第7話 運命の人を手に入れたかった

 家の主がつい先程死に至ったマンションの一室は、いつにも増して魂が抜けたようだった。


「……案外、呆気無かったな」


 食べかけだったクッキーを頬張る。一休憩を終えたらすぐに通報して、目撃者を装って周りの人に尚子の死を伝えなければならない。


 でも何だろう。言葉には表せないが、真澄は何かやり残したことがあるような気がしていた。


「ん、あれは……?」


 しかしそんな感覚に追われて部屋を物色する中、真澄は気になる物を発見してしまった。


 押し入れの一部が開け放たれている。以前はさほど気にしていなかったが、薬箱の奥に異様な雰囲気を放つ目立つ細長い箱が隠されていた。


「これ、以前もあったっけ?」


 掛け軸や巻物が入っていそうな、それなりに年季が入った箱。持ち上げた瞬間にずっしりと感じる重みも含めて、開けて中を一目見ないわけにはいかなかった。


「……えっ、これって」


 中にある物を取り出したのは半ば好奇心だった。でも、手を取るとその異様さに視界が揺らぐ。


 入っていたのは巨大な腰鉈。片手では持てない程重く、その真っ直ぐな刃は人の身体さえ両断できることを暗に指示していた。


「何だろう、すっごく綺麗……」


 祖父がこのような刃物をかつて作っていたと聞いているが、彼が入院して誰からの面会も拒否している今、この鉈の出自を知る術は恐らく残されていない。


 でも、そんなことはもうどうでも良い。廃墟のような部屋で青白い光を放つ鈍い刃物は、暗く閉ざされた真澄の心に炎を灯すのに十分な輝きを持っていた。


「これがあれば……私の大嫌いな奴ら、みんな消せるのかな?」


 誘われているような気がした。自分は今、この鉈と共に何もかもを壊す未来へと。


 引き留める人は誰もいない。後戻りができなくなる境界線の先へと、真澄は何の躊躇も無く歩みを進めていく。


「うふふっ、これからよろしくね……」


 鞄にギリギリ隠せることが分かると、行きよりも格段に重くなったそれをぐっと背負った。


「……ああそうだ、すっかり忘れてたわ」


 思い出したかのように携帯を取り出す。ふと見上げて何かを考えこんだ後、真澄は一一九の文字をゆっくりと入力して電話をかけた。




 階段から転げ落ちたことによる不慮の事故として処理された尚子の死から一週間後、町の小さな斎場で葬儀が行われることとなった。


「今までありがとう……母さん」


 険しい表情で遺体を眺める親戚たち。決して他人事のようには思っていないけれど、彼らの額からは涙が流れていないと遠くからでも分かった。


 それも当たり前かもしれない。みんな、彼女から暴力や罵詈雑言を受けて生きてきたのだから。


「私がもっと早く行ってたら、こんなことにはならなかったのかな……」


「大丈夫、真澄は悪くない。これは誰のせいでも無いから」


 美咲が振り返り、真澄の肩を静かに叩く。それはこちらを励ましているようにも、尚子を止められなかった自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「それじゃあみんな、母さんにお別れの言葉を伝えよう」


