♠2 河口高校1年A組


 紅莉は学校が嫌いだ。ついでに言えば、馬鹿なクラスメイトたちはもっと嫌いだ。


 市立河口高校、一年A組の教室に、男子生徒たちの賑やかな声が響いている。

 一〇分という僅かな休み時間を利用して、賭けトランプで盛り上がっているのだ。

 そんな彼らを、紅莉は一番後ろの席から冷ややかな目で見つめていた。


 別段、紅莉がこのクラスで虐められているという訳ではない。

 誰かが話し掛けてくれば、その場は楽しく会話できる。

 やろうと思えば明るいキャラを演じることだってできるし、自分は器用な人間だと思っていた。


 ――そう。やろうと思えば、だ。


 もちろん、世間一般で言われる本当に明るい人間というのは、一々そんな風には思ったりはしない。事実、彼女に友達と言える存在が殆どいないのは、そう言った部分に原因がある。そのくせ彼女は『自分はただ平凡を装っているだけの、特別な存在なのだ』と、何の根拠もなくそう思い込んでいるタイプの人間だった。


 ここまで言えばお分かりだろう。

 彼女は相当に拗らせていた。


 もう厨二どころか中学生も卒業しているはずの年齢なのだが、他人との関わりを自ら断ってしまったせいで、中々矯正できずにいた。

 つまり、同級生から見れば、彼女は周囲からズレている存在だった。



 それでも紅莉は、今のこの状況に満足していた。

 ニヤケそうになる気持ちを抑えつつ、机の脇に掛けられたスクールバッグに視線を向けた。


 誰にも言っていない、秘密の青春の一ページがそこに隠されているのだ。

 壁にある掛け時計を見れば、休み時間が終わるまでに、あと数分間の猶予がある。



「にへへへ……」


 結局彼女は頬をだらしなく緩ませ、鞄に手を掛けた。

 普段のおっとりした彼女とは思えない機敏な動作で、鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージ送信アプリを起動する。



『悠真:学校だるいわ~、早く休みにならないかな。会いたい』


 紅莉は歓喜した。

 大好きな悠真君から、メッセージが着ている。

 しかも、会いたいという有難いお言葉つきである。



「私だって会いたいよ。でも……『ちゃんと我慢して』っと」


 今すぐクラス中に自慢して回りたくなる気持ちを抑え、大人しく返信を打つ。

 すると、返事を送信してすぐに再び彼からメッセージが返ってきたではないか。



『悠真:えー……無理』


「返信はっや。ふふっ、悠真ったら……」



 こうしたやり取りをしている悠真というのは、同じ学校の男子生徒だ。

 しかも同じクラスの生徒で、彼は校内で男女問わず人気を集めている高嶺の花的な存在である。


 ふんわりとした癖っ毛の、優しそうな顔。

 彼は紅莉と違い、人当たりも良く、自分から積極的に他人にかかわりに行くタイプだ。当然、モテる。

 それはもう、数カ月に一度は他の学年やクラスの誰かがこっそりと彼に告白し、玉砕しているくらいに。こっそりといっても、その度にクラス中で話題に上がるのでバレバレだ、友達のいない紅莉でも、悠真のモテっぷりについては十分に知っている。


 だからこそ、この悠真との秘密のやりとりは、紅莉に得も言われぬ優越感をもたらしてくれていた。


 興味もない有象無象と同じ空間で過ごすことの、なんて無駄なことか。

 それより休み時間のたった数分間でも、こうしてささやかなやりとりができる方が紅莉にとってよほど有意義だと言えた。



 紅莉がこんな性格になってしまったのは、彼女の家庭環境が一因している。


 彼女は一人っ子で、両親と三人で暮らし。

 母は若く、紅莉と同じく美しい見た目をしている。

 二人並べば、美人姉妹だと持て囃されるだろう。

 父にとって、自慢の妻と娘だった。


 だが、この母親こそが彼女の性格を歪ませた原因であった。

 彼女はいわゆる、ヒステリー気質だったのである。


 母は娘のやることに対して、ことある毎に厳しく叱っていた。

 しかしその躾が誰かに非難されたことは一度もない。

 なぜならそれは、どの家庭でも日常的に言われている「勉強をしなさい」や「親の言うことは聞きなさい」といった類のことだったから。


 しつけの一環と言われればそれまでだし、暴力を振られるといったこともなかった。


 ただ、紅莉の母の悪い点を挙げるとするならば、それは言い方だったのだろう。

 基本的に出てくる言葉は、ただ「やりなさい」という命令口調がメインで、どうして勉強をしなければならないのか、といった「なぜ」「どうして」を娘に説明しなかったことである。


