♧9 因果応報
「さて、コイツをどうするんだ?」
クローゼットから出て、改めて部屋を見渡して呆れの溜め息が出てきた。
最初に部屋に入った時に「ラブホって想像していたよりも綺麗なんだな」と思ったのがもう懐かしく感じるほどに汚れきってしまっていた。
カズオはピザを食べながらその手であちこちに触ったりしていたし、ポロポロと食べかすを何度も落としていたせいでソファも机も、床のラグマットさえも悲惨なことになっている。
こうなったのは自分の所為ではないのだが、さすがにラブホテルの従業員に申し訳ないという感情が湧いてくる。
しかし紅莉は部屋の状態には目もくれず、なぜかベッドに転がるカズオに近寄り、奴の服を脱がし始めていた。
「紅莉……?」
「大丈夫、ちょっと待ってて!」
というか、紅莉は服を着ないんだろうか。
彼女はカズオに服を脱がされ、下着姿になったままなのだ。
白の可愛らしい上下ペアの下着。派手でもない、紅莉らしいチョイスだと言えるだろう。それがさっきから目の前で見せつけられている。ちっとも隠そうともしていない。正直、目のやり場に困るのだ。
彼女は着やせするタイプだったのか、思っていたよりも胸が――身体つきが豊かなのだ。紅莉はそんな悠真の視線に気付いていた。紅莉はワザと彼から見える位置で屈み、胸元を強調して彼のリアクションを楽しんでいた。
ここ数日、紅莉と一緒に居ることが増えてからというもの、悠真はこうして振り回されることが多い。大人しい性格だと思っていたら積極的に話しかけてきたり、性に疎いかと思いきや大胆に自分の身体をアピールしてきたり。
今も目の前の少女は肥えた男をベッドに紐で拘束し始めた。
これはカズオの荷物から拝借した物だった。彼もまさか、自分に使われる日が来るとは思ってもいなかっただろう。
チャーシューのように肉をはみ出させながら、みるみるうちに磔になっていく光景を見て、もはや悠真は深く考えることをやめた。
彼女が今から何をしようとしているのかは知らないが、女性を獲物にした愚かな男が返り討ちになったということにしよう。後で警察沙汰になるかもしれないが、傷付けたり、殺したりしなければどうにかなるかもしれないし。取り敢えず、あのスタンガンは使わせないように自分から注意しておこう。
「ここまですれば、本を渡すと思うんだよね。この男も、牢屋には入りたくないだろうし?」
「う、うん。そうだね……?」
どうやら紅莉は動けなくした上で、カズオから本を奪うつもりだったようだ。
たしかにここまでされたら抵抗もできないだろう。そもそもコイツ、意志薄弱そうだし拷問じみたことをしなくても簡単に渡してくれそうだ。
「紅莉、そろそろ服を着たらどうだ?」
「なぁに、悠真君。もっと見ていたいのかと思ってた」
「そ、そんなことない!……って揶揄うなよ! こっちは心配しているのに」
「あはは、ごめんごめん。でもコイツからパワーストーンの本を貰うまでだから平気だよ。終わったらお風呂に……」
そういって紅莉は浴室の方に視線を移動させて、固まってしまった。
どうしたんだろう。何か浴室に気になる物でもあったんだろうか?
悠真もそちらを見るが、特に違和感はない。
強いて言うなら、浴室がマジックミラーになっているようで鏡のように自分たちが見えている。いや、これは――!!
「まさか、この男……!!」
紅莉は焦った様子でベッドに飛び乗ると、カズオの上に跨った。
さっきとは逆の位置関係だ。
彼女は右手を大きく振り上げ――そのままカズオの顔面に振り下ろした。
幾度となくバシン、バシンという音が部屋に木霊する。
一種のSMプレイのような有り様だが、紅莉も悠真も真剣な表情だ。
彼女の手のひらは叩きすぎて真っ赤になってしまっている。
何度か繰り返しているうちに、カズオが意識を取り戻し始めた。
文字通り、彼は叩き起こされてしまったのだ。
「んにゃ、あれ……なんで身体が?」
「お前っ、まさか本を渡したの!?」
「え……な、なに?」
「悪魔の愛読書!! お前が持っていることは知ってんのよ!!」
今まで見たこともないような、般若の顔。
悠真が目の前に居るということも忘れ、物凄い剣幕でカズオを怒鳴った。
視線は射殺さんとばかりに鋭く、「嘘は許さない」と睨みつけている。
カズオはすっかりビビってしまい、声が震えている。
「う、うぅ……盗まれた……」
「はぁ!?」
「おい、誰に盗まれたんだよ!!」
「だ、誰だよお前……」
「いいから答えろ!!」
はぁ? 盗まれただって?