 すぐにここから立ち去りたい。重苦しくもどこか腹に据えかねた物のある親戚たちの表情は、まともに直視できない程歪んでしまっているように見えた。


「……早く、終わって欲しいな」


 みんなが離れるとふと真澄は呟いた。彼女の死を悼む気が無いのなら、いっそのこと式なんて執り行わなければ良かったのに。


 棺桶は霊柩車に運ばれていく。もう永遠に目覚めることの無い、暗く狭い世界へと。




二年生に進級した後の学校生活は、良くも悪くも波の無い退屈な毎日だった。


「……では皆さん、次回の授業はテスト前ですので、自習とワークの点検を行います」


 言われなくても分かっているのに、生真面目な若い国語の先生は念を押して教室を去る。


 頬杖を突く真澄のノートには、太陽に照らされて子供たちが遊んでいる校庭と、物言わず静かに影が差す校舎が明暗のように描かれていた。


「ねえねえ真澄ちゃん、何描いてるの?」


 そんな彼女に話しかけてきたのは友達……ではなく、去年重田と共に真澄のいじめに加担したはずの女子たち。


「学校の絵……落書きだけど、今日はそこそこうまくできたかな」


「すごーい、美術部みたい!」


 例の事件後、重田がまるで人が変わったかのように塞ぎ込んだ時、取り巻きの彼女らは顔色を変えて真澄に頭を下げた。


 前からあの子は気に食わなかった、でも私は真澄のことを信じていた。後付けのお飾りのような言葉を並べ立てるのが、自分の意見も芯も持たない子たちの限界だったのだろう。


「うーん。そうね、高校に上がったら入ってみようかな?」


時計の針は無情にも進んでいく。何だろう、手に入れたいと考えていた世界とは違う気がする。


 気持ちが込められていない。お世辞を言われても、歩み寄られて手を握られても、内心が透けて見える態度は心にまるで響かなかった。


「そうだ! 今日みんなで神戸に行こうと思ってるんだけど、一緒にどう?」


「金曜は五時間までだし、そんな遅くまではぶらつかないんだけど……」


 真澄は天を仰いで考えた。彼女らと一緒に行くビジョンでは無く、きっぱり断るための口実を。


「今日は用事があるのよね。ちょっと家のことで」


 心の中で舐められているとは気付かず、女子たちはみんな頷きながら仕方ないよねと呟く。


 ふと振り向くと、葵がこちらに視線を向けている。言葉にはしなかったが、何だか彼女に呼ばれているような感覚がした。


「ごめんね、また次に行く機会があったら」


「気にしてないから大丈夫よ……それじゃあ、また来週」


 次の機会なんてあるはずが無い。ほんの気持ち程度に手を振って、葵と合流した真澄はぴしゃりと教室の戸を閉めた。




「本当、勝手な人たちだよね……」


 しばらく歩いて学校から離れ、周りに歩いていた生徒たちがいなくなったのを見計らって、葵は信号待ちの時に口を開いた。


「何が?」


「さっきの女子だよ。以前真澄のことからかってたのに、都合が悪くなったらすり寄ってくるなんて」


 勝手なのは葵も同じじゃないの、と真澄はつい口を滑らせかけてしまった。


 未だに彼女が何を考えているのか全く分からない。幼さの残った子供のような見た目も、声も、たまに見せる笑顔さえ無邪気で変わらないから、だからこそ不気味に感じる。


