第113話
農夫であるジョンが森へ薬草をとりに向かうその途中、異様な匂いに足を止めた。
日が経って悪くなった肉が焼ける匂い。胃を掴み上げてくるようなその匂いにジョンは鼻をつまんだ。
いったいなぜこんな異様な匂いがするのか。思い当たる節があるとすれば、死の渓谷だろう。ここからあまり離れていないところに死の渓谷はある。そこから山風に乗ってここまで匂いが運ばれてくるというのは十分にあり得るのだ。そしてこんな匂いがする理由はただ一つ。死の渓谷にある死体が燃えたのだ。もちろん勝手に死体が燃える訳がないので誰かが燃やしたことになるが。いたずらを生き甲斐にするアンデッドが蔓延るあの谷で死体を集めて燃やすなどそう簡単にできることではない。それに無傷でそれをすることも不可能だ。燃やした人が手負いで近くにいるかもしれない。
薬草であるアキレアが自生する地帯。採集に来ただけなのにアンデッドの巣で死体を焼こうなんて物好きに遭遇するのだけはごめん被りたい。
ジョンは道から逸れると茂みに入る。草をかき分けて異臭に耐えながらも、アキレアを採取するのはそれだけ高く売れるからだ。
ごく限られた場所でしか自生しないアキレアは一株だけでも金貨一枚。妻と子供二人自分を含む四人で一ヶ月は生活できる額だ。
一番近くのタゴラスという街では金貨一枚だが、戦争前線の、それも要塞都市であるイリオスでは、その価値が四枚に跳ね上がる。
だからジョウンも近場のタゴラスでは売らずにイリオスで商売をするという商人に高値で買い取ってもらっている。それで金貨二枚。単純計算で倍値だ。
農耕で暮らしているジョウン含むグルーバー一家はそこまで裕福ではない。ある一定の土地の権利を所有してはいるが街の人間に比べると貧乏な方だ。
どこだ。オレの金貨。
ジョンは鼻を腕で塞いだまま、草地に入ってあたりに目を凝らす。希少価値の高いアキレアは、通常ではそう簡単に見つかるものではない。
だが、ここのアキレアは思いのほか簡単に見つかる。森の少し開けた場所。木々の間隔がだいぶあいた平たく柔らかい土の上に、その赤と白のコントラストが美しい小ぶりの花が平たく広がって咲いている。遠目でみればそれは鮮やかな絨毯のようだ。
ジョウンは近づき、茎の部分を掴み引っこ抜く。数株とって持ってきたカゴの中に放り込む。すぐにかごはいっぱいになってジョウンは、悲鳴をあげそうなほど硬直した腰を伸ばした。
異臭がするとはいえ、今日も苦労せずにとることができた。
と言ってもここは死の渓谷が近いせいで、ほとんどの人間は怖じけて近づかない。近づく奴なんてほとんどいないのだから手付かずの株が多く残っているだけだ。ここ以外の自生場所ではこう簡単に見つからない。数時間、森や草原を彷徨ってやっと見つかるくらいなのだから、この自生場所を知っているだけで運がいい。
それだけではない。アキレアの希少価値は今、どんどん高騰している。
特に今は統一戦争が始まり、多くが傷薬に使われている。消費量が多ければ需要も増すばかりで、希少価値の上昇は、歯止めが効かない状態なのだ。
しかし、それでもお金は足りてない。
ジョンは今、金が必要な時期に差し掛かっていた。子育てに充てる費用が増す時期なのだ。特に長女は来春には入学できる年になってしまう。
その入学金と授業料。残ってた自生しているアキレアで足りるかどうかというところ。
——まあ、多少の節約は必要になってくるか……。
ジョンはいっぱいになったカゴを持って草むらから元来た道へと戻る。
朝のこの時間は野生動物が多く出るから周りをよく伺う。近くにいるのが鹿ならまだいいが、気配に気づかずに近づいたのがオオカミとか熊とかだったら肝を冷やすどころの事態ではない。肉片になって死んでしまう。ジョウンにとって農民仲間が襲われて亡くなるというのも珍しくなかった。
ジョウンは警戒しながら道に戻ると動物の気配を感じ取る。
僅かに蹄の音が聞こえる。こっちに近づいてきている。
——鹿か。
警戒せずに近づいてくるのは珍しい。
だが、それは鹿ではなかった。もっと体が大きくて、野生として見るにはあまりに珍しい動物だった。