この世に一冊しかない、貴重な本を……!?
二人とも、その本が無いと困る。気付けば悠真も一緒になって、カズオを問い詰め始めた。
「お、女だよ」
「女ですって? 客!?」
「ち、違う。代表の女だ!!……七日前。僕もカレイドスコープのビルに居たんだ。あの女、代表の言いなりだと思っていたのに、まさかあんなことを……」
「それで奪われたのか! 本も……影も!!」
「なっ!? 何でそのことを……まさか、お前たちも!?」
そう、浴室のマジックミラーにカズオの影が映っていなかったのだ。
つまり、この男も悠真たちと同じく透影ということ。しかも七日前に影を奪われたということは、カズオに残されている猶予は僅か一日しかない。
「そ、それから僕の食欲は収まらなくなっちゃうし……か、身体が痒いんだ! この腐った臭いだって、洗っても洗っても取れないんだっ!!」
僕の身体、どうなっちゃうの……と涙を流しながら訴えるカズオ。
悠真はそれ以上、彼を責めることができなくなってしまった。
カズオも自分と同じ、あの女の被害者だったのだ。
それだけじゃない。迫りくる死から目を逸らし、誤魔化してきたはずの恐怖心が、ここにきてむくむくと顔を出してきたのだ。
何しろカズオという、死に掛けの証人が目の前に居るのだ。コイツは、数日後の自分だ。思わず、カズオと自分を重ね合わせてしまう。
全身から腐臭を漂わせ、死の恐怖に身体を震わせながら命乞いをする姿を。
「……っ!!」
「あっ、おい! 紅莉!!」
ボケっとしていた間に、紅莉は服を着て荷物を持って部屋から出るところだった。
慌てて悠真も彼女の後を追う。
「えっ!? ちょっ、僕このままっ!?」
「お前が紅莉を無理やり押し倒したシーンは録画済みだから。下手なことしたら警察にバラす」
「そ、そんなあっ! たすっ、助けてぇ!!」
悪いが、今は呑気に付き合っている余裕は無い。同情はするが、それはそれだ。
せめてもの情けとして、ホテルに備え付けられていた
さぁ、早く紅莉を見つけないと……!!
カズオの悲痛な叫び声を背中で聞きながら、悠真は逃げるように部屋を出た。
◇
「良かった……」
幸いにも、紅莉は扉を出てすぐの廊下で、壁を背にして座り込んでいた。
だが、顔は涙で濡れてしまっている。
「大丈夫か、紅莉」
声を掛けながら隣りに近寄る。壁に背を預けてから、ズルズルと腰を下ろした。
悠真は自分の左肩に重力を感じた。サラサラの髪が首元に触れてくすぐったい。でもそれは決して、嫌な感覚では無い。
右手を伸ばし、紅莉の頭を撫でてやる。一瞬紅莉の身体が強張るが、すぐにふにゃっと緩んだ。
「こわ、かった……」
「……うん。そうだよな。すげぇ頑張ったよ」
当たり前だ。紅莉は自分と同じ高校一年生で、根は優しい女の子なのだから。
さっきまでの彼女は、本を回収するために演技をしていただけ。男が相手だから強がっていただけなのだ。
誰だって、死ぬのは怖いに決まっている。
俺が紅莉と一緒に居ることで気を紛らわせていたように、紅莉はわざと明るく振る舞うことで、ギリギリ心を守っていただけなんだ。
「ねぇ、悠真君」
「ん、なんだ?」
しばらくの間、大人しく悠真にされるがままになっていた紅莉が口を開く。
「もし、私が死んじゃったら悲しんでくれる?」
細く、震えた声。
それは悠真に、何をするにもオドオドしていた頃の彼女を思い出させるような、自信の無い小さな声だった。
だからこそ、悠真は力強く答えた。
「当たり前だろうが」
「じゃ、じゃあもし私も悠真君も死んじゃったら、あの世で一緒に居てくれる?」
「馬鹿。俺たちは死なねーよ。あの頭のオカシイ女をとっ捕まえて、それで……」
「それで?」
もう、いいか。死に掛けのカズオを見て吹っ切れてしまった。
俺達には時間がない。死んでしまったら、言えることも言えなくなってしまうのだ。