「まあ……悪さしないなら正直どうでも良いけど、また重田みたいなのが現れたら困るわね」


 信号が切り替わった。今までせわしなく動いていた車たちが静止して、歩幅を合わせて歩く二人に道を譲ってゆく。


「でも大丈夫。次こそはちゃんと私が守るからさ」


「……本当に、誰よりもすぐ来てくれるの?」


「ほんとだよー!」


 言葉の裏を探る暇は無かった。足を止めて考えていると、何も考えずに進む葵に置いて行かれる。


 大事な所で、彼女はいつも嘘をつくような気がしてならなかった。いつも自分より鈍くて、誰かが一緒じゃないとまともに生活することさえできないくせに。


「そうだ! やること無くて暇だしさ、今からあの公園行かない?」


「公園って……あの山田の里のこと?」


 忘れもしない、真澄が隠していた秘密を葵に打ち明けた思い出の公園。まだ日も暮れておらず、二人でゆっくり時間を過ごすにはちょうど良い気がした。


「うーん……ごめんなさい。今日は親から外に出るなって言われてて」


 だが何かを思い出したかのように、一旦は悪くないと思っていた真澄の表情が途端に曇り始める。


「……あれ、真澄のお母さんってそんな厳しかったっけ?」


「うーん。厳しかったのは割と以前からなんだけど、今はちょっと違う感じでね」


 家が近付いてきた。遅くもどこか軽やかだった真澄の足取りは、最後の小さな交差点を境に徐々に重くなってゆく。


「去年ばぁばが死んでから、ママも変わっちゃったのよ」


 今は別の意味で、家に帰って家族と一緒に過ごすのが億劫になっていた。




「ただいま……」


 気が沈むような思いを抱えたまま、真澄はリビングで母の帰りを待っていた。


 彼女がおかしくなったのは今に始まったことでは無い。でも尚子の死は、明らかに歪んでいた彼女の心を根元からへし折るのに十分だった。


「ばぁばがいなくなっても変わらないな……本当」


 学校にいても楽しくない、家で大好きな海老カツを食べても嬉しくない。まるで心が凍り付いているようにも感じてしまう。


「あっ、おかえりなさい」


 結局、ただ退屈な時間を何もせずに過ごして陽が落ちてしまった。


 家のドアが開く。もう返答は分かっていながらも、彼女が正気に戻っている一筋の可能性を信じて真澄は母のもとへと向かった。


「ただいま。私がいない間、ちゃんと良い子にしてた?」


 目いっぱいの笑顔で頭を撫でられる。ああ、やっぱりこの人は変わっていない。


「仕事の間ね、私本当にずうっと真澄のことを心配してたの。真澄が何か悪いことしてるんじゃないか、お外をぶらぶら出歩いてるんじゃないかって。別に真澄が悪い子だなんてお母さんそんなこと全然思ってないんだけど、寧ろだからこそ悪い子に絡まれてないかなって怖くなっただけ。真澄からしたら私中学生だしもう子供じゃないもんって思うかもしれないけど、ちょっと目を離したらそれこそ家出とかしちゃうんじゃないかってね。ね、どうして目を逸らそうとするのかな、お母さんの顔ちゃんと見て? 無視してキライキライしちゃったらお母さん泣いちゃうよ? そういうの気にするお年頃っていうのは分かるんだけどさ、もう真澄に捨てられちゃったらお母さん誰もいなくて寂しくてどうしようもなくなっちゃうから、せめて一秒だけでも良いからこっち見て大好きって言ってくれないかな……ほら?」


