させた上で直接打ち込む必要があります。データは個体によって全く異なるので、接点に貼り付けたステッカーから読み込んだ情報を解析し、個々に応じたプログラムを適宜作成する必要がある。奏の主な仕事は、オレがそのプログラムを作成する間、実体化した寄生体の暴走を抑え込んで時間を稼ぐことと」
画面で刻々と減っていた数字がゼロへと到る。完了したのだ。
「完成したプログラムを、寄生体に打ち込むことです」
将之が
全てのウィンドウが切り替わったのを最後に、画面は一度ブラック・アウトする。まるで端末がまたたきをしたかのように、一瞬の後に画面は再び明るさを取り戻した。
真っ白な画面の中央で、くるりと回った蜥蜴が告げる。
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