第8話 みんなが持っているモノが、私には無かったから

 自宅が焼け落ちた事件から一年程経った春、真澄と葵は通学路にある市場駅を横切った。


「うーん……やっぱりちょっと緊張するかも。真澄は?」


「そこまでかな。家からあんまり遠くないし」


 どこからか吹いてくるそよ風が心地良い。辺りは田園風景が目を引くが、彼女らのように制服を着た集団が改札を出て外の世界へと繰り出していく。


 そう、市場駅を出たすぐ近くにある小さな高校へと向けて。


「この辺りで記念撮影しましょう。ほら、桜の木の前に立って!」


 人の波を潜り抜けてカメラを構える。年季の入った校門には、小野東高校の名が刻まれていた。


「せっかくだし、二人で並んで撮るのはどうかな?」


「えっ? でも、それじゃあ撮影する人が……」


 真澄はふと辺りを見回す。代わりにカメラを持ってくれるような顔見知りは歩いていなかった。


 どうしたものか。頭を抱えながら人を探していると、上級生らしき女子生徒がこちらに微笑みかけながら歩み寄ってきた。


「ここの写真? だったら、私が代わりに撮ってあげようかあ?」


 高校生でありながら、カラフルなネイルが特徴的な派手な雰囲気の生徒。間延びした喋り方が耳に残ったが、第一印象はそこまで悪い人でも無さそうだった。


「良いんですか?」


「もちろん。私、こういうのは得意だから任せてよお」


 お辞儀をした後、差し伸べられた手にカメラを渡す。桜の花びらが舞い散る快晴の景色が、二人の笑顔とピースに美しい彩を添えていた。


「それじゃあ撮るわよお……はい、チーズっ!」


 軽快なシャッター音が鳴り響く。改めて確認した写真は、葵のぎこちない笑顔を除けばほぼ満点と評しても過言では無い程の出来に見えた。


 次のタイミングを見計らい、しばらく時間を置いてもう何枚か追加で撮影を行う。


「ありがとうございます、助かりました」


「どういたしまして。高校生活満喫してねえ、可愛い新入生ちゃん」


 派手な女子生徒は手を振って後者の方へと向かった。今日は入学式、上級生は授業が無いことを考えると、部活の絡みで来たのだろうか。


「なーんか、変わった人……」


 同じく首を傾げた葵と顔を見合わせつつも、真澄は新入生の集まる体育館へと足を進めた。




「それでは皆さん。一生に一度しか無い貴重な高校生活を、実りあるものにしていきましょう」


 新しく就任した担任の先生の言葉によって、入学式のクラス分けは締めくくられた。


 その後の生徒たちの動きは三者三葉という言葉がよく似合う。わき目もふらずに帰る者、同じクラスで友達を作ろうとする者。そして……


「今日はあれだよね、クラブ探しの日」


「そうね。第一希望はあそこだけど、まずは色んな所を見て回りましょうか」


 再び同じクラスになった葵と一緒に、多くの上級生が待ち構えている各教室を回っていく。


 クラブに入りたい新入生は、今週から行われる仮入部受付期間から入りたい部活を決める。もちろんすぐ入部を決めるのも手だが、多くの生徒は自身に合う部活を探して体験していく。


