♠4 アルカナの宿命


「悠真君、起きて……」

「ん、うん……」


 悠真は聞き覚えのある女性の声に導かれるようにして、ゆっくりと覚醒していく。



「あ、かり……?」


 街灯の明かりが眩しい。逆光で顔は良く見えないが、視線の先に居るのは……間違いない。心配そうな表情でこちらを見下ろしている、幼馴染の紅莉だった。



「あ、てて……ここは?」


 どれだけの間、気絶していたのだろうか。

 すっかり日は落ち、空は真っ暗になっていた。


 クラクラする頭を抑えながら、上半身を起き上がらせる。

 視界には、砂場やゾウの遊具などがあった。どうやらここは公園のようだ。それに、どれも見覚えもある。



「第一公園か……」


 学校の帰り道の途中にある公園だ。そこにあるベンチで、自分は寝かされていたようだった。


 それも、紅莉の膝の上で。



「大丈夫? どこか痛む?」

「え? あ、いや大丈夫。ありがとう」


 紅莉はベンチに腰掛けたまま、隣りでぼうっとしている悠真の頭を撫でた。

 その手は子供をあやす母のように、優しい。


 不意に訪れた安心感に思わず目を細める悠真だったが、急にサッと青褪めた。自身に起こったことを思い出したのだ。



「そ、そうだ。アイツはどこに行った……!?」

「落ち着いて、悠真君!」

「居たんだよ! あの、得体のしれない女が! アイツ、俺のことを捕まえて……」


 悠真はベンチから立ち上がると、怯えたようにキョロキョロと周りを見渡す。



「アイツ、本を寄越せって言ったんだ……」


 あの女が見せた、何の光の灯っていない、深淵のような黒い瞳で覗き込まれた記憶が脳裏に甦る。


 何が目的なのかも分からず、逃げることもできず。

 ただ蛇に睨まれた蛙のように、捕食されるのをただ待つしかできなかったあのシーンが、何度もフラッシュバックするのだ。


 悠真は耐え切れず、その場で頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 ここに紅莉が居てくれなければ、とうに彼は発狂していたかもしれない。



「大丈夫だよ、悠真君。ソレ、たぶんもう来ないと思うから」

「紅莉……あの女を知っているのか!?」


 悠真が紅莉の方を見上げると、彼女はこくりと頷いた。



「なんなんだ、アイツは? なんだかまるで、口裂け女みたいな奴だったぞ!!」

「――ッ。っぷ、ぷふふふっ」


 通り魔の目撃情報かと思いきや、悠真の口から出てきた『口裂け女』に紅莉は噴き出してしまった。

 笑う場面ではないのだが、笑ってはいけないと思うほど、沸々と笑いがこみ上げてくるのだ。


 その様子を見て、悠真は自分がいかに突拍子もないことを言ったのか気付いて赤面する。



「あぁ、いや。ゴメンね悠真君。そうだよね、まるで都市伝説か怪談みたいだもんね……」

「た、頼むよ紅莉。どういうことなのか、説明してくれ……」


 もういっぱいいっぱいになってしまった悠真は、潤んだ目で懇願する。


 それは、すっかり弱り切った想い人の姿だ。

 紅莉は身悶えしそうな快感に必死で耐えながら、事情について話し始めた。



 ◇


「まず、悠真君が出逢ったのは、生きた人間よ」


 干からびかけていた身体を潤すべく。悠真は自販機で買って来たスポーツドリンクを飲みながら、紅莉の話を聞いていた。だが『生きた人間』という言葉を聞いて、思わずペットボトルから口を離した。



