♣8 お酒は飲んでも女を襲うな


 紅莉が部屋の扉を開けると、豚のモンスターが出待ちをしていた。



「ふ、ふ、アカリ君かい?」

「え? あ、はい」

「ふぅ、ふぅ。はいはい。それじゃお邪魔しまーす」

「あ、ちょっ……」


 ――あの野郎。

 悠真はつい、クローゼットから飛び出しそうになる。

 扉の隙間から見えたカズオらしき人物は、サングラスにマスクをした巨体の男だった。


 その男は紅莉の許可を得もしないで、マスクの下でフゴフゴと鼻息を荒くしながら部屋の中へと入ってきた。


 歳は二十代後半から三十代。横幅が大きすぎて、玄関の扉がギリギリ通れるぐらいだった。身長は紅莉と大して変わらない。一七〇は無いと思う。



 カズオはサングラス越しにジロジロと紅莉を見て品定めしていたが、どこか納得した表情になった。



「ふぅん」

「あ、あの……?」

「チッ、安物か。これだからラブホは……」

「……えぇ?」


 そしてドカッとソファに腰掛けると、背もたれの表面を手で撫でて鼻白んだ。合皮が気に入らないのだろうか。

 いや、あれはクッションもヘタって座り心地がご不満だったのだろう。ヘタって見えるのはお前の体重のせいだよ、と悠真は突っ込みたくなった。



 この男、髪は油でも塗ったのかテカテカしているし、何より臭い。

 こちらはクローゼットの中に居るはずなのに、あの男の異臭がぷんぷんと漂ってくるのだ。


 それは香水と汗、そして公衆便所の臭いが混ざったような臭さだ。

 間違いなくあれは、剣道部の部室の数十倍は臭い。



 ――紅莉が可哀想になってきた。


 必然的にそれを間近で嗅ぐ羽目になっている紅莉は、顔面が蒼白になっている。


 これから騙す相手を不快にさせまいと、表情を崩さないようどうにか頑張ってはいるのだが……あれではそう長くはもたなさそうだ。



「うん、アカリ君は良いオーラを持っているな。きっと君には、秘められた……そう、特別な力があるはずだ。それを僕が引き出してあげるからね」

「はぁ……」

「ん? 緊張しているのかい?」

「え? あ、いや……」

「安心して、みんな最初はそうなんだよ。でも、僕がほぐしてあげると、トブほど気持ち良くなれるからね。みんな『もっと、もっと』って言うんだ」


 カズオは物凄い早口で捲し立てるように説明しているのだが、俺は――きっと紅莉もだが――頭が理解するのを拒んでしまっていた。コイツの言っている意味が分からない。


 紅莉が力を持っている云々はまぁ、いい。彼女は禍星の子なのだから、力があるのは事実だろう。

 しかしコイツの言っていることは、危ない薬をやっているようにしか聞こえなかった。



「(中止だ。これ以上はマズい。紅莉が危ない)」


 そう判断し、クローゼットに手を掛けた悠真だったが、ギリギリのところで踏みとどまった。


 紅莉が右手でキツネを作ったのだ。

 あれは事前に決めておいた、『大丈夫』のハンドサインだった。


 助けを呼ぶときは左手のピースサイン。まだそれは出ていない。

 思わず録画中のスマホを持つ手に力が入ったが、紅莉がそう言うのであれば計画は中止できない。



「取り敢えず、ちゃっちゃとパワーを溜めちゃおっか。ねぇ、電話を取ってくれる?」

「えっと……電話、ですか?」

「いいから、早く。良いの? 僕、帰っちゃうよ?」


 カズオは唐突に、電話を持って来いと言い始めた。


 当然、紅莉は困惑する。

 だが立ったまま動かない彼女を見たカズオは、今度は苛立たしげに煽りはじめた。


 電話を取る程度なら別に無理難題を要求しているわけではない。だが、それぐらい自分で取れば良い話だ。それでもカズオは自分から動く様子は無さそうだ。



「わ、分かりました……」


 紅莉の頭は混乱する一方だったが、仕方なく彼の言う通りにすることにした。

 ガラステーブルの上に備え付けられていた電話を取り、カズオに渡した。



 十数分後。

 紅莉は目の前に広がる光景に、唖然としていた。



「はふっあふっ。あ~、うまっ。ピザうまっ」


 テーブルの上だけでは収まり切らず、床の上にも置かれたピザの数々。

 そしてビールやハイボールといったアルコールの缶が山となって積まれている。


 これがすべて、カズオがホテルに注文したルームサービスだった。

 ピザ一枚が手のひらサイズとはいえ、物凄い量だ。


「(コイツ、カメニュー表にあるピザを片っ端から注文しやがった……)」



「あぁ~、やっぱピザには酒だよなあっ。ねぇ、アカリくぅん」


 カズオの言葉に、紅莉は立ったままビクっと身体を硬直させた。

 そんなことを言われても紅莉は未成年だ。酒の良さなんて分からない。


 それに彼女はカズオのあまりにも汚い食事に付き合わされて、思考が完全にフリーズしてしまっていた。



 カズオは返答に困っている彼女には目もくれず、指についたピザソースをチュパチュパと舐め取っている。その指は爪が異様に長く、垢で茶色に変色していた。


 マスクの下はニキビだらけだし、顎の下にずらしたマスクはチーズと脂でベチョベチョに汚れていて、あれではもう使い物にはならないだろう。



「あのヤブ医者……僕を診てる医者がさぁ、『これ以上酒を飲んだら強制入院ですよ』とか言ってきてさぁ。超ムカつくよね! ムカついたから僕、アイツの奥さんと娘さんを僕のにしてやったんだよ! 見る? その娘が書いたレビューがあるんだけど」