 夫を、そして母を喪ってしまった藍奈は、藁にも縋る思いで自分の傍にいてくれる真澄を求めていた。


 用事でも伝えておかずに家を出ると見捨てられたと泣き喚き、成績も食べるご飯も夢さえも勝手に決められる。そんな毎日がずっと続いている。


「大丈夫……今日はどこにも行ってないから」


 真澄がしばらく間を置いて言った……言わされた直後、藍奈の表情が途端にお菓子を貰った子供のように輝いた。


「ああ、本当に良かった! お腹空いてるでしょ、すぐに晩御飯を用意するから待っててね」


 ふらふらと歩く彼女の姿は以前とあまり変わらないが、その足取りは真澄が嫌いだったあの人に似てきているような気がしてしまった、


 支えとなる者を何もかも失って、崩壊する寸前まで落ちぶれてしまった尚子と重なる。


「違う、違う……私は、こんな風に愛されたいわけじゃなかったのに」


 学校のみんなに慕われて、家族にもちゃんと愛される。かつて自分が夢見たことのはずなのに、頭の中の世界と今目にする現実は言葉を失ってしまう程にかけ離れていた。


「どうしてみんな分かってくれないの、正しく愛してくれないの?」


 藍奈が乱雑に投げていった靴を丁寧に直しながら、真澄は泣きそうになるのをぐっと堪えた。




 人として何かが外れてしまった彼女の暴走は、暖かい食卓を囲んでからもまだ続いた。


「うん、やっぱり二人で食べるご飯は格別……職場で食べる時とは全然違うね」


 並べられた言葉だけは明るいが、目が全く笑っていない。どこか感情が抜けた人形が決められた台詞を喋っているようで、空気は相変わらず重苦しかった。


 縋るようにテレビに視線を向けると、幼くしてクイズ大会に優勝した天才中学生が映っている。


「凄いですね。強さの秘訣は何かありますか?」


「うーん……最近は青チャートを解いてますかね、暇な時間に」


 歓声が湧き上がる。過剰なリアクションを取る芸と人、わざとらしく驚くインテリ系俳優。目が焼けるような騒がしさを浴びていると、隣でテーブルを叩く音が聞こえてきた。


「何よこれ……何なのよこれはぁ!? 私の真澄の方がもっともっとできるのにさ、どうしてこんな根暗なブス野郎がこんな注目されなきゃいけないのよ!」


 まずい所を突いてしまった。真澄は誤魔化すようにチャンネルを変えようとしたが、彼女の怒りは留まることを知らなかった。


 取り分けていた皿が投げられ、乗せられていたおかずと共に破片がカーペットに散らばる。


「真澄も悔しいと思わない? 本当は勉強もスポーツも音楽も何だってできて、こんな奴よりもずっと可愛い。それこそ私の自慢の娘なのにさあ、腹が立って仕方が無いでしょう?」


