酒瓶の夜空に映すは赤い譜面 後編
再び部屋に戻ってきて、俺は体を爪の先まで綺麗に洗って、窓を開け放ち、備品の中で一番透明なグラスを出した。それから手持ちの非常用ロウソクを灯し、部屋の電気を全て消した。全ては店主の説明を実現するためだ。窓際に動かしてきた小テーブルと椅子には、すでに『赤目のサソリ』の小さなボトルとつまみを準備してある。
豆皿に立てたロウソクをテーブルの上に置いた。指を軽く濡らして、夜風に当て、方角を確かめる。風もよし。条件は全て揃っている。こいつを呑むにはぴったりだ。
からん、と氷をグラスに入れる。サソリのイラストが描かれた瓶の蓋を開けて、中身を注ぐ。濃い褐色の液体が、氷に触れて、パキパキと小気味良い音を立てた。中身を半分くらい注いだら、すぐにグラスはいっぱいになっちまった。半分になった酒瓶ってのは何だか寂しいもんだが、まぁ、そのぶん味わって呑もう。
窓の外の闇を見ながら、ロックのラム酒を、一口。バニラのように芳醇な香りが口いっぱいに広がる。舌や頬の内側がぴりりと痺れる。喉を通り過ぎるころには、頭の中に温かな南風が吹いたみたいだ……口当たりは飲みやすいが、見た目通りの強い酒だな。
それからゆっくりゆっくり味わって、グラスを空っぽにして、さて、ここからが本番。俺は半分残った瓶を取り上げる。瓶には小さなメモがくくりつけられていた。ご新規さんや、持ち帰って土産にする人は、これを読みながら呑んだほうがいいらしい。既に体はぽかぽかと温まっていたが、メモ1枚読めないほど酔っちゃいない。
「えぇと、どれどれ。まず『窓に向かって、瓶の口に吐息を吹きかける』か。このときは……」
『……瓶の口をやや斜めに傾けて、口元へ。タバコを吸うときの要領で、息を胸いっぱいに吸い、そっと吹き出す』。
ぼぉーっ……
空気が瓶の口を撫ぜて、汽笛に似た音が、部屋に響いた。
「おぉ、よく響くな。で、次は、『これをあと2回繰り返す』……」
ぼぉーっ、ぼぉーっ……
俺は口をすぼめ、瓶に風を送る。面白いように音が鳴った。誰かここにいたら、いい歳のくせにガキっぽいオッサンだ、と思ったことだろう。
これでいいのか? メモの通りにやってみたが、何も起きなかったら俺はタダのヒマな酔っ払いだぞ?
ぼぉぉーっ……
すると、汽笛が響く。俺はまだ、息を吹きかけてはいない。瓶笛じゃない本物の汽笛だ。
「本当に鳴った……店主のメモそのままだ」
ぼぉぉーっ……ぼぉぉーっ……
汽笛は間隔をやや空けて、3度鳴った。
『汽笛の音が3度かえってくるので、右手を胸に当てて迎える。愛用の帽子があれば、胸に抱くと、なおよし』
俺はその通りに、いつもかぶっている中折れ帽を胸に抱き、静かに汽笛を聴いていた。冷たい夜風の吹く日、旅立つ名も知らぬ船を想うと、なぜか胸が張り裂けそうになる。
あとは、メモにある言葉を叫ぶこと。俺は軽く咳払いをして、夜空に向かって、メモを読み上げる。
「アールファーッ」
酔いがまわって、つい大きな声が出た。インクの夜空は何も語らない。ただ、濃い灰色の雲をいっぱいに泳がせ、響く声を受け止めるだけだ。
「ベーェターッ……」
近所迷惑にならないか、気恥ずかしくなって、少し語尾が縮んでしまった。またしても俺の声ばかりが、港町の空気と、わずかに明かりの灯った町に吸い込まれてゆく。余計に寂寞の感が湧き上がるが、ここでやめるわけにはいかない。
「ガンマーァーッ」
俺はまたぞろ声を上げた。町のどこかで、俺と同じように、このビールを味わう誰かを想う。そいつも俺と同じように、この儀式をやっているんだろうか。
「デールータァーアアア」
言葉を投げかけ、ひといきに、瓶に残ったビールを呑み干した。
ロウソクの火が大きく燃え上がる。