こうして見ることも、触れることも。互いの体温も感じることはできなくなる。
だから、もう躊躇しない。
悠真は身体を少し起こすと、正面から紅莉の上半身を優しく抱き寄せた。
「俺と付き合ってくれ。それで、ずっと一緒に居よう。高校卒業したら結婚して、家族増やして、それで……幸せになるんだ」
「そ、それって……」
――先走り過ぎた。
心の中で数秒前の自分を殴りつける。自分の顔は見なくても真っ赤になっているのが分かる。
どうして俺は交際を願うだけではなく、結婚のことまで口走ってしまったのだろう。
死ぬかもしれないから? それでもあれはないだろう。ほぼプロポーズじゃないか。
しかし言ってしまったことはもう、取り返しがつかない。
「でも、星奈ちゃんは……」
「アイツはきっともう、俺と付き合う気はないんだよ」
「それでも――んっ」
それ以上の言葉は要らなかった。
紅莉の唇を悠真が奪う。何度も、何度も。
「ねぇ、部屋に戻ってエッチ、しちゃう?」
「馬鹿。そういうのはもっと、ロマンティックにするべきだろ」
「あはは。悠真君って、そういうところ乙女だよね~」
悠真は立ち上がると、紅莉に手を差し出す。
二人とも、鏡合わせのように明るい表情をしていた。
「帰ろう。作戦の練り直しだ」
「そうだね。まだ時間は残ってるんだから」
紅莉の言うように、まだ死んでなんかいない。
やれることはあるのだ。
「……どうしよっか、アイツ」
「近くに鋏を置いておいたから、自分でどうにかするだろ」
それに、アイツが頼んだピザやら酒やらのルームサービスの代金なんて払えない。
紅莉を襲おうとした慰謝料として、それぐらいはしてもらおう。
二人は手を繋いで、ホテルを後にした。
◇
カズオは自身で用意したはずの拘束具と、必死に格闘していた。
悠真が置いて行った鋏をどうにか手繰り寄せ、口を使ってナイフのように斬ろうとしている。身体はすっかり汗だくで、息もゼェゼェと苦しそうだった。
助けは来ない。
悠真と紅莉がここを出てから、すでに一時間ほどが経過してしまっている。
料金は自動更新制で時間が過ぎれば勝手に宿泊となってしまうため、明日の朝までは清掃員も入って来ない。
それにここは、ラブホテルだ。防音がしっかりとしている。
つまり、助けを呼んでも誰も来てくれないのだ。
挙句の果てには監視カメラは建物の入り口にしかなく、カズオがこんな目に遭っているということは誰も知らない。
そんな絶体絶命の状況に陥っていたカズオの元に、ふらりと訪れた人影があった。
「あ、アンタは……!!」
カズオの前には、汚れた黒髪をした長身の女が立っていた。
そう、あの連続殺人鬼が再びカズオの前に現れたのだ。
すでに禍星の子は殆どが、彼女の手に掛かっている。影を奪われていない者は洋一たちを含め、残りはもう僅かしか居ない。
しかし、全ての元凶とも言える存在が現れたというのに、カズオはまるで救世主が来たかのような喜びの声を上げていた。
「こ、これで良いんだろう? 俺の本と影、返してくれよ……か、身体が変なんだよぉ……!!」
全てが予定調和。ここへ日々子が来るのが分かっていたかのような口振りだ。
そして彼のセリフは、敵対している者に使うような言葉では無かった。
日々子はカズオがいるベッドへと一歩一歩、ゆっくり近寄っていく。
そして、黒い染みだらけになってしまっているトートバッグの中に手を入れた。
「え? いやいやいや、話が違うだろ。僕は、言われた通りのことはやったじゃないか……!」
バッグから出てきた手に握られていたのは。
血の塊で用をなさなくなっている、あの裁ち切り鋏だった――。
「や、やめろ! 助けてくれ! だれかたす、ぎゃあああ」
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