「良い匂いがするわ……料理部かな?」


 人気の部はすぐに埋まってしまう。男子はサッカー部や卓球部、女子は手芸部や料理部、華道部等に人が集まっているようだった。


「ここだけの話、料理するの苦手なんだよねぇ……」


「葵のそれは食わず嫌いでしょ、食べ物だけに」


 彼女の表情を見つめながら微笑む。でも、真澄も料理部に入る気はあまり起きなかった。


 部員たちが作ったスイーツをみんなで食べている。眩しくて、羨ましくて……目が痛くて、憎たらしくて何もかもを壊したくなってしまう。


「おっ、ここが美術室みたいだね」


 お目当ての場所は校舎の端、階段から離れた場所にあった。廊下には既に部員が描いた作品が展示してあり、入る前から自然と緊張感が高まっていく。


「私たち以外にもいそう……新入生?」


「うん。少なくとも、ぼっちにはならないみたいだよ」


 中からは話し声が聞こえる。女子の比率が高めの部屋に、一人前に立って説明を続ける部長。


 既に賑やかになりつつあった雰囲気にちょっと待ったと言わんばかりに、真澄は深呼吸をしながら古びた戸を開いた。




「あれれ、もしかして見学の人かなあ?」


 だが部屋の中に入った瞬間、見覚えのある人物を目にして二人の足取りが止まった。


「あれ……貴方は?」


「もしかしてさっきの、カメラの先輩さん!?」


 カメラの人と葵が口にした途端、何も知らない部員たちが戸惑いの表情を浮かべる。


 部長として前に立って説明をしていたのは、今朝写真撮影の時に二人を助けてくれた、派手なネイルの女子生徒だった。


「そうだよお。まさかこんな所で会えるなんて、奇遇だねえ」


 好きな席に座って、と案内される。顧問の先生は美術室におらず、今は部長である彼女がこの場を取り仕切っているようだった。


「改めまして自己紹介でえす。私は佐渡満、美術部の部長をやってるわあ。まあ分からないことも多いと思うけど、みんな最初は初心者だから少しずつ覚えていこうねえ」


 不思議な感覚だった。間延びした喋り方と少し奇抜な外見はまるで年上のように見えないのに、いざ前に出て黒板に文章を書いている姿は立派なリーダーのよう。


 新入生含め、その場にいるみんなが彼女に注目していることが何よりの証拠だった。


「活動内容はズバリ、絵を描くこと。まずはみんなデッサンから始めて、そこから水彩画、石膏像の木炭デッサン、油絵と色んなジャンルを学んでいくわあ。それ以降は晴れてフリーなのお」