「……」


 もちろん良い心地では無かった。でも悔しいと返すと母を余計に刺激させてしまうような気がして、答えを出せずにスプーンを置いて黙り込むことしかできなかった。


「早く答えなさいよ……悔しいんでしょう、やり返したいんでしょうだったらそうすぐに言いなさいよ言葉にしないと分からないでしょ!?」


 零れたシミは徐々に床に広がっていく。抑えようとしても止められない感情のように、取り返しのつかない所まで進み続ける。


 ゆっくり手を止めて藍奈の表情を覗き込むと、彼女は涙交じりにこちらを睨みつけていた。


「私は朝から晩まで必死に働いてるのよ? 他でも無い、貴方だけのためにね」


「……そう」


 私のため。もしそうだとしたら、どうして自分の心はここまで傷付き追い詰められているのだろう。


 言葉だけの貴方のためはもう聞き飽きてしまった。情や絆を唱える人程、都合が悪くなれば簡単に誰かを蹴落として逃げようとする。


「それっぽっちじゃ全然足りない……愛が足りないのよ」


「うん、何か言った?」


 突き放すような藍奈の言葉でまた一つ、鈍い音を立てて心に大きな亀裂が生まれたような気がした。


「何でも無い。ごちそうさま、とっても美味しかったよ」


 今日はうまく躱せただろうか。いや、そもそも自分はどうして大事なことを誤魔化したのか。真澄にはもう何も分からなくなってしまった。




 それから母と二言ぐらいやり取りをしたような気がするが、頭の中の映像が飛び飛びになって正直あまり覚えていない。


「私、今まで何やってたんだっけ?」


 夜の自室でようやく一人の時間が過ごせると思うと、放置した宿題も明日の用意も忘れて不意に力が抜けてしまった。


小学生のあの時と何も変わらない水玉模様の布団に入ると、何故か昔の自分が蘇ってくる。


「もっと、キラキラ輝きたい。このままじゃダメなんだよ……」


 あの時と同じ言葉を呟くと、不意に瞼が熱くなってしまった。このままじゃダメだと分かっていたはずなのに、状況は良くなるどころか悪くなるばかりだった。


「真澄はそのままでも良いと思うけどな。変わらなくちゃって思うより、自分を信じて進むのも」


「私やパパはちゃんと見てるよ。真澄が頑張っている時も、困っている時もね」


 自分を勇気づけてくれた両親はすっかり変わってしまった。そして、自分だってあの時には戻れない。


 滑り台やブランコで遊んでも何も楽しくない。何か思い悩む度に心がズキズキと痛くなる。理想と現実がどんどんかけ離れていくようで、置いて行かれているようで……


「誰か私を助けてよ。救い出して、連れ出して、私のためだけに綺麗なお城を造ってよ……」


 時間だけが無情に進んでいく。思い描いていた理想の世界は、やがて霧となって消えてしまう。


「私、お姫様なのにぃ……!」


 手足をわなわなと震わせ、全身を縮こませて、真澄はどこまでも果てしなく感じる暗闇の中でぎゅっと目を閉じた。




「それじゃあ、ちゃんと家でお留守番できるかな?」


 その翌日、藍奈は街まで買い物に行くためにしばらく家を空けることになった。


 昨日のことなんて何事も無かったかのような快い笑顔。だが真澄が油断していると、彼女はふと玄関の前で念を押してくる。


「いつ帰ってくるの、お昼は……」


「私がいなくてもお利口さんできるよね、真澄なら?」


 ただ静かに頷くことしかできなかった。軽くなったはずの心が、ほんの少し冷えて抉られる。


「……うん、分かった」


「良い子ね。ちょっと時間はかかるかもだけど、宿題でもしてゆっくりね」


 せめて休日くらいは外で誰かと過ごす時間が欲しい。買い物袋を持って外に飛び出す母を、真澄は呼び止めることができなかった。


 俯きながらも、どうすることもできずドアに背を向ける。どうせ家には誰もいないのに。


「こうしてる間も、みんなは休日を満喫してるんだろうな」


 時間をドブに捨てているような感覚だった。テレビを付けたって、退屈そうに冷蔵庫を開いたって得られる物なんて何も無い。


「……あれ?」


 嫉妬心と悔しさが入り混じっていると、机の上に置いてあった携帯電話が鳴り響いた。


 母か、もしくは以前のように美咲か。険しい表情で端末を開くと、いつもはメールでやり取りをするはずの葵が珍しく電話をかけてきていた。


「もしもし、真澄? ごめんね、いきなり電話かけたりしちゃって」


「別に良いけど……どうしたの?」


 もしこの場に母がいたら、電話の相手や話の内容までしつこく聞かれたかもしれない。そう考えると、偶然にしてはちょうど良いタイミングだった。


 隣のソファーに腰を落ち着け、一杯水を飲んで深呼吸をする。


「大したことじゃないんだけど、気晴らしに外出したくなっちゃって。ほら、昨日行けなかったでしょ?」


 山田の里公園。その言葉が頭をよぎった時、真澄は半ば反射的に窓の外を見つめた。


「うーん……まあ、今なら出てもバレなさそうだけど」


「決まりだね! 用意できたら家の前で待ってて、私もすぐに行くから」


 どうしようか迷っているうちに電話は切れてしまった。とはいえ、わざわざリダイヤルして断るような気力も、今の彼女にはあまり残っていなかった。


 ぶらりと足を投げ出してどうしようか考える。だが、何もせずにここで過ごすくらいなら……


「……せめて、ちょっとでも動いた方がマシよね」


 思い付いたら動き始めるのは意外にも早い。無情に進み続ける時計から目を逸らし、真澄は牢獄から解放されたように軽やかに立ち上がった。




 道中に転がっていた自販機に硬貨を投げ込み、葵は冷え切ったジュースを喉に流し込んだ。


「ふぅ……やっぱりオレンジは冷たいのに限るよねっ!」


 外に出て歩くのには優れた天気だった。真澄も一瞬だけボタンに手を触れたが、すぐに手を下げて自販機に背を向ける。


「あれ、真澄は買わないの?」


「財布の中身が減ると色々うるさいから……一応、万が一を考えて持ってきたけど」


 元々ジュースはそこまで好きでは無かったが、母がああなって以降は少しずつ溜めていたお小遣いの使い道もかなり限られるようになってしまった。


 軽い口調で言ったつもりだったが、顔を上げると葵がぽかんとした表情をして動きが止まっている。


「……えっ、何のためのお小遣いなの?」


「こっちが聞きたいわよ。いざという時に使えって言われても、意味分かんないもん」


 どうして誰よりも努力している自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。憂鬱になりながら一歩一歩を進んでいると、隣から半分残ったペットボトルが差し出された。