 加えて、言い出しっぺである母本人はそう言った姿勢をほとんど見せなかった。

 彼女自身がそうして育ったことが一つの原因だったのかもしれない。

 ともかく、紅莉に勉強を教えることもしなかったし、努力をして何かを成そうという手本も見せたことがなかった。


 要するに、何も手本にならない大人。ただ口煩いことをキーキー喋る人間。

 そんな部分しか映らなかったのである。


 幼い紅莉はただ「やらなければ叱られる」「だからやらなくては」といった思考を刷り込まれインプリンティングされていく。それが繰り返されていくうちに、彼女の脳は『ただ言われたことをこなしていれば良いのだ』と覚えてしまった。


 その結果、自分から何かを思考する癖がつかず、ただ言われたことをやるだけの機械人間が生まれてしまったのだ。



 こうなってくると、学校においても家庭と同じ生活を繰り返すようになってくる。

 自分からは考えず、行動もしない。ただ教師が言うことを聞き、こなすだけ。


 まぁ、その点のみで言えば、紅莉は優秀な生徒だったのだろう。

 文句も言わず、課題やテストはキチンとこなしていたのだから。


 しかしクラスメイトとの交流は減っていく一方だった。

 自分からは進んで話し掛けもしない。話を作れないのだから、当然である。


 十六歳にもなれば、ある程度人と違っていても許容することを覚える。

 ウザいほどのキャラ、というわけでもない彼女は『クラスで何となく浮いている存在』に留まっていた。



 しかし小学校時代は、そうもいかなかった。


 紅莉は同じクラスの女子から虐められるようになったのだ。

 自分と同じ性質ではないものをより本能的に拒絶する年頃では、紅莉は格好の的だった。


 最初は無視だった。グループを作る授業で、誰も話を聞いてくれなくなった。

 次は教科書の落書き。その次は上履きを隠された。その次は――



 そんな紅莉を救ったのが、今も昔もイケメンである、悠真君だった。



「悠真は私のヒーローだもん。あの時から、ずっと」


 当時から人気者だった悠真の正義のひと声は絶大で、あれだけ紅莉が「やめて」と抗議してもやめなかった悪戯が、ピタリと収まったのだ。


 幼いながらに、紅莉は恋心を抱いた。いや、崇拝と言っても良かったかもしれない。

 それからというもの、紅莉は常に悠真の影を追うようになっていった。



「はぁ、悠真君……」


 色褪せない記憶。

 否、記憶よりも数倍美化された悠真を思い浮かべ、至福の表情を浮かべる紅莉。


 妄想に夢中になっていた彼女は、背後から近寄る人物に全く気が付いていなかった。



「ん、俺のこと呼んだ?」

「ひゃっ!?」


 唐突に声を掛けられ、振り返るとそこには噂の彼がいた。

 彼は教室の外に居たのか、後ろの出入り口から顔だけ出して廊下側の壁際の席に居る紅莉に声を掛けたようだった。



「ちょ、悠真君! 驚かさないでよ!」

「いや、なんか名前を呼ばれた気がしたから……」


 驚かされたことに腹を立てたのか、紅莉はとぼけた顔の彼をキッと睨みつけた。

 だが当の本人は全く気にした様子はない。



「なぁ、明日って朝九時に河口駅の改札前で良いんだよな?」

「うん。っていうか、それはあんまりここでは言って欲しくなかったな……」


 紅莉のそれは、暗に教室では話し掛けないで、という意味だった。

 だが彼には通じていなかったのか、ニコニコとしたまま「あ、そうだった?」と返す。


 そんなマイペースな彼を見て、紅莉は諦めたように「はぁ……」と溜め息を吐いた。


 もちろん、彼女の本心は違う。悠真に話しかけられて、嬉しくないわけがない。邪魔者クラスメイトさえ居なければ、授業そっちのけで悠真とお喋りを続けたいと思っている。



「(他のどの女子でもなく、自分を選んでもらえた。悠真君が、私を……!!)」



 何とも都合の良い解釈だが、これが紅莉の自尊心をこれでもかと満たしていた。



 そもそも、実は悠真には星奈せいなという交際中の彼女が居る。


 紅莉、悠真、星奈は小学生時代からの腐れ縁とも言えるだろう。

 何の因果か、この一年A組には三人とも揃っているほどだ。


 星奈は悠真と同じく人から好かれ、色気がある。

 距離を置かれやすい清楚系の美人である紅莉と違い、星奈は人懐っこいギャル系の美人だ。


 つまり、紅莉の苦手なタイプである。

 一度凄惨なイジメを経験した結果、過剰なほどに自衛癖がついてしまった。

 だから彼女はできるだけ、教室で悠真と接触をしないように気を使っていた。


