第117話
死の渓谷に入って空気が重たく感じる。どこかまだ、死体が焼けた匂いが残っていて気持ち悪い。酸味を帯びた肉の焦げた匂い。なのに湿気を纏っている。
その中を進んだ。
アンデッドの悪戯めいたどこか子供のに似た笑い声が頭上から鳴り、渓谷に反響する。だけど、奴らは姿を現さない。もう死体は残っていないのだろう。あの時、実乃莉が全て焼き尽くしてくれたから、奴らのおもちゃは何も残っていない。
崖の中間部を削り取って無理やり通れるようにした道を進むとまた、あの場所に到着する。不自然に開けたフィールド。崖を円柱状の型でくり抜いたような、自然的でない人工的な場所だ。あの時、延々と出現するアンデッドに絶望したあの場所。実乃莉が自爆して、俺だけが逃げ出した場所。
その場所は、今はシーンと静まり返っている。死者の声も聞こえない。陽の光が入りずらいその場所で、ある一本の剣がしんみりと横たえていた。まるで帰らぬ持ち主を待つように。僅かに届く光を集めその剣は、俺に光を示す。
実乃莉の剣。リーディングライトが俺を呼んでいる気がした。柄を握るとまだ彼女の温もりが残っている気がした。体温ではない。心の熱。彼女の俺に対する思いの熱がじんわりと手を伝って俺の心に伝わってくる気がする。
一緒に連れて行けと言っているようで、俺はリーディングライトを剣帯に吊るした。最後は彼女と共に。
俺の心の決着は彼女の思いと共につける。
行こう。オレを殺しに——。
自然と足が軽くなる。なぜだかわからない。生死を決める戦いが迫っているというのに。運命が定まる戦いを目前に控え、俺はまだ冷静だった。まるで見えない力に身体が、心が軽くされているような、そんな感覚だった。不安はない。プレッシャーも感じない。
はっきり言って日本がどうなろうと知ったことではない。ただ、彼女と生きたい。彼女と一緒に……、もっと言えば俺を慕ってくれる人たちと共に生きていきたい。それが例え、俺のエゴだったとしても。他の奴がそう捉えたとしても俺には知ったことではない。俺は俺のために戦う。俺が守りたいもののため、俺がいきたい未来のため。
暗く湿った渓谷を抜けると、その先も暗かった。分厚い雲が空をおおている。
雨だ。
ザーッと雨粒を落としてくる雲が心底恨めしい。裾野の森を辛気臭い空気に染め、俺を暗鬱とさせるからだ。
大きめの雨粒が木々の葉を叩く。土を湿らせ抉っていく。泥濘ができて足元が悪い。靴の中が一瞬で浸水した。上の装備も全て雨水を吸って重くなる。濡れて垂れてくる前髪も鬱陶しい。
これが俺の運命を決める戦いのコンディションか……。なんてぴったしな——。
自然と口の端が吊り上がる。
過去との決別。憎しみの人格との決別にこれほどぴったりな環境はない。全てを払拭して俺は進むだけだ。迷いはもうない。
俺は正面に目を向けた。
森の向こうは海。道は森を切り裂くように伸びてその先に少し奥張った平地がある。決戦のフィールド。〈最果ての岬〉が。
真ん中に黒闇の人物が立っている。俺の姿を模した——。いや、俺そのものの姿をしたそれは、陰鬱としたオーラを放ち、仁王立つ。
背後には、ほこらのように穴のあいた岩がある。あの中がおそらく、俺の目指してきた内部世界への入り口。A I兵器の強制停止プログラム発動のため、A I兵器の頭脳ファイルを開くためのキーデバイスがあの中にあるのだろう。
それを守るのはオメガ。俺が生み出した憎しみの人格だ。
裾野の道を降りて俺がだいぶ近づいてもオメガは表情を全く変えない。最果ての岬に俺は足を踏み入れる。ある程度真ん中の方に進むと俺は実乃莉の剣、リーディングライトを具現化し、地面に突き立てた。
それを見たオメガが驚いたようにも見えたが、奴は何も言ってこない。
俺はさらにフィールドの真ん中へと歩を進める。
何かを見透かすような視線がチラチラと目をのぞいてきて鬱陶しい。
「こっちに来ないか」
俺はオメガの五メートルほど手前で足をとめた。オメガの放った言葉の意味を俺は理解している。こっち側にきて一緒に世界を変えよう。そう奴は言っているのだ。
知ったことか。俺は世界を変えたいわけではない。
「悪いが、そんなことはどうでもいい。俺は実乃莉と笑っていられる未来が欲しいだけだ」
「その未来のために世界を変えようっていうのにか」
「俺がお前に加担したらあいつはもう笑ってくれなくなるだろ」
「確かにそうだな。じゃあ、さっきのは取り消しだ。木戸倉の味方になるつもりはねえか」
「ない。俺の意志は決まっている」
「そうか。わかった。だけどお前も知っているだろ。この世界にはクズどもが多すぎるって。そいつら全員、お掃除してやらねえとこの世界は綺麗にならねえってことぐらい。この世界は今後どうなる。欲に塗れた人間が己の欲のままに世界を動かし続け結果、世界はどうなった。多くの子供が不幸に追いやられた。中には親の自殺に巻き込まれたのだっていたろうに。お前らが見てきた世界は胸張って良いものだったって言えるか? お前は幸せだったか? 俺はこんな世界、反吐が出るほど醜い。
木戸倉もオレと同じだったぜ。あいつはオレの頭脳を用意してから、いつだって世界をどう破壊するかしか考えていなかった。あいつは世界を良くしようなんて思っていなかった。どうやって壊すか。自分の守りたいものだけ守ってどう壊すかだけを考えていやがった。結果がこれだよ。お前ら身内は生き残ってあとは惨殺。待ってろ。他の連中ももうすぐ食料が尽きて野垂れ死ぬ。クリーニングは終了ってわけだ」
「そうだな。だけど、まだ頑固汚れがここに残っているだろ」
俺はオレを指さす。
「ああ? お前にはオレたちが頑固汚れに見えるのか」
「ああ。俺には、お前が世の中のクズどもと同じに見えるぞ」
「そうか。オレたちを……、お前は理解できねえか」
「ああ」
「なら仕方がない……。その目であの光景を確かめさせてやる!」
突然、オメガの目が青白く発光する。全く警戒していなかったわけではないが、こうも急にやられたのでは対処のしようがない。
視界が一瞬にして暗黒に包まれた。
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