二頭の馬。しかも、二頭とも鞍を背に乗せ、手綱を下げている。二頭は躊躇する様子もなくこちらに近づいてくる。その装いからして誰かが乗っていたのは間違いない。しかし、近くにはだれもいない。こいつらの主はどこへ? 真っ先に思い浮かんだのは死の渓谷だ。あそこに行った二頭の主人たちはアンデッドにやられたか死んだか、体を乗っ取られたかのどれかだろう。戯けな主人を持つとはこいつらも運がないな。いや。無事逃げてきただけでも運がいい方か。
ジョンは片方の馬の手綱に手を掛ける。
このままつけてても邪魔だろうと、外そう
とした時、その馬が嫌がる素振りを見せた。もう一度、ジョンが手綱の金具に触れようとすると顔を逸らす。
「おいおい。自由になりたくないってのか?」
わかりもしないはずのジョンの言葉に馬はぶるると喉を鳴らして答える。
片っぽの馬はジョウンを一瞥すると川の方へと歩いていった。少し歩いて振り返る。もう一度歩いたと思うと、また振り返る。
ジョウンには、なぜか馬についてこいと言われているような気がした。残った一頭が突然、頭で背中を押す。
「わかった。ついていきゃいいんだろ」
馬は人間よりもはるかに強い力を持つ。そんな馬に押されるのは少々怖くて、ジョンはそそくさと歩いた。
もう一頭の方も、後ろに付く。二頭に挟まれる形で移動すると前の馬が河原に降りた。石辺を進んで水の中へと入る。近くには大きめの岩が並んでいた。そこに向かって馬が歩いていく。岩の隙間に顔を覗かせると、馬がこちらに顔を向けた。
いったいそこに何があるってんだ。
ジョウンも水の中に入る。足首くらいの深さしかない。川底の石に足を取られないように気をつけながら岩に近づく。
岩の隙間を覗き込んだ。すると、そこにいたのは年が十五くらいであろう少年だった。二つの岩に引っかかる形で流れ着いたのか——。この少年も運がいい。流れ着いたのがもっと深いところだったらこいつは溺死していた。
少年の腕を掴み岩の隙間から引っ張り出す。腕を肩に掛けて担ぎ上げた。
岸辺に上がるとジョウンは少年を降ろす。仰向けにさせ、そっと口元に手を近づける。わずかながらの息遣いを感じた。まだ息がある。肺に水が溜まった様子もない。
少年を観察すると黒髪の線の細い少し幼い顔立ちだというのがわかる。年は肌の質感からして15前後なのは間違いない。
しかし、格好が珍しい。
勝色の衣服は胸のところに鎧のような結晶が張り付いている。腰には同じく勝色の剣。剣士ではあるのだろう。しかし、ジョンの知っている兵士とは、格好が全く異なる。この少年は一体何者だろうか。
答えの出ない推察を続ける気力が起きず、ジョンは馬を見やった。
二頭は寄ってくると、少年の顔に自らの顔を近づける。
「お前たちの主人なのか?」
訊くと馬は少し嬉しそうな目をして喉を鳴らす。その様子からしてこいつがこの馬の主人なのだろう。
だが、不自然な点もある。二頭の馬にはどちらも人用の鞍が付けられている。もしも、主人が一人だけなら人用の鞍は片方だけに着けもう片方には荷物用をつけるはずだ。二頭とも人用を付けているということは、主人はもう一人。
ジョンは近辺を探した。だが、無一人の姿はどこにも確認できない。
まさか、川の中にいるのかと思って、もう一度川の中に入って探し始めると、今度は二頭の馬が頭で腰の辺りを小付いてくる。深い方から岸の方へと押しやるように。
どうしたんだと、岸に上がると、馬は帰路の方へ顔を向ける。
帰ろうということなのだろうか。だが、もう一人の主人は探さなくていいのだろうか。
ジョンが首を傾げ悩んでいると、馬が背後に回って背中を押してくる。どんと一押し。年が四〇にもなろうとしているジョンには洒落にならないくらいの重たい衝撃。思わず、ジョウンは前に進んだ。
「わかった。わかった。あの子を連れ帰ればいいんだな」
馬の背に少年を乗せ、落ちないように軽く体をロープで固定すると、馬は歩き出す。手綱を持たなくても大人しい。相当頭が良いのだろう。歩き方からも容易に推察できる。
馬は少年の体を気にして揺れを抑えようとしているのが容易に推察できるほど、繊細な足取りをする。
主人思いのかしこい馬。ジョンの目にはそう映った。
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