♦2 薔薇は自分の棘に刺さらない


 薔薇が咲く季節を知っているだろうか。

 冬薔薇ふゆそうびという言葉があるが、普通は寒い時期に薔薇は咲かない。

 新緑にしっかりと太陽の恵みを受け、梅雨と共に散るのだ。



 洋一たちが住む洋館でも、多種多様な薔薇が見頃を迎えていた。

 これらは全て、館のあるじである洋一が手入れをしているものだ。

 中には貴重な品種や、扱いが繊細で栽培が難しいものもある。

 ここまで綺麗に咲くまで何度も失敗を繰り返しつつも、彼は我が子を育てるように可愛がってきた。



 薔薇と共に過ごすという何とも風変わりな人生を送っている彼だが、最も愛しているのは薔薇ではない。それは自身の妹であり、花のように可憐な少女――迂闊に触れば棘で痛い目に遭う――である汐音だった。


 彼女に比べたら、薔薇を育てることなんて如何に容易いことか――。



 中身はともかく、彼女は美しい。

 艶のある長髪、シミひとつ無い肌、長い睫毛……いっそ精巧な日本人形だと言った方が近いだろう。




 汐音は、今日も洋館の中を和服で過ごしていた。

 名前に『汐』とあるように、夕焼け沈む大海原をイメージした橙色の装いである。

 これは以前、「彼女の病的なまでに白い肌に暖かみを足してくれる」と言って洋一がプレゼントしたものだ。お兄様が大好きである汐音は週に一度は必ずこれを着るようにしていた。


 もちろん、これを着た際には洋一に見せに行くのが習慣であり、楽しみだった。

 今も汐音はお気に入りの巨大クマのぬいぐるみを抱いて、兄の部屋を訪れていた。日中は常に自室に引き篭もっているが、兄に会うためであればこういった行動力を発揮できるのだ。……館の中でのみ、という条件付きではあるが。



「――絶対に駄目だ!!」

「どうしてですかお兄様!!」


 そんな相思相愛な兄妹であったが、今日に限っては様子が違っていた。

 対面にソファに座り、激しい口論をしているのである。


 いつもは冷静な兄を演じている洋一にしては珍しく、大声を張り上げている。汐音も汐音で涙目になりながらも兄に反抗していた。



「クソッ。紅莉のやつ、余計なことを吹き込みやがって!!」

「私はお兄様の為を想って――!!」

「冗談じゃない! どうしたお前を禍星の争いなんかに巻き込まなきゃならないんだ! 万が一お前になにかあったら、俺は死んだ親父たちに顔向けができないんだよ!」


 彼がここまで心を鬼にして怒っている原因はたった一つ。

 汐音が洋一に紅莉たちに協力するよう嘆願したからである。



「でも、このままじゃお兄様だって狙われてしまうのですよ!?」

「それが何だっていうんだ!……この問題はすでに死人が出ているんだぞ。もしかしたら、こちらが殺す側になるかもしれないんだ。そんな重みをお前に背負わせたくなんかない」


