夜に影を踏む(二)


 その夜は、私の心を見透かしているかのように客足がなかった。日が落ちてから四、五時間。いつもなら二、三人の客と寝ていている頃合いだ。

 私は自室で意味もなく蝋燭に火を着けて、それを漫然と見ていた。

 燃えた蠟が溶けている。けれど垂れる間もなく冷え固まり、また燃えるのを待っている。何度も何度も繰り返している。灯火は僅かに揺れている。じわりじわりと蠟燭を短くしていく。

 自分の感情が、分からなかった。心が分厚い綿に覆われているような、そんな感覚だった。触れようとしてもその輪郭さえ掴めやしない。どこかぼーっとしていて、まるで夢うつつ。

 なにか実感が欲しくて、私は自分の左手首に親指の爪を立てた。

 感じたのは鮮やかな痛み。

 何もかもが遠かった世界が、私に近づいてくる。もっと。さらに力を込めると、皮膚が切れた。滲むように血が出る。そこでやっと満足して、手を離した。血を舐めると、鉄の味がした。生きている。私は。

「マキア、お客さん来たよ」

 二度ドアがノックされて、開いた扉の隙間からルカが私にそう声をかけた。

「分かった、どなた?」

「セルヴェって名乗ってた。うちの店来るのは初めてらしいんだけど、マキアの指名なんだ」

 指名が多くて困ることはない。けれど、初来店で指名されることは珍しい。誰か、常連の知り合いだろうか。

「断る?」

 少し黙っているとルカがそう尋ねてきた。言葉とは裏腹に、指名を受けてほしそうだった。

 ルカに拾われてこの店に入った私が指名されると、彼にも分け前があるのを知っている。

「いや、行くよ。何番の部屋?」

「そっか。七番の部屋。もう部屋で待ってるから早めに」

 ルカが部屋から去ると、私は準備のために鏡を見やった。

 泣いたせいか、目は少し赤く腫れている。首元にディケンズのキスマークが残っているのを見つける。薄くなっていたが、私はそこに白粉を塗り、消した。

 ふと、昨夜のディケンズの言葉を思い出して、鏡の自分に笑ってみる。映った私はただ肉と皮が、口角を持ち上げて目を細めただけだった。

化粧マキアージュ……か」

 もうそれしかない自分の名を呟く。

 酷い名前だ。でも過去も本心も、白粉で全て隠して笑う私にはお似合いだった。

 私は薄く口紅を引くと、今夜の客が待つ七番の部屋に向かった。

 いつもなら嬌声が薄らと聞こえる廊下も、今日は静かだった。雨が降っているとか、祭日だとか、そういう理由で客の入りが悪い日が月に二、三度はある。

 いつもの猥雑な夜の娼館は、欲望渦巻く声で私を癒してくれる。静かな今日は形のない不安が燭台に照らされない廊下の隅の闇の中に潜んでいる。

 私は、七番の部屋をノックした。

「お待たせいたしました。ご指名のマキアージュです。入ってもよろしいでしょうか?」

「どうぞ、入ってください」

 それからノブにゆっくりと手をかけて、扉を開いた。

「はじめまして、マキアージュと申します。ぜひマキアとお呼びください」

 一礼して、笑う。すると男は震える声でこう言った。

「お久しぶりです。マリー・テレーズ・シャルロット・ド・エペイス様」

 久しぶりに呼ばれる名だった。私の、王族としての名。

 そこで、まじまじの男の顔を見る。頬を流れる涙が、蝋燭の光を照り返し、煌めいている。

「リシャール……」

「はい、リシャールにございます。マリー様、よくぞご無事で」

 記憶にある彼とは随分と違っていた。髪はすっかり薄く、戦士と間違うほどだった体は見る影もない。けれど、尖るような耳に特徴的な鷲鼻、深い眼窩。それは在りし日の内相リシャールそのものだった。

「……リシャールも、よく無事で」

 そう返すと、彼は骨張った肩を震わせて、おいおいと泣いた。

「このような場所にその身を置かせてしまい、申し訳ありませぬ。今日まで見つけられなかったこと、言葉も見つかりませぬ」

 そう言って、リシャールは頭を床に擦り付けた。

 その言葉を聞いて、耳の先までカッと熱くなるのを感じた。

 恥だ。

 こんな姿を、見られたくなかった。男に媚びへつらい、恭しく頭を下げ、野良犬のように誰とでも寝るこの様を、知られたくなかった。

「構わない、リシャール。私はどこにいても王族なのだから」

 屈辱で震える唇を噛んで、私は応える。

 どこにいても王族? 破瓜とともに流れ出たその血に、いつまで縋っているというのか。

「ご立派になられた。なんと、ご立派に……」

 私の見栄でリシャールはさらに大粒の涙を流した。

 彼はひとしきり泣くと、袖口で濡れそぼった顔を拭い、私を真っすぐに見た。

「実は折り入ってのお願いがございます」

 嫌な目の光り方だった。なんの信念もない私に、自己嫌悪を抱かせる。

「言ってみて」

「かつての、エペイス王国を取り戻さんと望む者たち、王党派がいるのです」

「それは、何故?」

「この国が共和制へと変わって五年。未だに貧困、変わらず。どころか貴族制が廃され、騎士たちもいなくなり、強盗の類がのさばっています。共和などという幻想ではなく、かつての王国を取り戻そうと。エイペス家の血がこの国には必要だと」

「それは……」

 私にこの国の王となれ、と言っているのか。

 それに、今の情勢の不安は一時のものだろう。もう少し時が経てば落ち着くものを、また荒らすだけではないのか。

「姫様も、こんな場所から抜け出せるのですぞ」

「私は……」

 今のままでいい。

 そう言いかけて、しかし、それを言ったら全て失ってしまう気がして飲み込んだ。恐ろしかった。何がいいのだろう。見知らぬ男に抱かれる生活に満足しているというのか。私は、心の底まで情婦と成り果てたのか。そんなはずない。そんなはずが。

「分かっております。お優しい。流す血は最低限に収めます」

 リシャールの言葉に、それならと頷いて見せた。

 全く見当違いだ。最早ただの売女だというのに、彼は私に未だ王族としての影を見ている。

 ルカ、どう思うのだろう。もし、私が女王となるならば、ルカの元から去らなければいけない。

「分かった」

 けれど、私は求められるままに頷いてしまう。リシャールの期待を振り切ることもできない。

 人の気持ちの中に自分を見出している。リシャールが王族としての振る舞いを私に求めるほどに、自分が心の底まで売女であることを分からせられる。

「六日後に我々、王党派の集会があります。ご出席願います。心苦しいですが我々も余裕がなく、安全な場所を確保できないので、姫様には革命の日までこの娼館に潜んでもらうことになりますが……」

「構わない」

 まだ、ここを離れなくていい。ルカと一緒にいられる。私はただそのことに安堵したのだった。

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落暉の一条 〜売女に堕ちた亡国の姫でも、まだ返り咲けますか?〜 蟹家 @crabhouse

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