 具体例を見せてあげる、と満が視線を泳がせる。やがて彼女は、同じ三年生の生徒が作った作品に目を付けた。


「これは鯉をテーマにした水彩画ねえ。こういうのを見ると、何だかワクワクしてくるでしょお?」


 実際の写真をモデルにして描かれた写実性と、鮮やかな色彩が証明の光を一身に受ける。


「す、凄い……!」


「確かに、元々初心者だったとはとても思えないわね」


 真澄も頷きながら静かに話を聞いていたが、特に感嘆の声を漏らしていたのは葵の方だった。


 目を輝かせて、少し身を乗り出しながらまじまじと見つめる。そんな彼女の姿勢が伝わったのか、満も小首を傾げながら表情を緩めた。


「あの……私もあんまり絵は詳しくないんですけど、練習したら上手くなれますか?」


「もちろん。みんな最初は初心者だって言ったでしょお?」


 両手を広げて彼女は微笑む。棚にはぬいぐるみやフルーツのレプリカ等も置いてあり、環境はかなり充実しているように見えた。


「そうだっ、まだ新入生のみんなの自己紹介を聞いてなかったねえ。取り敢えずこれでみんな揃ったことだし、まずは貴方のお名前から教えてくれるう?」


 手を伸ばして指名されたのは、やはり人一倍美術部に興味を持っていた葵だった。


 他の新入生や先輩……そして隣の真澄からの視線を受けながら、彼女は目一杯の輝きを背負って立ち上がる。


「一年の竹田葵です。皆さんよりも絵の経験はありませんが、どうかよろしくお願いします!」


 拍手が巻き起こった。大きく頷く満が次に視線を移したのは、葵の隣に座っている新入生。


「じゃあ次は貴方。簡単で良いから、自己紹介お願いできるう?」


「……はい」


 以前から目指していた美術部。何かが違うという僅かな感覚を振り払いながら、真澄は笑顔で見守る部員たちに頭を下げた。


「一年の斉藤真澄です。同じく初心者ですが、ここで絵の勉強に取り組んでいきたいと考えているので、よろしくお願いします」




 小一時間の短くも長い見学を終え、二人が学校を出たのは日が落ち始めた頃だった。


「美術部、すっごく楽しそうだったなあ……!」


「葵は入部確定ね。活動はそこそこ楽しかったし、次の見学で私も入るか決めようかな」


 けれど、と真澄は言いかけてふと躊躇う。別に時間が厳しいわけでも、部に馴染め無さそうなわけでもないのに、何故か自分の心の奥深くが拒否反応を示している。


 先程からずっと感じていた。言葉にできないこの気持ちの正体は、一体何なのだろう。


「……何か問題でもあったの、真澄?」


 もどかしい感情が顔に現れていたのか、葵がこちらに歩み寄って心配そうな表情をする。


「どこか引っかかるのよね。あの部長、何かを隠してるみたいで」


 奇抜な容姿はこの際どうでも良かった。真澄が気になったのは、笑顔の裏にある薄暗い感情。


 そしてそんな彼女を違和感すら持たずに尊敬する部員たち。満の説明の節々から、うまくでき過ぎているようなストーリー性を感じてしまう。


「気にし過ぎだよ。初めは確かに変わってるなって思ったけど、いざ話してみると優しいし」


 二人は曲がり角に差しかかった。以前ならこの先も一緒だったが、今は真澄の家が違う。


「明日も行ってみよう。何度か見学したら、真澄の考えも変わるかもしれないじゃん」


 それじゃあまたね、と葵が大きく手を振る。真澄はすぐに言葉を返せず、去っていく彼女を見守ることしかできなかった。


「……ええ、また明日」


 自分の気のせいなのだろうか。疑念に対する答えが出ないまま、目を細めて曲がり角に背を向けた。




「ふう、明日も朝から仕事だから早く帰らないとな……」


 一方学校では、課題の点検を終えた一人の男性教師が玄関へと向かっていた。


 生徒たちのそれよりもり少し豪華な靴箱からスニーカーを取り出し、履きながら校舎を出ようとする。しかしその瞬間……


「あいたっ、何だよこれ!?」


 突如鋭い痛みに襲われ、慌てた男性が靴を放り投げる。わけも分からず凝視すると、ちょうど死角となる位置に画鋲が仕込んであることに遅れて気が付いた。


「おい……誰なんだ、こんないたずらしたの!?」


「今よ。なるべく顔は出さずに、数枚撮って」


 怒りながら画鋲を剝がし、犯人を探す男性は靴下を履いたまま廊下を歩き回る。


 そんな醜態を待っていたとばかりに、壁に隠れながら大きなカメラを構えていた数名の女子生徒が慣れた手つきで撮影を行った。


「こんな感じですが……どうしましょう?」


「良い感じね。早く撤収しましょう、誰か人が来ないうちに」


 人目に付く前に、生徒たちは上の階に素早く移動した。メモ帳を見ながら、先輩らしき人物の指示で床にワックスが撒かれる。


「ふぅ、すっかり遅くなっちまった」


 罠が張られているとは気付かずに、野球部の生徒が一人で廊下を歩いている。この先には更衣室があり、校舎中央の階段を通ることは女子たちの想定内だった。


 踊り場を通って階段を上り切ろうとした彼は、ワックスに足を取られて大きく転んでしまう。


