透影の紅 ~悪魔が愛した少女と疑惑のアルカナ~

ぽんぽこ@書籍発売中!!

剣の章

♤1 日々子の理由


 恍惚の表情を浮かべた槌金つちがね日々子ひびこは、一糸纏わぬ姿で啓介にまたがっていた。絹のように滑らかな白肌に玉の汗を纏わせながら、今まさに絶頂エクスタシーの瞬間を迎えようとしている。



 キスをする距離でどうにか相手の顔が分かる程度の、薄暗い照明。

 雄の本性をさらけ出すサンダルウッドのアロマと、男女が交わり合う際の独特の匂いが充満する部屋で、日々子は夫である啓介のを貪ろうとしていた。


 決して逃すまいと、柔らかな太腿を彼の下半身にヘビのように巻き付かせ、早く昇天さイカせようと必死で身体を動かしている。



 この夫婦が居るのは、『百色眼鏡カレイドスコープ』という会員制のバーだった。


 酒を提供する関係でバーと名乗ってはいるが、この店のメインは“占い”である。

 そのため、ややおかしな間取りとなっている。フロアの殆どが密閉された個室だと言ってもいいだろう。


 現在の時刻は、火曜日の午後一時を過ぎたあたり。ここの客は大抵、夕方から夜にかけてやって来る。……とは言っても、隣りの部屋では他の占い師が通常通り仕事をしている時間帯だ。



 どうして日々子たち夫婦は白昼堂々と、まるでラブホテルに居るかのような行為ができるのか?


 それはこのバーが入っているビル全体が、啓介の所有物だからである。


 日本古来から続く、占い師の集団。千の未来を見通す百色眼鏡カレイドスコープ会の代表。政治家や企業経営者ですら足繁く通う団体の、最上位に啓介が君臨しているのだ。

 そんな彼だからこそ、ビル実家で妻と過ごすぐらい、誰にも文句は言われないのである。



 身長が一八〇センチを大きく超える体躯では啓介の足はソファーに収まりきらず、膝から下が出ている。


 ソファーの隣りにあるローテーブルの上には、先ほどまで啓介が飲んでいたであろう、ウイスキーのセットが置いてあった。日々子の動きに合わせるように、グラスの中にある琥珀色の泉が波立っていた。


 その隣りには一冊の黒い本があり、己を濡らされまいか不安そうに様子を伺っている。



「ああっ、あっ……あっ……」

「うぐっ……うっ、あっ。ひ、びこ……」

「はやくっ、はやくぅ……」


 日々子の懇願の天に通じたのか、遂にその瞬間がやってきた。

 彼女の体力が尽きるよりも先に、啓介の限界が訪れた。


 彼はくぐもった声を上げ、そこに追い打ちとばかりに日々子が口を重ねる。クチュクチュと舌が絡み合う。そして、啓介の身体が一度だけビクンと跳ね……大きく果てた。



 啓介は性器から大量の精液を吐き出した。


 そして――


 彼の身体はもう、二度と動くことは無かった。



「はぁ、はぁ……は、ははっ。やった、ようやく……」


 呼吸も忘れて夢中になっていた日々子は、少し名残惜しそうに啓介の首から手を放した。


 もっと楽に済ませたかったが、この体格差だけはどうにもならなかった。手が痺れて力が入らない。


 平均よりも軽い体重をこれでもかと掛け、全力で締め上げたのだから、それも当然だ。どれだけ力を籠めれば人は死ぬかなんて、何を調べても分からなかったのだから。



「やっと、私は自由に……!!」


 そもそも、まともな準備を整える余裕なんてなかった。

 日頃から啓介は日々子を縛りたがった。職場であり住居でもあるこのビルに軟禁し、外へは買い物にすら行かせなかった。


 娘は学校にも遊びにも行かせる、良い父親面をしていたのに。どうして私だけ。日々子はこの部屋で、いつもそう思いながら過ごしていた。



 夫の監視の目を盗んで彼女ができたのは、啓介の飲む酒に薬を盛って自由を奪うことぐらいだった。


 あとは短い間で何度もシミュレーションをするぐらい。とはいえ、殺人なんて生まれて初めてだ。人生を掛けた一大イベントだった。失敗すれば、啓介からどんな仕打ちを受けるかも分からない。