「アレが、人間だって……?」


 あの常軌を逸した存在が人間だなんて、俄かには信じられなかった。

 むしろ、妖怪か何かの類だと言って欲しかった。

 あんな人間が、この世にそう簡単にいられてたまるか。



「いや、人間の方が良いのか?」


 悠真は怒りの声を上げそうになったが、ふと冷静になった。

 二度と出くわすのは御免だったが、いつどこで再び出逢ってしまうか分からない。

 今この公園にだって、また現れてもおかしくはないのだ。



「生きている人間であれば、警察がどうにかしてくれるんじゃないか? そ、そうだ。警察っ」


 こうなれば早く通報しなければ。

 悠真はポケットに入ったままのスマホを取り出した。通報は生まれて初めてだが、今は躊躇なんてしている場合じゃない。


 震える指で一一〇番をタップする。だがそれを、紅莉の手が遮った。



「落ち着いて、悠真君。きっとその人はもう、悠真君の所には来ないよ」

「ど、どうしてそんなことが言い切れるんだよ! アイツの目的が分からない限り、安心なんてできないじゃないか!」


 相変わらず落ち着き払っている紅莉に、悠真は遂に怒鳴り声をあげる。


「あれは犯罪者だろ! 警察呼んで捕まえてもらわなきゃ!」

「うん、でも悠真君。それを警察に、なんて言うつもりなの?」

「――えっ? そ、それは……」


 言われてみて、気が付いた。

 たしかに、被害の証拠がない。女に追い掛けられて、本を寄越せと言われただけだ。


 それだけでも警察は動いてくれるだろう。だが詳しく事情を説明すればするほど、話の信憑性が低くなる。下手すれば、悪戯目的の通報だと思われるかもしれない。



「それよりもね。いま、悠真君にとってとても大事なことがあるの。それをちゃんと説明するから、いったん落ち着いて聞いてくれる?」

「痛っ!? わ、分かったよ……」


 普段は柔らかい物腰の紅莉が、悠真の手をギュッと強く握った。それも、真剣な表情で。


 さっきの女に見つめられた時とはまた違う種類の怖さに、身体がビクッと竦んでしまう。

 今目の前に居るのは、普段から声も小さく、か弱いイメージだった紅莉ではない。


 それに気付いた悠真は、自然と彼女の話を受け入れようとしていた。



「おそらく、その女の人は禍星まがぼしの子と言われる人間よ」

「禍星の子……?」


 聞き慣れないフレーズに悠真は首を傾げる。

 受け入れる態勢になって最初のひと言目から知らない言葉が出てしまったのだから、それも当然だろう。



「うーん、ちょっとオカルト染みた話になるんだけどね。取り敢えず、まぁ。そう呼ばれている人間が居るのよ。ところで悠真君はタロットって知ってる?」


 紅莉はポカン、としてしまった彼を見て「だよねぇ……」と苦笑した。

 襲ってきた女について聞いていたはずなのに、「タロットって知ってる?」と聞かれればそれも当然である。



「ほら、占いとかでもカードで使っている人がいるでしょ? あれだよ、あれ」

「え? あぁ、うん……実物は見たことが無いけど、タロット自体は聞いたことはあるような……あぁ、いや。母さんが昔、それっぽいのを持っていたかもしれない」


 幼い頃に悠真がタンスに入っていたタロットカードを、トランプカードと勘違いして遊ぼうと思ったことがある。それは両親の寝室にあったのだが、どうやら母の大切なものだったらしく、使い方が分からず神経衰弱を始めていた悠真を見て激怒された記憶があった。



「タロットには二一種類の大アルカナと呼ばれるカードがあってね。いろんな人間の物語が描かれているの。それらのカードが意味する宿命を背負った人間が、禍星の子なのよ」


 紅莉はスクールバッグから小さなカードの束を取り出し、一枚を取り出した。



「たとえば、この愚者のカード。まぁ愚者なんて名前がついているけれど、ゼロ番目のコレは、旅の始まり、何かが始まることを意味しているの。だから愚者、というよりも旅人って意味合いの方が近いかな」