「おっ……うっ、うわぁぁっ!?」


 寸前で受け身を取ったことで最悪の事態は免れたが、床に叩きつけられた生徒は痛みでしばらく立ち上がれない。


「くうっ、痛った……!」


「早く撮りなさい。あいつが気付かないうちに、上のアングルから」


 隙を見てシャッターを押した女子たちは、倒れた生徒の視線に入らないうちにその場を走り去った。


 痛みに悶える顔ははっきりと映っている。カメラを抱えて彼女らが逃げ込んだのは、見学が終わったはずの美術室だった。


「失礼します、部長……」


 依然として照明が点いていた部屋の中には、先程と同じく一人の生徒が佇んでいる。




 微笑みながらカメラを受け取ったのは、新入生を送り届けたはずの満だった。


「おかえりなさあい。指示通り、写真はバッチリ撮ってきたかなあ?」


 先生が痛がり、野球部員が転げ落ちる写真。どちらも彼女自身が発案し、そして部員たちに指示したものだった。


 今までお疲れ様と言わんばかりに、満は一人ずつ肩をポンポンと叩く。


「映りも悪くないねえ、成長してるって感じ。目撃者はいないよね?」


「問題ありません。仮に見つかっても私たちが責任を負います」


 机の裏からお気に入りのアルバムを取り出した。学校でいたずらの標的にされた、満にとってこれ以上は無い最高の絵のモデルたち。


「ありがとう。野球部の奴らは日頃からうるさかったからねえ、良い鬱憤晴らしになったよお」


 そんな彼女の夢は、人の泣き叫ぶ顔をテーマにして自身の個展を開くこと。


 そのために邪魔な先輩はすべて排除し、後輩の弱みを握って支配した。時間こそ大いにかかってしまったが、満の計画には向かう人間はもう誰もいない。


「すみません。私たちはいつまで、この写真撮影を……」


「私が満足するまでに決まってるでしょ、何か文句でもあるのお?」


 不満の言葉を漏らしかける部員たちを視線一つで黙らせる。カメラからカードを取り出し、満は再び気の抜けた表情で椅子に腰かけた。


「あとは新入生を従わせるだけねえ。葵ちゃんは中々見込みがありそうだったけど……」


 夢を叶えるには、まだまだ生徒や先生たちの苦悶に歪んだ表情を集めないといけない。


 果てしなく長い道に心を躍らせながら、彼女は今日の見学で入ってきた新入生たちの顔を一人一人思い浮かべていた。


「問題はあの子ねえ、真澄ちゃん」




 真澄の叔父……弘毅が住む一軒家は、幼い頃の記憶よりも少し荒れ果てた状態で建っていた。


「……まったく、どうせ暇なら掃除くらいすれば良いのに」


 錆びたガレージを潜り抜け、僅かに生えた雑草を踏みしめた先に扉はある。


 叔母の家が小野東高校から離れてなければ、恐らく向こうに滞在していたことだろう。外れくじを引いたような気分になりながら、真澄は合鍵で家の中に入った。


「ただいま。叔父さんいる?」


 電気は消えて薄暗かった。誰もいないのかと思ったら、階段の上から背丈の高いやせ細った男性がのそのそと降りてきた。


「おう、真澄か……さっきパチンコから帰ってきたところや」


 叔父の河村弘毅は一瞬こちらに視線を向けた後、ぼうっとした顔でキッチンの方に向かった。


 髭や白髪は荒れ放題で、服も至る所が破れている。それなのにおしぼりを持って冷蔵庫やテーブルに触れるその姿は、彼女の目にもいささか奇妙に映る。


「ねえ。この書類に印鑑を押して欲しいんだけど」


「ハンコなら机の上に置いてるやろ。わざわざ言わんくても、押すなら勝手にやっとけ」


 既に半ば慣れてしまったが、突き放すような言い方に真澄はほんの少し眉を寄せた。


 リビングで向かいに座っても、弘毅は無関心な表情を続けていた。いや……どちらかと言えば、自分の中の世界に入ってしまっている。


「いやあ……今日は衝撃的なもん見つけたわ。最近有名なインフルエンサーのパジャマ寝間着って奴おるやろ? あいつが今後の日本の未来について解説する動画を出しててん。あと数年で首都直下型地震が起きて、都市機能を失った東京から多くの人間が地方に移り住むらしいわ。でもそれもきっと長続きせんで、アジア諸国から色んな人間が日本の経済を乗っ取るために移住してきて、この国はゆっくりと滅んでいくねんて。怖いやろ? でもパジャマの話やとな、首都直下型地震はここ数年で発生する確率が倍に増えたらしいわ。遠い未来の話ちゃうかもな、ホンマに」


「……そう」


 こちらが話を振っても何も答えないくせに、水をほんの少し喉に流し込むと、彼は突然スイッチが入ってしまったように話し始める。


「ヘイシリ、地球はあと何年で滅亡すると思う?」


「……ノーコメントです」


「聞いたか今の!? いつもは分かりませんって答えんのに、ノーコメントですって返ってきたで! こいつ多分地球がいつ滅ぶんかホンマは知ってるんやろうな。それともあれか、こいつが将来的に地球を滅ぼす黒幕って可能性もあるやろな。なあ、真澄はどう思う? 地球はやっぱりシリが滅亡させるんやろか?」