 怖かった。だけど、この男の息の根を止めるためならと考えれば、いくらでも耐えられた。そして、これまでの苦労や恐怖はこうして報われることができた。


 たとえようのない達成感が快感の波となって、彼女の脳を何度も痺れさせる。


 既に心臓の止まった夫の腹の上で、日々子は天を仰ぎながら本日二度目の絶頂を迎えた。



 数分間の長いオーガズムを終え、ようやく現実へと帰ってきた。冷静を取り戻した彼女は、未だ自分の下にいる夫だったモノをふと見下ろした。


 首を絞められたことで、啓介の顔は行き場を失くした血液が水風船のように溜まり、赤黒く変色していた。そんな状態でもなお、彼の双眸そうぼうは自身を殺した女を見つめ続けている。



「……なに、その目は」


 その言葉は啓介に対してのものでは無かった。すでに彼女にとって、夫の亡骸は夕飯用のステーキ肉以下の存在に成り下がっていた。


 その代わり、瞳の中の女が気に入らない。女は歯を剥き出しにしてわらっていた。それが何となく日々子は腹立たしかった。つい手が出て、ビンタをしてしまった。


 それでも、女の笑顔は変わらなかった。




 ともかく、日々子は次の行動に移すことに決めた。


「これで、やっとあの人を迎えに行ける。あの子もきっと本当のパパに会いたがっているはずだわ。ふふっ。準備ができたら、ママと一緒に会いに行こうね。ママ、今度は失敗しないように頑張るから……」


 ふわりとソファから降りると、机の上にあった一冊の本を取った。数秒間、その本を愛おしそうに眺めた後、彼女の数少ない私物である兎の刺繍がされたトートバッグの中へ大事そうにしまった。


 そしてそのまま部屋の扉まで歩き、ドアノブに手を掛けたところで立ち止まった。



「あ、いけない。忘れてた」


 日々子は何かを思い出したかのように、部屋の中をくるりと振り返った。


 百キロ近い生肉は、筋肉が弛緩したせいで汚物を垂れ流し、異臭を漂わせ始めていた。日々子は臭いには気にした様子もなく、それにスタスタと歩み寄ると、トートバッグから錆だらけの裁ち切りはさみを取り出した。



「ねぇ貴方。自分は娘に甘かったくせに、私には厳しくは躾けろって。いつでも神様が見てるからって。私に、そう言ってたわよねぇ?」


 満面の笑みを浮かべながら、啓介のだらしなく垂れさがった性器を掴む。



「悪い子には、ちゃあんとお仕置きをしなくっちゃ」


 指で少し上に引き伸ばしてから、彼女は右手に持ったハサミで、ひと思いにバツンと切断した。


 言いつけ通り、きっちりとお仕置きを終えた。日々子は、血が飛び散った顔で満足げに微笑んだ。



「でも……世の中には悪い子はたくさん……」


 日々子は鋏を持ったまま、部屋の外へふらりと歩いていく。



「あぁ、神様……私を見てくれておりますか?……おぉ、はれるや♪」


 それは神を讃える歌だった。決して、死者を悼む歌レクイエムではない。


 ――ハレルヤ。


 彼女は己の神であり、愛する存在のためにその歌を口ずさむ。


 一時間後。

 バーには彼女の歌だけが響いていた。

 



 その日の夕方。ニュース番組では「会員制バー『カレイドスコープ』にて有名占い師を含めた十数人が殺される大量殺人事件が起こった」と報じられた。



『どうして彼女は夫である啓介を殺そうと思ったのか?』


 ワイドショーのコメンテーターや自称専門家たちは後にこの事件について、日々子の犯行の動機をあれこれと推察した。


 夫婦仲のこじれだとか、啓介の浮気、DV。次第に明らかになっていく事実に妄想を織り交ぜながら、好き勝手に論じた。


 実際に家宅捜索をした際には、さまざまな証拠が見つかったし、日々子に同情する者まで現れた。女性に対するハラスメントが問題になる度にこの事件が浮上するほど、この事件は国民にとってショッキングだった。



 だが、もし日々子本人に『なぜ殺したのか』と問うたのであれば、恐らく彼女はこう答えただろう。



 私はただ、愛する人と再会するためにやりました――と。



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