 そのレビューを半ば無理やり見せられた紅莉は「ヒッ」と声を漏らした。カズオの言う顧客というのは、手籠めにした女たちのことを指すのだろう。


 ――どうしよう、こっちもそろそろ我慢も限界がきそうだ。


「僕はそんな彼女たちを愛娘って呼んでるんだ。せっかく愛する娘たちに囲まれて、占いも順調だったのにさー。代表が殺されちゃったせいで商売あがったりだよ、こっちは。あ、アカリ君、ビールお代わり」

「は、はひ……」


 大げさな溜め息を吐きながら、カズオは紅莉から何本目か分からない缶ビールのお代わりを貰って飲んでいる。彼女をキャバ嬢か何かと勘違いしているような言動だ。



「他の連中はビビって身を隠しちゃってさぁ。どうして僕だけがこんな目に……娘たちにも会いにくくなったし……」


 ぶつぶつと愚痴を吐きながら、代わりに彼の口にはピザが吸い込まれていく。

 テーブルの上にあったピザたちが、もう無くなってしまっていた。


 最後に酒の代わりに飲んでいた炭酸水をぐびっとあおり、ゲップを吐いた。



「さて、パワーも溜まったことだし。始めようか」

「え? あぁ、はい」


 呆然としていた紅莉もようやく我を取り戻した。ショッキングなことが連続で起こり過ぎていて、彼を呼んだ目的なんてすっかり吹き飛んでしまっていた。



「じゃあ、アカリ君。脱ごうか」

「……っ!? あ、いや。そういうのはちょっと」


 あのデカイ図体でよくそんな機敏な動きができるな、と感心してしまいそうなほど鮮やかな動作で、カズオは紅莉の目の前に立った。


 紅莉もこうなることは分かっていた。

 というかこれが狙いだったので、ある程度の覚悟はできていたと思うのだが……



「うぇ、くさい……」


 ピザが追加された臭いに眩暈を起こしそうになっていた。

 だがカズオはお構いなしに、紅莉に近付いていく。



「いやっ!?」

「うっるさいなぁ、キミだってそのつもりでボクを誘ったんだろぉ?」

「違いま……きゃあ!」


 嫌がる紅莉をカズオはベッドに押し倒してしまった。

 巨体にまたがられてしまっては、力の弱い紅莉では抵抗ができない。


 カズオはやたら長い爪先で、器用に彼女の服を脱がしていく。



「占いをするには裸で密着する必要があるんだよっ。お、お互いの理解が必要なんだ! きっとアカリ君も、僕のアレを気に入ってくれるからさぁ~」

「いやああぁっ!」


 悠真はもういいだろ、とクローゼットに手を掛ける。

 その時、悠真はカズオの腹を叩いて抵抗する紅莉の右手が見えた。


 その手の形は――キツネだった。



 悠真が躊躇しているうちに、彼女は遂に下着姿にまで剥かれてしまった。カズオは舌なめずりをしながら、最後の砦の攻略に取り掛かろうとしたのだが……。



「はれ?」


 急に呂律が回っていない言葉を発したと思ったら、紅莉を抑え込んでいた手が緩んだ。それ以上の言葉が出てこない。口からはヨダレがだらりと垂れて紅莉の顔に落ちた。


 そのままゆっくり前屈みになって倒れていく。カズオも途中で手で身体を支えようとしたみたいだったが腕に力が入らず、崩れるようにして紅莉の上に覆いかぶさった。



「え……?」


 この展開は悠真も聞かされていない。予定では襲われる途中で止めに入る手筈だったから。


 つい驚きの言葉が出てしまったが、もはやカズオはピクリともしていない。

 まるで死んでしまったかのようだ。



「ゆ、ゆうまく~ん!」


 目の前で何が起きたのか分からず、ひとり暗闇の中で呆気に取られていると、紅莉がカズオのお腹をぺチぺチと叩きながら悠真の名前を呼んでいた。



「た、助けて~、潰れるぅ~」

「わ、分かった! 今行く!」


 紅莉まで動かなかったので、一瞬自分以外の時間が止まってしまったのかと錯覚した。だが紅莉は無事だったようだ。


 再び時間が動き出し、暗闇のクローゼットから飛び出した。



「これは紅莉がやったのか……?」


 岩のように大きなカズオの巨体をどうにか転がし、紅莉を救出することに成功した。


 この豚のような男に乗られたら、男の自分でも抜け出すのは容易ではないだろう。

 本当に重く、そして臭かった。触った手が臭っている気がする。



「えへへ。お酒に薬を入れちゃった」

「薬!? そんなものを持っていたのか!?」

「女の子は危ない目に遭うことが多いからね~。念のために、家にあったお母さんの薬箱からちょっとだけ貰っておいたの。他にも……ほら、スタンガンとか」


 紅莉は浴室の方にあったタオルで顔についたカズオのヨダレを拭きながら、枕の下から電動シェービングぐらいの大きさのスタンガンを取り出した。


 悠真は本物のスタンガンを見たのは初めてだったが、紅莉は手馴れた様子でバチバチと電流を流して見せた。



 なんてものを家に保管しているんだとも思ったが、今回はそのお陰で助かったのだから責めることもできない。


 しかし……もし、自分が紅莉に手を出そうとしたらカズオと同じように問答無用で薬を盛られていたのだろうか。いや、紅莉に限ってそんなことは……。



 自分はこんな屑みたいなことはしないとは思いつつも、彼女を怒らせるような真似は絶対に避けようと心に決めた。

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