 尚子がまだ生きていた頃は、見境なく叫び回る弘毅のストッパーに辛うじてなっていた。


 だが彼女がいなくなった今、彼を止める者も相手をする者もいない。意味不明な言葉を並び立てる叔父は、本当の意味で一人ぼっちになっていく。


「……」


「おい、ちゃんと聞いてんのか。他の奴らはともかくなあ、俺の質問には十秒以内に真摯に答えろ」


 鋭い声に浮き上がりかけていた意識が呼び戻される。気付けば弘毅は獣のような視線を向け、足元のテーブルを蹴り飛ばしていた。


「……それはさ、その時にならないと分からないんじゃないかな?」


 我慢の限界が来たように真澄は立ち上がり、二階の自室に向かっていく。こんなことなら留守にしていれば良かったのに、いて欲しくない時に限って彼はいつも家にいる。


「今日は部活で疲れたから、ちょっと休ませて……」


「待てや、まだ話は終わってへんぞ?」


 どうしていつもこうなるのだろう。自分の居場所を手に入れたと思えば、次から次へと新しい壁が目の前に立ちはだかっていく。


「もう良いよ。叔父さんの言いたいことは、もう分かったから」


 背中に浴びせられる声には耳を傾けず、戸を閉めると煩わしい騒音も幾分か静かになった。




 しばらく待って気持ちを落ち着けると、真澄は何もする気が起きずその場に座り込んでしまう。


「はあ、どうしてこうなるのよ……?」


 叔母の美咲ができる限りの支援をしてくれているので、生活という面で困ることは何も無かった。


 でも精神的な面は違う。高校に行けば漠然と自分を救ってくれる人が現れると思っていたのに、結局は周りにいる人がほんの少し入れ替わったのみだった。


「真澄はええ子やな。将来はアイドルとかになれるんと違うか?」


 十年前の弘毅は今よりもずっと優しかった……いいや。もしかすると気付いていなかっただけかもしれないが、真澄の夢を前のめりに受け止めてくれる、大切な家族の一員だった。