 禍星の子がまつわる争いの悲惨さを知る洋一は、頑なに汐音が関わることを拒絶する。

 だがそれもそうだろう。前回の星廻の儀では、たった一人を除いて禍星の子は全滅したのだから。


 これがヤクザや不良の争いだったのなら、そこまで影響はなかっただろう。

 彼らは超能力者とも言える人間同士だったがゆえに、非常にタチが悪かった。

 物や人を使って儀式を行い、相手を呪い殺す。一度死人が出てからというもの、誰もが死ぬ気で敵を殺したのだ。

 物や人に直接呪いを掛けたせいで、彼らの死後もそれが残ってしまったのだ。

 星廻の儀による余波は数年続き、関係者意外にも多数の被害者が出てしまった。


 だからこそ、汐音にはそんな目には遭わせたくないのだ。



「俺は手掛かりを持っている奴の所へ行ってくる」


 洋一も覚悟を決めた。この茨の洋館から一度出る必要がある。

 紅莉たちとは直接協力はしないが、別口で事の解決を図ることにしよう。

 同じ道を行くよりも、時間の無い今は違う道で目的地に進んだ方が解決の確率が上がると踏んだのだ。


 もちろん、これが理由の全てでは無い。

 彼女達が目の前で死ぬのを見たくない、という気持ちがあるのもたしかだ。



「どうして……あの女の所へ行くつもりなのですね? 私を置いて……」

「いや、アイツとは別に……それに、これはお前の為に……」

「嘘よ! 私よりも、あの女が良いって思ったんでしょ! あんな嘘で固められた女なんて! 私のことなんて、もうどうでも良くなったんだ!!」

「汐音!!」


 ヒートアップしてきた汐音の口調が、ますます荒々しくなっていく。

 汐音は余程、兄にその女と会って欲しくないようだ。



「それにね、私……お兄様の為なら、どうでも良い人間なんて殺せるもん」

「なにを言っているんだお前は……」


 汐音は優しい子だ。誰も傷つけたくなくて、誰ともかかわらないようにしている。

 そのくせ、自分には厳しく、いつも自分のことを傷付けてしまう悪癖がある。


 洋一は彼女の手を見つめた。何かあるとすぐ手を見てしまうのは、手相師の職業病とも言って良いだろう。


 だが、彼は妹の手相を見たことが無い。

 本来なら必要のない手袋をして傷を隠しているからである。


 本人はリストカットしていることを隠しているようだが、そんなもの兄にはお見通しである。首の痕だって、彼女が自分で首を絞めているのを知っている。

 汐音は自分がこの火傷を負った原因が自分にあると思っているのだ。


 ――コイツが償うべき罰なんてあるはずもないのに。



「頼む、汐音。関係のないお前は、大人しくここで待っていてくれ」


 どれだけ年上の人間にも頭を下げない洋一が、頭を下げた。

 それほどまでに、彼にとって妹の無事は最優先事項なのだ。

 だが、当の本人である汐音はケロっとした顔で、とんでもない切り札ジョーカーを切った。



「関係のない? それは違いますわ」

「なんだって!?」

「――私も禍星の子なんです。お兄様なら手相でバレてしまうと思って、隠しておりました。だから私も星に呪われた子。お兄様を護るためなら、人を殺すぐらい平気です」



「私、紅莉ちゃんから教えてもらう前から全部知っていました。禍星の子と星廻の儀について。それに……お兄様がも」

「なんだって……?」


 汐音が取り出したのは、この部屋に持って来ていた巨大なクマの縫いぐるみだった。

 その背中にあるファスナーをジジと開け、綿の中から一冊の古びた本を取り出した。



「汐音……お前、どうしてその本を……!!」


 それは洋一が大事にしていたはずの悪魔の愛読書だった。

 誰にも見せたことも無い、自分だけの本。もちろん、汐音には存在すら教えていなかった。絶対に目に触れないよう、自室の隠し部屋で厳重に保管してたはずなのだ。


 ただ、汐音に見られたくなかったのは自分がやっている家業のことではなかった。

 彼の最大の秘密がそこにしまわれていた。



「この写真、見られたくなかったんですよね?」

「それは……っ!!」


 汐音が本をペラペラと開くと、そのなかに栞のように数枚の写真が入っていた。

 それはまだ洋一と汐音が

 汐音はまだ自分を傷付けることもしていなかったし、洋一も火傷なんてどこにもない。



「ねぇ、お兄様。お兄様って自分の手相、見てみませんか?」

「や、やめろ……!!」

「お兄様? ねぇ、お兄様は私のお義父様に何をしたんです? 私に――」

「もうやめてくれ――!!」


 汐音が持つ写真の中には、小さな結婚式場で新郎新婦を囲う兄妹の姿があった。



