第111話
風が吹き荒ぶ。テグーの荒れる息の音が北の山の姿が大きくなるにつれて激しくなる。
草原を駆け、たまに在る集落を素通りして、裾野まで来ると傾斜のある森を突き抜ける。道がある。水の流れる音も聞こえる。川が近い。渓谷も間近だ。
と思ったその時、前方から一頭の馬が近づいてくる。リリーだ。
だけど、彼女は乗っていない。
やがて二つの山々が犇めき上からの圧迫感が強くなるところまでくると、俺はテグーから降りた。
目の前にあるのは両側の山を縦に深く抉り取ったような溝。川の水はそこから流れている。
死の渓谷。
その雰囲気は異常なものだった。
そこまで続いていた森はある場所を境に一切の生育がなくなった。岩だけがある。苔もなく土すらないそこは生命の存在を許さない、字の如く死の場所だった。
「お前はここまでだな。あとは俺が行ってくる」
本当は、手綱も鞍も外してやりたかったが、実乃莉の方が優先だったが為に、時間の余裕がない。代わりにほんのちょっとだけ下顎のあたりを掻いてやる。テグーは、気持ちよさそうに喉を鳴らすと不意に外方を向く。帰路に着いたのだ。もう、彼らの役目は終わった。
——ありがとう。
下っていく背中に声もなくつぶやくと俺は駆け出す。死の渓谷に入ると狭い道を躊躇なく走る。ゆっくり歩いている時間はない。
それは、他人が見たらただ危地に猪突猛進しているように見えるかもしれない。日本の運命を背負っている者にそぐわない行動かもしれない。
だが、俺は自分の未来のために闘うと決めた。この気持ちが身勝手なエゴであっても、彼女と共に歩みたい。この先どんな困難があっても一緒に乗り越えていきたい。そう思えた初めての人だったから、この先にどんな恐怖が待っていても関係ない。全て叩き切るまでだ。
くねる道を足の置き場を寸時に判断して駆け抜ける。頭が沸騰しそうだった。考える余裕なんてない。反射的に脚を動かして体をくねらせてバランスをとって駆け抜ける。
カーブを抜けても岸壁。また抜けても新しい岸壁が見えてくるだけでもどかしい。
そのもどかしさを焦りに変えて突き進む。
光があまり入らないところに差し掛かり、道の奥で彼女の姿がわずかに見えた。
「実乃莉!!」
思わず叫んだ。その声が渓谷の間を幾度とこだまして彼女の耳に届いた時、彼女もまた同様に叫び返す。
「優人くん!!」
俺がフィールドに入ろうとした時、実乃莉の冷淡な叫びに俺は耳を疑った。
「来ないで!」
聞いたことのない張り裂けそうな叫びに俺は足を止める。
「なぜだ!?」
「罠よ。ここに入ったら最後倒すまで出られなくなる」
実乃莉の言っていることを俺は寸時に理解した。ここが強制戦闘エリアで、システム的に戦闘を終えるまでフィールドから出られなくなるというもので、相手はアンデッド。つまり、戦闘は終わらない。信じられなかった。信じたくなかった。それはつまり、ここを突破するには命ひとつでは足りなくて二機必要だったということだ。
最初からあいつは知っていたんだ。ここで必ず一人が、アンデッドのおもちゃを全て消し炭にするために、火薬を使って自爆をする。最果ての岬に辿り着くのは残った一人だけだということを。オメガは最初から知っていて俺たちを泳がせた。
最後に精神的に弱った方を得意の洗脳で狂わすつもりだったのだろう。
——ふざけやがって。
堪えきれない怒りがどうしようもなく煮えたぎる。
俺は、フィールドに脚を踏み入れた。
優人がフィールドまで来る数分前。実乃莉は、五体の骸の四肢を奪い。火薬袋を五つ設置した。それでもまだ足りない。半径二〇メートルほどのフィールドを燃やし尽くすにはまだ足りない。この空間、全ての空気を燃やし尽くすほどの火薬が必要だ。まだ、足りない。まだ、少なすぎる。
効率よく設置するためにウィンドウは出したままだ。ウィンドウは、剣で触れてしまうと勝手に閉じてしまうため、剣はしまってある。攻撃とか防御よりも火薬の設置が優先だ。
突然背中に鋭い痛みが疾った。焼けるような痛みが右肩の辺りから左の腰の方にかけて疼く。
これが優人くんが耐えた痛み。実際にはこの程度ではないのだろう。自分が受けたのはただのかすり傷程度だ。浅く皮膚が裂けた程度と腹に穴が開いたのとでは比べ物にはならい。
実乃莉は意志の力で振り向くと目の前で人形のように突っ立ているそれの頭部をはねた。もう罪悪感なんてない。死体で弄ぶアンデッドと比べたら自分がやっていることは遊びを止める善行。四肢を断って動かなくさせればもう遊ばれることはないのだから。これは善行だ。