「分けっこしよう、それならバレないでしょ?」


 明るいと思えば暗く、厳しいと思えば優しい。彼女が何を考えているのか分からなくなる時がある。


 両手で冷えたボトルを静かに受け取る。疑り深い気持ちを抱えながら口に運ぶオレンジの味は、妙な酸っぱさと甘さが残った。


「……美味しい」


「やっぱり、なんだかんだ言って真澄はそういうの好きだよね」


 ムッとなって振り返る。葵はしてやったと言わんばかりの表情をして、無意識に顔が緩んでしまった真澄を笑っていた。


「何よそれ、子供舌ってこと?」


 知らない、と両手を上げて進む彼女を、真澄はボトルのキャップを締めて必死に追いかける。


 今までのことを含め、最近は何だか葵に一段上の世界からちょっかいをかけられているような気持ちだった。




「……それで、どうしてわざわざこんな時に私を呼び出したの?」


 公園に来た時は、いつも東屋で一休みすると決めている。今日はお出かけ日和の休日だったが、建物の影さえまばらなこの辺りは、いつにも増してがらんとしているような気がした。


「えっとね……机に向かってぼーっとしてたら、真澄のお母さんが袋持って出かける姿が目に入ってさ」


「今なら行けるかもって思って電話したの? 変なの」


 単なる偶然だと思っていた。驚きと焦りを考えながらジュースを啜ると、元から半分しか残っていなかったそれは早くも無くなってしまう。


 ただあちらの考えがどうであれ、今この場で自分を救い出してくれたことだけは嫌な気分ではない。


「やっぱり、真澄も色々辛いのかなって。大切にしてたはずの家族がおかしくなるなんて、私じゃとても耐えられないよ」


 少なくとも、今の葵は本気で心配しているように感じられた。おかしな話だが、こちらを覗き込むその目と表情に嘘は感じられない。


「……何だろうね。それも辛いけど、私が本当に折れそうなのは別のことかも」


「ん、学校のこと?」


 ちょっと違うかな、と真澄は表情で彼女に告げる。そっちがその気なら、自分だって嘘偽りの無い今の気持ちをぶつけてみたくなってしまった。


 風だけが寂しく吹きすさぶ辺りの風景は、二人を下界から隔てさせるには十分な静けさだった。


「こんな生活、いつまで続けなくちゃいけないのかなって。周りのみんなに裏切られ続けて、誰かが夢を叶えるのを黙って見てるだけなんてもう嫌なのよ」


 真澄はその先を見ていた。人との関わりで擦り切れ、お姫様になりたいという夢すら叶えられず、退屈な日々を過ごし続けたその先を。


「これ以上誰にも先を越されたくないし、裏切られたくも無いわ。でも、そのためにどうすれば良いのかが分からない」


「うーん……難しいね」


 頭の中には二つの選択肢があった。このまま逃げ続けて未来から目を背けるか、失敗することも覚悟して強引に進み続けるか。


 そして尚子が死に、藍奈が同じ道を歩みつつある中、彼女は徐々に選択を迫られつつある。


「私だったら前に進むかな。諦めたらそれこそ何も手に入らないし、誰かに勝手な思いを押し付けられるよりは、悪あがきって言われても挑戦する方を選ぶべきだと思う」


 失敗したらどうするの、と真澄は開きかけた口を止める。葵の話にはまだ続きがあった。


「失敗したら私も一緒に付き合うよ。元からそのつもりだったし、友達ってそういうものでしょ?」


「ん、それって……?」


 彼女が鞄から取り出したのは、美しい草原や花が描かれた一枚のデッサンだった。


 知らなかった、彼女がこっそり絵を描いていたなんて。恐らく数年は練習したであろう努力の結晶を抱え、葵は立ち止まっていた真澄の背中を押す。