俺の影がぐらりと揺らめく。
ふっ、と、火が灯芯を離れ、空中を泳ぎだした。俺は思わず手を伸ばしたが、小さな火の玉は構わず、斜め前方へけなげに泳いでいく。ふわりふわりと漂って、窓枠をくぐって、闇夜のインク壺にその身をひたした。
「へぇ、こりゃあ何だい、実に不思議だ」
つい窓から身を乗り出す。ロウも芯もないのに、火の玉がいっそう明るく燃えているのが見えた。細い電線の間で揺れていたが、夜風に乗ってするりと抜けて、風船さながらに音もなく昇っていく。
「なるほどな。まるで、赤い星になったサソリだ」
それだけじゃない。外をよく見まわすと、赤やペールオレンジの小さな点が、何十と夜空にメラメラと燃えて見えた。宿の別の窓からも、いじらしい赤い火の玉が顔を出しては、深い闇夜をふわふわと泳ぐ。
まるで黒い紙に赤の音符をいくつも書き込んだみたいで、俺は思わず、メモ帳に空飛ぶ音符をうつしとりはじめた。熱くほてった頭で、意識のつづく限りペンを走らせていた。
★★★
次の朝。俺はペンを握ったまま、窓から差し込む暖かな日差しで目を覚ました。今夜はこの町を発たなくてはならない。いつのまにか空はすっかり青く澄んで、あの火の玉は跡形もなく消えちまってた。床には空っぽの『赤目のサソリ』の瓶が転がっていた。
――ありゃ、悪酔いして見た夢だったかな。
荷造りをしているときも、宿屋を出たときも、町の食堂で早めの晩ご飯を済ませたときも、俺は長いこと考えていた。それだけ素晴らしい光景に見えたんだ。だが、俺は元来酒には強い方でね。現実と夢を酒で割って流し込むには、もう2〜3杯は欲しいところ。とても、夢とは思えなかった。
とはいえ、まったく旨い酒だった。飽きの来ない、眠くなるまでじっくり呑みたい味だったよ。また町のどこかで手に入るかと思ったが、無駄足に終わった。酒屋へ行ったら『赤目のサソリ』のラム酒は、俺が来る直前に売り切れちまったんだと。仕方ないからと「赤ガニ亭」の開店を待ってみたが、待てども待てども開きやしない。この分じゃ今日最後の連絡船が出る前に、店の電気がつくかどうかだが……
「……はい、どうも。今晩ご予約いただいたお客様ですね。3等船室ですがよろしいですか」
「あぁ、構わないよ。向こう側の街まで、だったな」
「はい。明日の朝には着く予定ですので」
結局俺は迷った末、酒への欲望を胸にしまって行くことにした。大きな街での演奏が終わったら、同じ船でここへ戻ってくればいい。もう日はとっぷりと暮れていた。月も空高くのぼって海を照らし、夜の船出を見守ろうとしている。
ぼぉぉーっ……
上着を脱ぎ、荷物を小さな客室の隅に置いたころ、汽笛が響いた。もう出航するんだ。船が大きく揺れ、窓の外の景色がゆっくりと動いてゆく。港町の建物や、停泊していた貨物船はどんどん小さく、遠ざかってゆく。
ついにはぽつぽつと、窓の明かりが灯っているくらいにしか見えなくなった。
ふとカバンから、四角いウヰスキーの瓶を取り出して、窓の外の夜空にかざしてみる。『赤目のサソリ』の代わりに酒屋で買った、少しだけ上等なものだ。こいつを呑んでも、ろうそくの火は宙を舞うだろうか。舞えたとしても、窓が小さすぎて、外へは出ていけないかもしれねぇな。ともあれ今日は少しだけ作曲をしたら、これを寝酒に、船の小さなベッドで眠ることにしようか。
「アールファー……ベーェター……」
あの店主に教わった魔法の呪文をつぶやいてみる。ウヰスキーの瓶の向こうには、港町の家々のオレンジ色した明かりが見えた。深い夜に居場所を知らせるように、点々と輝いていたのだった。
〈おしまい〉
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