こんなことを考えるなんて自分は既に狂ってしまったのかもしれない。もう人に戻れないのかもしれないな。それでも良い。人を捨てたって良い。それでも彼の未来が欲しい。彼が穏やかに暮らせる未来を。苦しまず心の平穏が保てる未来があって欲しいから。
実乃莉は頭部を飛ばした骸の四肢を手早く断ち切る。
あと何体いるのか。数えるのも嫌になっていた。なぜなら、どこに顔を向けてもそれが目に入ってくるから。あと二十はいるかな。そして段階的に数も増えていっている。本当にフェーズを踏んでいるみたいで、どこまでも気が遠くなってくる。
いつ終わるんだろう。この戦いはいつになったら終わってくれるの。もう限界だよ。
剣は既に血でべっとりだった。柄の方まで古くて粘度のある血がこびりついている。導いてくれる光をその剣はもう見せてくれない。辛く絶望的な現実が重たくのし掛かってくる。
痛みに俯いた。それでも意識で鞭を打って顔を上げる。
戦え。戦え。その役目を果たすまで、この命を燃やしつくせ。
前方から近づいてくるのは十字槍を持っている兵士。その兵士は右腕の肘から先がない。全く趣味が悪いな。遺体をそのまま持ってくるなんて常軌を逸している。
片腕、しかも左手となると力も相当弱くなる。キレのない垂直方向の剣撃を実乃莉は余裕を持たせてかわす。
兵士は更に足元を掻っ攫うように槍を薙ぎるがそれも簡単に避けれてしまう。
——もう動かなくていいよ。
槍を持つ左手を飛ばしたあと、実乃莉は駆ける。半径二〇メートルのフィールドに骸が一〇体以上も沸いてしまっていた。四肢を失い動くことが不可能な状態に陥った兵士の身体は消えてなくなるけど、その分新たに湧いてくる。全く何体死体が溜まっていたのだろう。終わりの見えなくて心が折れそうになる。でも、まだ諦めるわけにはいかない。諦められない。
実乃莉はフィールドを駆ける。ウィンドウを表示したままの状態で。火薬袋を落としていく。血の気がなくて頭が痛む。どうしようもなくふらっとする。それでも骸の攻撃を掻い潜ってアイテム欄の全ての火薬袋を落とし終えた。
——あとは、終わりが見えるまで戦い抜けば……。
その時、彼の声が聞こえた。
「実乃莉……」
なんできてしまうの。
彼の負担を減らそうと思っていたのに。
……でも、嬉しいや。
彼が来てくれたこと。それだけで不思議と力が湧いてくる。結局、彼との未来を自分は望んでいるんだ。
それに嘘はつけないや。
でも、実乃莉は肩を震わせ、その思いを抑え込もうとした。
来ないで……。
……………………
「なんで入っちゃうの? 優人くんが入ってきたら意味がないじゃない」
彼がフィールドに入ってきて、嘆くように言った。
そんな私に対して彼は近づいてくると囁くような声音でいう。
「言っただろ。俺はずっと君といたいって。俺は実乃莉といきたいんだ。代わりは他にいない。実乃莉だけが俺を救ってくれた。だから実乃莉じゃなきゃ駄目なんだ」
ずるい。
その言葉が何よりも嬉しくて、拒絶することができないことを知っているくせに。死のうなんて思えなくなっちゃうじゃない。
「実乃莉、俺と一緒に生きてくれ」
優しい目で彼は言った。
わかってるよ。優人くんがそう思ってくれていることくらい。でもそれだけ大切に思ってくれる人だから……。あなたの未来を壊したくないの。
彼が颯爽と骸の四肢を切り離す。私のとは格段にはやい速度であっという間に。
私の行動が全て無駄だったみたいに思えるほど無双する。
——Last Phase——
鐘のような音が頭に響いてその文字が視界に浮かび上がった。
最終段階。死体が尽きそうなことを表している。そして、それは出し惜しみをしないことも表している。
死体は無くならない限り永遠に湧いてくる。底を尽きそうになるとラストフェーズに突入するから、最後のフェーズまで辿り着いたら自爆するんだな。
オメガが私に言ったことだ。あの時、言ったことは最善策だった。そして今、隣に彼がいることは絶望だった。
湧いてきた屍の量が今までとは比べ物にならない。それは寸時に数えられないほどに湧いてきたのだから二人で全部倒すなんて不可能だ。
『四〇いるわ』
莉津子の言葉は私の心を穿つのに十分だった。もう終わった。これでゲームオーバー。何もかも。
骸は生成し切るまで動かないのか静止したままだった。おそらく今彼らは無敵状態。最終フェーズのスタートと同時に一斉に動き出すのだろう。
その時間。絶望をただ待つだけの時間に優人が崖の下を覗き込む。
「崖下は川だな。結構深そう。ここに遮る壁はないから逃げれそうだな」
