第122話

 滑らかな感触の床に横たえて、どのくらい時間が経ったか。目を瞑ったままだったから途中で眠ってしまっていたらしい。いつの間にか外の空気になっていた。

 草と土の匂い。風が揺らす葉の音。

 重圧から解放されて俺は身体を脱ぎ捨てたみたいに軽さを感じていた。まあ、この身体は本物の身体ではないのだからその感覚は正しいと言えば正しいが……。夢見心地で気持ちがいい。

 俺は起き上がって目を開けようとした。が、開かない。

 血が固まってしまったのだ。長時間放置したわけではないから、カピカピのガッチガッチに固まったわけではないと思うが、開かない。

(参ったな。これじゃ何も見えやしない)

 その時、誰かが草を踏み締める音が聞こえた。その足音の主はゆっくりとこっちに近づいてくる。

「実乃莉……?」

 彼女の名を呼んで返ってきた声は、愛おしい彼女のものではなくて、毅然とした男の声だった。

「私だ」

「なあんだ。黒田さんか」

「愛しの彼女じゃなくて悪いですね。あの子は今神経系に結構なダメージがあって、療養しなくちゃいけないんです。だからしばらくは会えません」

「そうなんだ。生きてはいるんだよね」

「ええ。そりゃもう。あなたのことを必死に応援してましたよ」

 黒田が何かを手に乗せた。

「水袋です。それとタオルもあります。血を洗ってください」

「さすが母さんの専属秘書。気が利く」

 俺は水袋の栓を外すと中の水をばしゃりと被る。タオルも湿らせて押し当てて固まった血をじっくりと溶かして剥がす。

 数十分ぶりに開けた目に外の景色は眩しすぎた。

 全てが輝いて見える。丘の上、見下ろす先にあるのは広大な平原。美しい山脈が囲っているこの景色はその名の通り楽園だ。

「綺麗な世界だな」

「気に入ったのなら何よりです。あなたはしばらく仮想の世界で生きなければいけませんから」

「どのくらいなんだ?」

「ざっと一年くらいでしょうか」

「随分と長いね」

「そうです。だから選んでください。あなたは治療用の仮想世界に行くことだってできます。そこには本物の人がいるわけでコミュニケーションもとれて生活はしやすいでしょう。ですが、ここは違います。ここにいるのは、全てA Iです。外の話は通じませんし価値観だって違います。この世界を選ぶなら覚悟をしてください」

 そんなこと、悩む必要もない。俺の答えは最初から決まっている。俺はこの世界に連れてこられた理由を知らない。けれどこの世界にその答えがある気がする。俺は見つけ出さないといけない。それが俺の役目な気がするから。

「木戸倉が私たちに投げかけた問いの答えを探すと」

 俺は頷く。黒田は呆れたように嘆息した。

「全く。あなたがたは本当に親子なんですね。自らが探求したいと思ったことは、とことんその行末を自分の目で見ないと気が済まない。だからついていくと決めたんですけどね。

 ここで暮らすというなら武器が必要でしょう。とっておきましたよ。もちろん彼女のも回収済みです」

 俺はウィンドミロディアを黒田から受け取り、剣帯に吊るすと向き直る。

「じゃあ、行くよ。会いに行きたい人たちがいるんだ」

「ええ。頑張ってください。では私はこれで」

 黒田がピシャリと消え、ただ一人残された俺はただ景色を見た。

 広大な平原、澄んだ空気、頂上付近が冠雪した山々は青と白のコントラストが美しくて、自分が楽園に迷い込んだ気分になる。

 楽園……。

 エリュシオンだもんな。

 風が髪を揺らし、草木を揺らし、頭上の雲を押し流す。俺にはこの風が、今後来る試練の重たさを予感させているように思えた。

 だけど、俺は進む。どんな真実を目の当たりにしても今の俺ならきっと受け入れられるから。

 踏み出そう、ここから。俺の望む未来へ。



 少年は旅立った。真実と向き合うために。

 少年は旅立った。大きな決意をして。

 少年は旅立った。まだ誰も知らない真実を探しに。

 幾つもの試練を超えたその先へ、少年は歩き続ける。

 いつまでも。

 その手に光をつかむまで。





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