「アイドル……?」


「ああ。それだけじゃなしに……女優やモデルやったりとか、真澄には色んな可能性があると思うで」


 彼の家に行くのは半年に一回程。変わらない日常に心地良い風が差し込んでいくようで、あの人と会うことは本当に楽しみだった。


「真澄のやりたいことは真澄自身が決めえ。大人がどれだけアドバイスしても、最後に大事な決断をするんは本人やからな」


 頭の中の明るく楽しい映像が徐々に解けていく。今はすっかり冷めてしまって、覚めてしまった。


「こんなのじゃダメだって、分かってるはずなのになあ……」


 この迷路を抜け出すきっかけはどこにあるのだろう。やりたかった課題も片付けも全て宙に投げ出し、真澄は考えることを止めてベッドの上で足を崩した。


 あの日拾った鉈は今も鞄に眠っている。いつか使われるその時を、物言わず静かに待ち続けて。




 その数日後。真澄の考えていたきっかけは、思わぬ形で彼女の前に現れることとなった。


「はあ、体育込みの六限はちょっとしんどいかも……」


「そうね。明日は金曜だからまだ気が楽だけど」


 今日は美術部の活動も無い。歩み寄ってきた葵の言葉を片手間にいなしながら、真澄は教科書類を素早く片付けた。


 早めに帰って休むのが良いだろうか。そう思って水筒を取り出そうとした彼女の動きがふと止まる。


「……ん?」


 鞄を何度か探る。違和感が気のせいでは無いことを悟ると、真澄は不安そうな表情で立ち上がった。


「どうしたの?」


「ごめん葵。用事があるの思い出したから、今日は先に帰っててくれない?」


 首を傾げながら去り行く彼女に素早く手を振ると、もう一度鞄と机の中の物を探り始めた。


 細い糸の先、いつも付けていたはずの花のキーホルダーが無くなっている。昨日からの記憶を探るが、大事な所がぼやけていてどこで落としたのか見当もつかない。


「無くなってる……どうしよう、ママから貰った大切な物なのに」


 恐らく教室には無い。そう悟った彼女は、談笑する同級生たちを追い越して廊下を探し回った。


「もしかして、盗られちゃったの……?」


 どこで落とした、どこで自分は失くしてしまった。校舎の隅から隅まで探し回ったが、キーホルダーはどこにも見つからなかった。


「早く、早く見つけなくちゃ」


 焦りが徐々に大きくなっていく。もしどこか学校の外で落としてしまったとなれば、自分一人の力で見つけるのも難しくなってしまう。


 まだ見落としている所があると信じ、真澄は意を決して職員室の扉を叩いた。


「すみません、青い花のキーホルダーを落としたみたいなんですけど、届けられていませんか?」


 昨日か今日辺りに、と真澄は付け加えたが、先生たちの反応はあまり芳しくなかった。


「キーホルダーか。いや、届いてないかなあ……」


「……そう、ですか」


 もう見つからないのだろうか。ごめんねという言葉と共に職員室の扉が締められると、真澄は途端に涙が流れそうになってしまった。


 半ば諦めて玄関へと向かい、道中で一人の同級生とすれ違う。そんな時だった。




「廊下で拾ったけど、これか? 落としたキーホルダーって」


 すれ違った男子生徒がキーホルダーを見せてきた。鮮やかな青い花が特徴的な、繋がった細い糸が切れてしまったそれは……


「あっ、それ! 廊下に落ちてたの?」


 もう無理だと思っていた。彼は軽く頷いて、夕陽に照らされたキーホルダーを真澄に手渡す。


「ありがとう! これ、とっても大切な物だったの」


 顔をまじまじと見つめると、彼が同じクラスの同級生であることにようやく気付いた。


 少年のようなぶっきらぼうさと、ぎこちない笑顔の中に隠された優しさが垣間見える。面と向かって話すのは恥じらいがあるのか、視線は合っているように見えて僅かに逸れていた。


「そうやったんか……それなら良かったわ」


 可愛らしくも、どこか凛々しい。まだ自分の心に湧き上がる感情がはっきりと分からず、真澄は受け取ったキーホルダーを握りしめた。




みんなが一足先に帰って人通りの無くなった通学路を、真澄はその男子生徒と一緒に歩いていた。


「私は色々迷ったけど、一応美術部に入ろうかなって思ってて。貴方は部活とか興味ある?」


 二人の足取りは意外にも合っていた。いいや、彼がわざと合わせてくれていたのかもしれない。


 いつもは葵と歩く帰り道。既に見慣れているはずなのに、まるで違う場所にいるかのような新鮮さと僅かな緊張感があった。


「俺は特に無いかもなあ。テニスとかサッカーとか色々見学したけど、そもそもお袋が病気して……いや、こっちの事情であんまり余裕無くてさあ」


「なるほど、そういう理由もあるのね」


 家が徐々に近付いてくる。聞くならきっと今だと思い、真澄はすうっと息を吸い込んだ。


「あの……私の名前は真澄、斉藤真澄っていうの。貴方の名前は?」


 二人きりでいられる時間はもうあまり残されていない。そう悟った彼女は、少し背丈の高い彼の顔を見上げて聞いた。


「俺は赤石純。色んなあだ名で呼ばれてるけど、まあ適当に赤石か純って呼んでくれよ」


 綺麗な名前だった。頭の中で何度も反芻させると、自然と彼の姿と声が重なっていく。


 よろしく、と改めてもう一度手を繋いだ。一回り大きくてがっしりした純の手は、ほんの少し冷えていた彼女のそれを包んで優しく暖めてくれる。


「じゃあな。くれぐれも落とし物には気を付けろよ、真澄さん!」


 分かれ道が貴重な時間の終わりを告げる。でも、彼とはまた何度も会えるような気がした。


「ええ、心に留めておくわ。今日は本当にありがとね、純君!」


 その後ろ姿に声がちゃんと届いたかは分からない。いいや、きっと彼は笑ってくれているだろう。


 まだ暖かさの残る手と心を大切なお土産にして、真澄は小さくスキップをしながら自宅への最後の道を歩き出した。




「ただいま」


 家に戻ると、昨日とは異なりリビングに叔父の姿は無かった。恐らくパチンコで出かけているのだろう。いつものことなのであまり驚きも無い。


「ああ……あの人、何だかカッコ良かったな」


 踏みしめる度に鈍い音が鳴る階段を通り過ぎて、真澄は自室に入ってカバンを下ろした。


純に拾ってもらった花のキーホルダーに視線を移す。青く輝くこの花は、中学校に上がる際に母の藍奈からプレゼントとして貰った物だ。


「マーガレットは恋の花。花言葉は真実の愛、理想の関係……」


 彼女から告げられた言葉を思い返す。自分を救ってくれる運命の人を見つけることができれば、自分もこのマーガレットの花のように輝けるはず。


「赤石純……君。あの子がもしかしたら、私にとっての王子様になってくれるのかな?」


 牢獄のように囚われていた心がようやく解き放たれた気がした。真澄は小さな自室に籠り、彼がかけてくれた言葉を一つ一つ思い出していく。


 部屋着に着替えた彼女は、枕を強く抱きしめながらあれこれと考え込んでしまった。


「お願い……純君。ここから私を連れ出して、二人きりのお城を造って?」


 これからどんな日々が待っているのだろう。時間を忘れて彼との日常を想像することが、今はちっとも飽きなかった。




 続く

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