一つの希望が見えた。まだ彼を逃がせられる。
「実乃莉、火種をよこせ。ここまで勝手に来たんだ。持っているんだろ?」
私は手に銃を生成した。それを見た瞬間、優人は呆れたように肩を下ろす。
あの夜に自分の腹を貫いた銃を最愛のパートナーが持っていたのだから無理もない。
「オメガの銃か……。よりにもよって。弾はあるのか」
「ない。だから誰かが弾倉を外した状態で引き金を引かないといけない」
「わかった。俺がやるから寄越してくれ」
やっぱり——、言うと思った。
実乃莉は少し、安堵した。自分が好きな彼が彼のままだったから。全てを背負い込んでしまう彼だから私は彼のことを好きになった。他人に重荷を押し付けたりしない彼だったから、——私はあなたに生きていて欲しいんだ——。
「優人くん。あなたじゃダメなの。あなたがここでリタイアしたら誰がオメガを倒すの? 優人くんは川から麓の街に戻って、状態を立て直して」
「それじゃあ、実乃莉が」
「私のことなんてどうでもいいの。もうあなたの足手纏いは嫌……」
実乃莉は地面に落としたままの火薬袋に近づくとリーディングライトの剣尖を布の網目に引っ掛け切り裂く。裂け目から黒い粉がこぼれると剣を捨てた。続けて銃のスロット型の弾倉だけを外す。準備はできた後は彼を逃すだけ。
実乃莉は優人に近づく。全てを理解した彼。立ち尽くし絶望していても、何か他に策があるはずだとその目は探っている。だけど、そんなものもうない。彼もそれに気がついた。
四〇体の骸を二人だけで相手できるわけがない。
私たちは何もできない。
そう察した彼は絶望に硬直して目が泳いでいた。
そんな彼を私はぎゅーっと抱きしめる。
もう最後だから、遠慮はしない。
「ありがとう、優人くん。こんな私を好きになってくれて。世の中の誰も味方をしてくれなくても、あなただけが私の光になってくれた。だから、あなたは私の光のままでいて。少しの期間だけだったけど、夢を見させてくれてありがとう。愛してるよ」
そっと頬に自分の唇を当てる。涙の垂れる頬をそっと撫でた。
彼は、私に腕を回すことはしなかった。完全にこの運命を拒絶している。
けど、仕方がないの。
——世界を救うためなのだから。
そんな大義名分、私の人生には不相応かもしれない。でも、彼のためだと思えばできる。
彼の体を抱きしめたまま、崖に近づいた。彼の体を思いっきり強く押した。
彼は何も抵抗せず、崖の下に落ちていく。
川に着く前に屍の動き出す音。
実乃莉は黒粉に銃を当て、引き金を引いた。
瞬時の爆光。一瞬で強い光と熱に呑まれた。そして、ぶつりと音がして全ての感覚がシャットアウトした。
彼女に抱きつかれた時、自分の無力さを呪った。
なんで、彼女を救えないんだ。なんで俺はそれを理解してしまっているんだ。
彼女を失ったらまた一人だぞ。動け。
いつもだったら俺は一か八かで戦っていただろう。でも俺にはそれができない。
四〇体の骸の四肢を切断することだけなら可能性がかなり低いができないこともないだろう。幻想世界だったなら。
痛みに身体が怯むこの世界で四〇体を同時に相手することは、実乃莉がいるとはいえ、不可能だ。
限りなく可能性がゼロに近いのに俺だって賭けに出ることは出来ない。だって、賭けに負けたら死ぬのは俺だけじゃない。俺も実乃莉も母さんも、生き残っているV R Pの社員もみんな死ぬ。それだけじゃない。被害が日本全国に及ぶことだってあり得る。
だから、俺は抗えない。これから起こることは到底受け入れられないけど、俺にはこの選択肢しかないんだ。
もうこれしかないんだ。
彼女が耳元で何か囁いている。何を言っているのか頭に全然入ってこない。だって、そんな言葉は聞きたくなくて、彼女が自爆をしなきゃいけないというのが俺は死ぬほど嫌なのだから。
彼女が押してくる。
俺は倒れないように素直に下がる。後ろは崖。無意味に彼女の身体を押し返したりしない。もうどうしようもないから。
「…………愛してるよ」
——俺も。
彼女に突き落とされて見えたのは痛いほどの光と爆炎。水に落ちた後も何もかもを破壊する爆音が耳を打った。
着水した勢いで沈んだ身体を、川底を蹴って持ち上げる。
川面から顔を出して見えたのは真っ黒な煙だった。香ったのは肉が焦げた時のあの香りだった。
俺は知っている。もう彼女がこの世界にいないことを。
俺はまだ君に何も伝えられていないのに——。
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