「はぁ……」


 紅莉はその他にも塔や法衣を着た人物が描かれたカードを悠真に見せて、簡単に説明していった。

 中には死神や悪魔といったカードもあった。「死」や「誘惑」といった意味だと教えられた時には、他人事ながら「こんな宿命は嫌だな」と思ってしまった。



「つまりはね? これらのカードをに選ばれた禍星の子は、そういったタロットの性質に近い運命を辿るということなの」


 紅莉はここまで説明して、悠真の口が限界まで引き攣っている事に気が付いた。


 まぁそれも仕方のないことだろう。

 見知らぬおかしな女に襲われ、助かったと思ったら友人からオカルトの話をされる。

 とうに理解の限界を迎えていてもおかしくはない。



「うぅ~。これじゃ悠真君に、私までおかしな人間に思われちゃう……」

「あ、いや。そんなことは……」


 思っていないとは言えない。嘘を吐けない悠真は否定も肯定もせず、ただ言葉を濁した。



「だけど、悠真君。これって本当は、キミも知っていてもおかしくない話なんだよ?」

「は? 俺が? どうして……」

「うん。だって――悠真君も禍星の子、だよ?」

「はあ?」


 悠真が辛うじて返答できたのは、そのたった二文字だけだった。



「とにかく、その女は本を探しているって言ったんでしょう? つまりそれは、禍星の子二一人の誰かが持っている六冊の本――通称、悪魔の愛読書を探していたんだと思う」


 つまりはこういうことなのだろう。

 紅莉は本を持っている可能性があるのが、その禍星の子の誰かである、と。

 そして女は本を探すため、禍星の子を次々と襲っている。


 ここでようやく、悠真の頭の中で全てが繋がった。

 繋がったのだが――



「悪魔の愛読書……!? し、知らないぞそんな本。俺は持ってなんかいない!」

「うん、だからソイツも悠真君を見逃したんだろうね。持っていたらその場で殺されていたかも……だけど、ちょっと待ってね」


 紅莉は再びバッグの中をガサゴソと漁り出す。

 そして今度は折り畳みのコンパクトミラーを取り出した。



「……あぁ、やっぱり」

「ん? どうしたんだよ、急に鏡なんて見せてきて」

「分からない? 悠真君……奪われてるよ」

「奪われてるって何をだよ……ッ!? な、なんだこれ」


 最初はどこか怪我でも負わされているのかとも思ったが、別に顔も身体にも違和感はない。

 その代わり、あるモノが無いことに気付いてしまった。



「俺の影が、無い……?」


 辺りは完全に夜の帳が降りているとはいえ、街灯に照らされて光がある。

 光があれば影もあるはずなのに、鏡に映る自分には、影が無かった。



「え? こっちにはある……あれ? どういうことだ?」


 鏡から目を離し、下に目を向ける。

 そこには自分を縁取った影が地面にビタっと広がっていた。

 動いてみても、ちゃんと自分をトレースして移動する。言い方は変だが、元気そうだ。


 もう一度、紅莉が持っている鏡を覗いてみる。――無い。角度を変えてみても、どうやっても映らない。いったい、何故。



「ねぇ、悠真君。もしかしてだけど、その女自身、何か本を持っていなかった?」

「本……」


 そう言われて一度は封印した記憶をどうにか蘇らせる。

 長い黒髪、恐ろしい瞳、肩に掛けたトートバッグ。そして――



「持ってた……黒くて、分厚い古ぼけた……」


 目の前に近寄られたあの時も、アイツは間違いなく何かを持っていた。

 さすがにタイトルまでは見ている余裕はなかった。だけど、立派な装丁がされた辞典のような本を左手に握っていたはずだ。



「やっぱり。それはね、呪術の本なの。人を呪う、邪悪な本。悠真君はそれを使われたんだね……」

「呪術……ってことは、俺って呪われたのか?」

「残念ながら、ね」


 紅莉はベンチで隣りに座ったまま、今度は悠真を落ち着かせるように優しく手を握っている。震える悠真の手を両手で、しっかりと包むように。



「悠真君はこれから一日ずつ、四つのスートの表裏に合わせたものが変化していくと思う」

「スートに合わせた……」

「トランプのハートとかスペードみたいなものよ。元々は杖、剣、金貨、聖杯が元になっているの」


 紅莉はそう言うと、落ちていた枝を拾って地面に文字を書き始めた。


 剣(スペード)……思考、情報

 杖(クラブ)……情熱

 金貨(ダイヤ)……希望

 聖杯(ハート)……感情



「これは影が透けるように無くなるから、『透影』って言われてるの。そして透影になってから八日が経つと……最終的には魂を本の中にある冥界に引き込まれ、そこから永遠に出てこれなくなる」

「ちょ、ちょっと待って? それってつまり……」

「死ぬのと同じね。八日間の間に、精神も肉体も変化していくそうよ」

「そんな……でも、どうして紅莉はそんなことまで詳しいんだ?」


 紅莉は自分が知らないことをペラペラと流暢に説明していた。

 そう、まるで関係者のような――。



「ま、まさか」

「そうよ。私も禍星の子なの。……そして同じく透影の、ね」


 そういって紅莉は鏡を悠真にも見える角度で掲げた。



「紅莉の影も無い……」

「えへへ、悠真君を助けようとしたときに私も捕まっちゃった。……でも大丈夫。私が命に代えても悠真君を絶対に助けるから!」

「紅莉が……?」

「私の方が、これについては詳しいからね。それに――」


 急に紅莉が立ち上がったかと思えば、月明かりの下、自信満々の笑みでこう答えた。



「私も本、持ってるんだ」


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