夜に影を踏む(一)

 にわかな騒ぎとともに目を覚ました。薄い木板の壁で出来たこの狭い部屋に甲高く耳障りな声が響いている。

 寝ぼけた頭でふと数十年前この娼館は劇場だったという話を思い出した。王家批判の演目を行って取り潰されたのだと、ルカが言っていた。そしてここを買い取ったパトリスが改築した。広いホールの中に壁を作っただけの客と寝る部屋の作りはマシだが、私たち娼婦の控室は粗末なものだ。

「最後は稼ぎもせずに死におって!」

 またも怒声が壁を突き抜けて響いた。この声は娼館の主、パトリスだ。

 パトリスはいつも不機嫌に怒鳴り散らしてはいるが、ここまで大声を出すのは珍しかった。

 掛けてあったガウンを羽織る。夏も盛りは過ぎていて、朝方は少し冷えた。

 それから、自室を出るとエトワルの部屋の前にルカと三、四人の嬢が集まっていた。

「マキア、君は……!」

 私に気付いたルカが、悲痛な声を出して私の前に立ち塞がろうとする。しかし、私の眼にはもう映っていた。


 廊下の真ん中に寝かされた誰か。着ているのは、紺色のネグリジェ。


「エトワル……?」

 ルカを押しのけて、エトワルに縋りつく。

 指先が、触れる。温もりはない。

 その顔を見る。青黒くうっ血している。首には括るように付いたロープの跡。

「僕が見つけた時には……もう……」

 呻くようなルカのその声は私の耳にまで届かなかった。

 昨晩の温もりが、キスの余韻が、まだ私の体に残っている。

「どうして……?」

 私は、幸せだった。こんな場所でも、どれだけ堕ちても、あなたといられるのなら無上だった。

 ねえ、そうでしょう、エトワル。

 なのに、なんで。

「マキア、マキアージュ! お前はエトワルと仲がよかったな。ならばその死体をとっとと燃やして埋めてこい!」

 現実を受け止める間もなく、パトリスがそう言う。

 唇を強く噛む。感情が、悲しみが、渦を巻いている。

 けれど何故。涙が出てこない。

 パトリスは持っていたステッキで急かすように私の背を叩いた。

「……はい」

「ルカ、お前も手伝ってやれ」

 そう言うと、パトリスは適当なズタ袋を放った。


――


 街の外で、彼女を燃やした。

 人の燃える臭いは、嫌いだ。

 世界は終末の後、死んだ人の魂は元の体に舞い戻り、苦しみの無い永遠の生を謳歌するという。

 ならば、灰となるエトワルはどこへ行くのだろう。人でなしの私たち娼婦は、一体どうやって救われればいいのだろう。

 彼女を燃やす煙が、風に乗って西へと。目で追ってもすぐに青い空と混ざって消えた。

 街の外郭に広がる農園の、その果て。幾十幾百と棒切れが地面に刺さっている。これが、墓標なのだ。盗人、人殺し、そして私たち娼婦。街の近くに葬ることも、サティラ教の十字を墓標にすることも許されない。影は静かに伸びている。

 短く刈られた青草を撫でる。きっとこの場所に眠る誰かの親愛なる人が、誰かが手入れをしているのだろう。それでも瑞々しく生きている草は、私の手を切らんばかりに空を指している。

「燃えきったよ」

 隣に座っていたルカが、そう言った。もうもうと上がっていた煙はいつの間にかほつれた糸のようになっている。

 立ち上がり、未だくすぶる薪の上に転がったエトワルを見る。けれどそれはもう、エトワルではなかった。

「……骨だ」

 笑った。昨日口づけを交わした彼女が、さも当たり前のように燃えて骨になっていることが可笑しかった。

 笑いながら泣いた。もう会えないことがただ悲しかった。

 太陽が斜めになって空も橙になり始めたころ、彼女を埋めた。埋め終わった後に出てきた骨は、そこらへと放り投げた。どこかの石にあたって乾いた流木のような音が鳴っていた。

 墓標に棒切れを一本刺した。白く、真っすぐで、美しいものを選んだ。ふとそこにエトワルの手を幻視する。

 晩夏の夕暮れに吹く風は、濡れた私の頬には冷たかった。

「こんなところじゃエトワルも寂しがるからさ、また来ようよ。花でも持って」

 黙っていると、彼は私を優しく抱き寄せた。私の心の何かが溶け出す。微睡みにも似たそれが心地よくて、胸に顔を埋めた。

 私の耳元でルカはそっと語った。

「俺らはさ、生きようよ。生きて幸せになって、墓参りの度にエトワルに聞かせてやろうよ」

 鼻水が、彼の胸に付く。それでもルカは嫌な顔一つしなかった。

 幸せ。幸せになるって何だろう。父と母の顔が脳裏をよぎる。エトワルの顔も浮かんだ。過ぎていく物だけが、幸せなのか。

「ルカは……」

「いなくならないよ」

 私の言葉を先回りして、少し微笑んだ。

 感情が私の理性から離れたみたいに、涙は止まらなかった。彼の胸を借りるのも、恥ずかしくなかった。行く先もなく路上で立ち尽くしていた時から、ルカには助けられてばかりだ。

 いつの間にか、太陽が地平線に触れていた。撫でる風も冷たく、ルカと触れ合うぬくもりが一層心地よい。

「……そろそろ、戻ろうか」

「もう少し、もう少しここにいたい」

 偽らざる気持ちだった。もう一時、ここで心を落ち着かせたい。

「でもそろそろ暗くなるしさ、夜になったら働かなくちゃ」

 働く……。とてもではないが、そんな気持ちにはなれなかった。友達を亡くした夜に知らない男に抱かれるなど、考えられない。

「ルカ、私……」

「こんな時だからこそ、いつも通りにしなくちゃ」

 私にとって自分に値を付けて、男と寝ることはいつも通りではなかった。

 夕日の逆光で、ルカの影に覆われた私は、彼の顔を見上げた。

「ね?」

 真っすぐな瞳が私を見ている。耐えきれずに、顔を伏せた。

「……うん」

 どうせいつかはまた元の生活に戻らなければいけないのだ。今日休んでもパトリスの機嫌を損ねるだけだ。自分にそう言い聞かせる。

「じゃあ、戻ろうか」

 そう言って、ルカは私から離れた。

 触れていた肌が風に晒されて、冷たかった。街の方に歩き出した彼に何か言いかけるも、言葉は浮かばなかった。

「……じゃあね」

 もはやどれがエトワルのだか分からなくなった棒切れの墓標たちにそう言って、ルカの後を追った。

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