 だからこそ――



「え? ごめん、何か気に障ること言っちゃったかな……」

「うぅん。私が……いや、ちょっと考え事してただけだよ」


 明日二人で会うことを、教室で言って欲しくなかったのだ。

 お陰で、数人のクラスメイトたちがこっちを見ている。

 幸いにも、話していた内容までは聞こえてはいなかったようだが。



「ねぇ、なんで紅莉と悠真君があんな親しそうなの?」

「星奈ちゃんが可哀想じゃん。悠真の彼女なのに」


 目敏い女子グループが、紅莉たちを見てわざと聞こえるような声量で会話を始めた。そのグループの中には、悠真の彼女である星奈も居る。



「いーの。アタシは別に気にしてないから」

「あは、さすがじゃん。正妻の余裕ってやつ?」

「妻って、アイツとはそんなんじゃないって。ねぇ、それより見てよコレ~」


 悠真が他の女と話している。そんなことにはまるで興味が無いのか、星奈は別の話題を振り始めた。


「星奈のやつ――」

「いいの。面倒事になるから止めて?」

「……ごめん、紅莉」


 別に星奈だって、悠真が自分以外の女子と少し話をしたぐらいでキレたりはしない。

 ただこれは、紅莉を格下に見られているからだ。


 そして、わざと聞こえるような声で話をしたのは、動物が相手に自分の立場を分からせる為のマウント行為なのだろう。調子に乗って他人の雄を奪うなよ、というメッセージ。


 しかしここで焦って謝ってはいけない。下手に事を荒立てれば、むしろイジメに発展するというのが感覚的に紅莉は分かっていた。


 もちろん、紅莉だって内心ではムカついている。

 星奈の悠真に対する無関心な態度は、正直言って有り得ない。

 自分が彼女だったら、いつだって自慢するのに……。



「え、どうしたのこれ。新機種じゃん。あれ? この前スマホ買ったばかりじゃなかった?」

「えへへ~、パパに買ってもらったんだ!」


 そんな紅莉の気持ちは露知らず。

 女子グループの一人が、星奈の持っているスマートフォンに目を付けた。



「ちょっ、パパってまさか……」

「違うよ~、本当のパパ! ねぇ、アプリ入れ直したからグループに誘い直してくれる?」

「オッケー」

「いいなあ、星奈。え、もしかして今付けてる香水も?」

「あ、分かる? パパが夏服の新作と一緒に買ってくれるっていうからさ~」


 すでに紅莉の事なんて忘れてしまったようだ。今度はファッションの話に移っている。

 彼女達の会話に耳をそばだてて聞いていた紅莉は、ホッと胸をなでおろした。


 話題がコロコロ変わるのはいつものことだが、クラスカーストの上位者たちの関心事に一々振り回される下位者にとっては非常にいい迷惑だ。



「……ごめんな、紅莉」

「良いよ、別に。慣れてるから」

「あと……あのさ、今日学校終わった後って予定空いてる?」


 反射的に「空いてる!」と言ってしまいそうになった心を抑え、紅莉は視線を床に落とした。



「ごめんね、放課後は寄る所があるの。……ほら、もうすぐ授業始まるよ。次、世界史の尾山だから」

「あ、やっべぇ! 俺、教科書忘れて隣のクラスに借りに行く途中だったんだわ」


 あぁ、それで独りで廊下に居たのか。

 頑張ってね、と言おうとした時にはもう、悠真は慌てて駆けていくところだった。


 まぁ、大丈夫。きっと彼なら、何の問題も無く借りることができるでしょう。



「う~い、授業始めっぞ。席に座ってないやつはチェックするからな~」


 予鈴が鳴るキッカリ二分前。やたら伸びる指示棒をクルクルと手で回しながら、世界史担当の尾山が教室へと入って来た。

 悠真は無事に借りられたのか、予鈴が鳴る前に教科書を片手に自分の席へと滑り込んだ。



「ふふ。良かったね、悠真君」


 生徒指導係でもある尾山は何かにつけて生徒を叱るタイプの教師だ。

 ただ紅莉の母と同じく、言うことを守りさえすれば害のない大人だったので、彼女はそこまで彼のことが嫌いではなかった。


 とはいえ、スマホを没収されてしまっては困る。紅莉は未だ右手の中に握ったままのスマホをさっさと鞄に仕舞うことにした。



「ん、何か着てる……」


 端末の購入時に最初から入っていた防災アプリから、殺人事件があったことを知らせる通知が来ている。


 既に予鈴は鳴り始めている。

 紅莉はそのニュースを流し読みすると、電源を落として鞄に入れた。



「『連続殺人事件、またも男性が被害に』、ね――あぁ、怖い怖い」

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