夕暮れの時計店

 帰宅ラッシュで混み合う幹線道路を抜け、目的地近くの河川敷まで辿り着いた時には、もう夜がそこまで迫っていた。群青に染まりつつある空の下では、まるで影絵のように周囲の建物が黒く浮かび上がっている。

 とはいえ、その数は多くはない。対岸には民家の明かりもぽつぽつ点き始めているが、三人がいる側ではぐっと数が減る。シャッターが下りっぱなしの店舗に、窓ガラスの割れた家屋。中身が入っているのかも怪しい薄汚れた倉庫群。かろうじて目と鼻の先にある町工場だけはまだ人がいるようだったが、彼らもそのうち「営業終了」の札を掲げて、週末の夜に消えていくだろう。

 そんな、枯れた風景の中。堤防沿いの道の脇に、ぽつんと『橘時計店』はあった。

 両開きのガラス扉と、今は空になっているショーウィンドウ。かつては、ここにも祖父のお気に入りの時計が並べられていたものだった。年季の入ったクリーム色の外壁にかけられた店の看板も、時子にはどことなく寂しそうに見える。

「ここがおじいさんの店?」

 問いかけたのは、隣で同じように店を見上げていた奏だ。途中で立ち止まった時子に合わせ、律儀に足を止めたようだった。

 長く伸びる影は二人分で、将之はいない。駐車スペースが少し離れたところにあるので、先に二人を降ろしたのである。

「はい。この辺りも昔はもっと人が住んでいて、お店もそれなりに賑わっていたそうですけど、今はご覧の通りで」

 苦笑し、時子は夕闇に佇む店を改めて見やる。大きなガラスに映る景色が灰色なのは、けして長年の埃汚れのせいだけではない。

 二人の背後で、人の気配を唯一残していた工場のシャッターが下ろされる音がした。ぼんやりとした鏡面世界の中、錆の浮いた軽トラックが敷地から出ていく。

「最後はお店も、祖父の道楽みたいなものだったんです。後ろの建物はスクラップ工場なんですけど、よく部品になりそうな廃材を貰ってきては、売り物じゃない時計や玩具みたいなものを気ままに作っていました」

 頑なで口数の多くない祖父だった。それでも、時子の記憶にある彼はいつでも楽しそうに機械を弄っていたものである。

 時子の言葉に、奏は「へぇ」と口元を綻ばせた。

「俺、この店好きだな。なんか優しい感じがする」

 想定外の反応に、時子は少し目を見開いた。てっきり「古臭い」とでも言われると思っていたのだ。奏の表情をこっそり伺うが、どうやらお世辞ではないらしい。「古い」でも「懐かしい」でもなく、「優しい」。その評価を口の中で転がし、時子は表情を緩ませた。

「ありがとうございます」

 時子の言葉に、奏が「お世辞じゃないよ」と笑って歩みを再開させる。視界を横切った背中を目で追いかけ、時子は首を傾げた。

「その『BMB』って、何の略ですか?」

 時子の視線が向くのは、奏のジャンパー背面にデザインされたロゴだ。「B」「M」「B」のアルファベットに、大小二つの歯車があしらわれたものだが、何の略なのか時子にはさっぱり見当がつかなかった。

 時子の視線に、首だけで背中を確認した奏が「ああ、これ」と呟き、ぱっと顔を輝かせる。

「よくぞ訊いてくれました。『伊達電機うんちゃらかんちゃら』って名前、マサムネがつけたんだけど、舌噛みそうだろ? だから俺が」

 と、彼がそこまで言ったところで「お待たせ」と将之の声が被った。

 夕闇に浮かぶ長身は小走りで二人に追いつき、その勢いのまま店の入り口まで進んでいく。赤く染まるその背中にも、やはり同じロゴが入っていることに時子は気が付いた。

 だが、答えを知っていそうな奏は中断した話題を再開させる気は無さそうである。「ちょっと待てよ」と苦笑して将之を追いかける奏に、時子も慌てて続いた。

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