9 落とし物
しばらくは廊下で白いハンドタオルを持ったまま、つったっていた。冷静に考えれば周りから怪しまれるだろう。だが、持ち前の影の薄さで通り過ぎる人々は無表情で去っていく。
俺は教室のドアから教室内を覗く。倉科さんは友達三人で仲良くお喋りをしている。何とも華がある絵だなーと感心していると後ろから用事を済ませた瑞季が話しかけてきた。
「何そこでつったってんの? 邪魔なんだけど。どいてくれない?」
「ああ。ごめん。ちょっと人間観察してる所なんだ」
「人間観察?」
訝しげな表情で見られた。
完全に怪しまれたな、と確信した。
人間観察なら教室入ってからでも出来るでしょ? と最後に残され、瑞季は教室に入っていった。
再度倉科さんを眺める。
勘違いされて盗まれたと思われたらどうしよう。何か悪戯されてるって思われたらどうしよう。
そんな心配は杞憂に終わるが、今の俺は気が気じゃなかった。
倉科さんを眺めてたら目が合った。まずい。緊張で心拍数が上がる。他の女子二人とも連鎖的に目が合う。
「一条くん、何してるの?」
「あ、その人間観察してるだけです」
「へーそうなんだ」
そこで会話は途切れた。
今なら届けられそうなのに恥ずかしさと身分の差で一歩が踏み出せない。
手汗で握っていた倉科さんのハンドタオルが湿る。倉科さん、ごめんなさい。洗って弁償します。
「タオル無くしちゃったっ。どうしよう……」
倉科さんも困ってる。早く届けなきゃ。
「見てないなー。ポケットに入ってたりとかないの?」
「ない……」
「廊下で落としたんじゃない?」
「そうかも。お気に入りのタオルだったのにっ……」
倉科さんの今にも泣きそうな顔が見ていてつらかった。
「ちょっと探してくる」
「うん。いってらー」
倉科さんがこっちに近づいてくる。話しかけるチャンスだ!
「く、倉科さんっ」
蚊の鳴くようなか細い声だったけど、拾ってくれただろうか。
「何かしら?」
良かった。拾ってくれたようだ。
「きょ、今日も美しいですね」
口からふいに出た言葉がそれだった。
ちげー! 何で口説き文句になってんだ、またー。そこは「落としましたよ」だろうが。俺はハンドタオルを後ろに隠す。
「……ありがとう」
照れたように顔を赤らめ、そっと彼女は可憐に去っていった。
***
気づけば昼休みは終わっていた。当然、ハンドタオルは机の中に隠しこんだままだ。皆にバレないように忍ばせておいた。何か犯罪を隠しているようで気分が悪い。授業中も授業どころじゃなく、ずっとそわそわしていた。窓を見つめても解決するものでもない。いっそ、見つけなければよかった。拾わなければよかった。そう思うが、拾って届けられたら好感度上がるんじゃないか、優しい人と思われるんじゃないか、という希望も残っていた。
授業が終わって、瑞季に「なんか様子変だよ?」と言われるが全くその通りなので言い返せない。
「じゃあ部活行ってくるから」と瑞季は言って部活に向かった。
気づけば倉科さんと俺の二人だけが教室に残った。
倉科さんは黒板を消したり、プリントを管理したりして、遅くなっていた。俺はというとずっと挙動不審で自分の席から動かず立ちっぱなしで時間が過ぎるのを待っていた。
倉科さんが黒板の方を見た隙に彼女の机の上に白いハンドタオルを置いた。
そーっと教室を抜け出そうとした。
「お先に失礼します。倉科さん。さようなら」
「ちょっと待って、一条くん!」
が、呼び止められた。
「これっ。このタオル拾って届けてくれたの一条くんだよね?」
「あーいや。その、前からそこに置いてあったか、見間違いじゃない? 俺じゃない」
少しテンパってしまっていつもの敬語も破綻してしまっている。勇気の無い俺には素直に「落としましたよ」と面と向かって届けるという事ができない。
「私が見た時、ここには何もなかったよ!」
「……」
「……ありがとう、一条くん」
耳元で甘い声で囁かれた。黒板の近くにいた倉科さんは気づけば俺の隣にいた。いつの間に瞬間移動したんだ?
「そ、そんな――」
「でも次は直接手渡しして届けてほしいな」
「はい、分かりました」
「ねぇ、もうやめない?
「私たちの仲って……?」
それはつまり敬語をやめようという事を示唆しているのか。
「学校一の美少女相手に敬語じゃなくていいのか?」
「いいのいいの。学校一の美少女だなんて……恐縮だわ」
「でもまだ倉科さんとどう接したらいいか分からないっていうか」
「可愛いー。一条くん」
「あ! そういえば名前で呼んでいい?」
「駄目です」
「えーどうしてー。佐渡さんもそう呼んでるじゃん」
「瑞季は特別っていうか」
「特別っ!? 私のことも和花って呼んでいいよ」
「特別ってそういう意味じゃ……」
俺が口を濁らせていると倉科さんはとんでもない提案をしてきた。
「ねえねえ、今日さ、一緒に帰ろうよ」
二人きりの教室。どことなく緊張感が漂う。何もないのにキスする流れかとも思ってしまった。だけど、そんな甘い時間もすぐに過ぎる。
「それが……部活あるから」
「そっか。残念。また機会あったら一緒に帰ろうね!」
「うん」
「って、時間大丈夫なの?」
俺は気づいてしまった。部活開始時刻より10分過ぎていることに。のほほんと時間を堪能していたらすっかり忘れてしまっていた。
「あああああー遅刻確定だ! やばい、急がなきゃ。あれ? 体操着、あれ?」
「じゃあ私先帰るね。バイバイ、一条くん」
倉科さんはにっこりと微笑んで手をひらひらさせて、帰っていった。今の倉科さんは小悪魔みたいだな、と思った。
だが今の俺には倉科さんに挨拶をする余裕するない。
そんなこんなで放課後は波乱万丈だった。俺は15分遅刻して罰を受ける事となった。
倉科さんがサッカー部のグラウンドに応援に来ていて、ずっと見られていた事実に当の俺は気づくはずもなかった。
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