 ◇


 今から五年前。

 洋一が成人したばかりの頃、父親が知らない女性と小さな女の子を連れてきた。

 その女性は自分が教授としている大学の、事務員をしているそうだ。

 そして何の前振りも無く、父はこの人と再婚する、と彼に告げた。


 その女性――のちの義母が連れていた女の子こそ、当時まだ五歳になったばかりの汐音だった。

 いわゆる連れ子同士の結婚。血の繋がりのない、紙面上での関係だったが、意外にもすぐに馴染むことができた。


 年齢が十歳も離れている上に、二人の身長差は何十センチもあったので、どちらかといえば兄と妹というより親子のようだった。

 洋一も彼女を猫可愛がりしており、汐音も彼にしょっちゅう甘えていた。


 また、親同士の中も非常に良好だった。

 父は休みの日には車を出して近くの市民プールに連れて行ったりと頻繁に家族サービスをしたし、義母も家事を頑張っていた。

 義母は身体が弱いらしく、元々父の代わりに家のことをしていた洋一が彼女を手伝ってやると非常に喜んだ。

 一見すると、彼らの家庭は上手くいっているように見えていた。


 だが、それも最初の一年ほどだけだった。汐音が中学生になった辺りから、その関係性は次第に悪化していったのだ。


 洋一の父親が、汐音のことを性的な目で見るようになったのである。


 女として発育し始めた汐音は、中学生とは見えない妖艶さを放っていた。

 発育と言っても、外面では無い。身体は幼いままであるのに、内面の成熟が著しかったのだ。

 汐音の母も年の割には若く見えたし、非常に美しい女だった。だが日々進行していく老化にはどうしても抗えなかった。


 洋一はある晩、自分の父親が隣りの部屋に向かうのを見てしまった。

 その部屋は汐音が寝ている。こんな時間に何の用だ?と思った洋一は、こっそりと扉の隙間から中を覗いてしまった。


 ――自分の目で見ても、信じたくなかった。

 大学の教授をしていた、あの厳格な父がである。まさかとは思ったが、自分の血の半分を引いている父だからこそ、有り得ないとは言い切れなかった。


 そして汐音が悲鳴を上げ、抵抗し――全てが燃えてしまった。

 何もかも。家も、父も、母も。


 悲しかったが、洋一は汐音を責めなかった。

 アイツは大事な家族なのだ。悪いのは父だ。そんな父を野放しにしている母も同罪だ。

 汐音はショックで塞ぎがちになってしまった。

 祖母の家を譲り受けることができたから、そこで療養しよう。


 面倒は俺が全部見る。誰にも頼らない。他に家族は居ない。もう要らない。

 俺が汐音を守らなければ。俺が――


 その日、善良な少年は悪魔へと変貌した。



 ◇


「お兄様。この写真にご自身の手相がよぉく映っていますよ。ほら、診断してみてください?」

「やめてくれ……頼む。俺見せないでくれ……」

「どうしてです? ほら、思い出してください。私が襲われたショックで気絶している間に、お兄様は一体何をしました?」

「お願いだ、許してくれ……」


 さっきまであった威厳のある兄としての気勢は、今ではすっかり失われてしまっている。

 汐音はソファの上で頭を抱えている洋一の背後に回り、そっと抱きしめてながら耳元で囁いていた。



「お兄様はお義父様を殴り殺し、お母様の首を絞めた。そして家に火を……それなのに、『私が抵抗した時に火事を起こした』そう思い込むようにしたんですよね?」


 家と家族を失ったあの晩。

 洋一は自身の記憶を封印することにした。

 己の犯した罪の重さに耐えきれず、彼は現実から逃げたのだ。


 ただ逃げただけでは無い。

 あろうことか、守ろうとした汐音に罪を被せることで自分を正当化しようとした。

 妹想いで、責任感のある兄。そういうキャラクターを作り上げた。


 だが洋一が本当に守りたかったものは、妹の汐音ではない。自分自身だったのだ。



「良いんですよ、お兄様」

「汐音……」

「そんなお兄様を、私はお慕いしております……」


 汐音はすっかり怯えてしまった洋一の顔を優しく包み、唇を重ねた。

 そこにはもう、厳格な兄の姿は無い。

 ただ、愛してはいけない女を愛してしまった、ただの哀れな男だ。



「ありがとう、紅莉さん。私、幸せになれたよ……」



 母親が我が子を慈しむかのように洋一の胸元に指を這わせながら、和装の少女は恍惚の表情を浮かべていた。

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