「意地悪な人たちに負けないで……私は最後まで、頑張る真澄の味方だから」


どうして葵は相反する行動を繰り返すのだろう、と悩み続けていた真澄の思考に、そこで一つのピリオドが付いたように思えた。


「なるほど……そういうことね」


彼女は本当に嘘をついていない。真澄を守りたいという感情と、真澄が壊れる姿を間近で見たいという感情が入り混じっている。


 そしてその想いがいつどちらの方向に傾くのかは、葵自身にさえ分からないのかもしれない。


「私、もう少し頑張ってみようかな。悪い奴にいじめられて諦めるなんて、お姫様には相応しくないし」


「うんうん、その調子だよ! 真澄が前を向いて進んでる姿を見ると、私もとっても嬉しいな」


 葵に乗せられたふりをして彼女の手を握る。いつか決別する時は来るだろうが、まず決着を付けなければいけないことは他にもある。


「必ず夢を掴んでみせる。どれだけ悪あがきだって言われても、私だけのやり方で」


 空になったボトルを拾い上げ、真澄は涼しく薄暗い日陰から日向へと足を進めていく。


 いつまでも寄り添ってくれると信じ込んでいる葵は未だに気付かない。彼女が告げる悪い奴、意地悪な人に、葵自身もまた含まれていることに。




 その後真澄が動き出したのは、週が明けてしばらく経った何の変哲も無い平日の夜だった。


「そうだ……今日は私がお茶淹れてあげるね」


 夕食が終わり、洗い物が終わった一瞬の隙を狙って、真澄は人がいなくなった台所に飛び込んだ。


 いつもは藍奈が用意しているお茶を見よう見まねで準備する。日々の感謝か何かだと思われているのか、いつもは口出ししてくるはずの母は意外にも大人しかった。


「そういえばさ、今日葵と一緒に将来のことについて考えたの」


「へえ……あの子って高校はどこに進学するんだっけ?」


 話をしながらポケットを探る。使わずに貯めておいたお金で睡眠薬を買うことになるとは、真澄自身も想像していなかった。


「小野東高校。ここから近いし行きやすいっていうのもあるけど、美術部に入って絵の勉強もするって」


 藍奈の視線に入らない死角に立った。薬は静かにお茶に入れ、スプーンで音を立てずに混ぜていく。


 これで本当にあの人は眠るのだろうか。たった一度のチャンスだったが、不思議と真澄はうまくいくような気がしてならなかった。


「ふーん……だから? もしかして、真澄も同じ東高に行くつもりじゃないよね?」


 完成したお茶をテーブルに置こうとする手がふと止まる。またあの目だ、誤魔化しや言い訳が効かない、こちらの心を鋭く射止めるような獣の目。


「葵ちゃんには悪いけど、そんな所に通っちゃ困るのよね。美術なんて今時稼げないし辛いし良い所なんて何も無い。そんなどうでも良い所に労力を使うなら、神戸高校や小野高校で進学に向けた勉強を進める方がよっぽど効率的ってものよ」


 せめて最後くらいは明るい話に、と思っていた真澄の希望は遂に消え失せてしまった。


 いや、寧ろこの方が良かったのかもしれない。恨みが残ったまま殺せるなら、未練も心残りも無く彼女ごとこの家に別れを告げることができるのだから。


「あれ、ちょっとお母さん疲れちゃったのかな……もう眠いや」


 睡眠薬が効き始め、藍奈の意識が虚ろになり始めた。恐らく生きて会話ができるのはここまで、次にまた会えるとしたら、何十年後に行くか分からないあの世での再会となるだろう。


「今まで本当にお疲れ様。今まで色々あったけど、これからも私は夢のために頑張っていくわ」


「うっ、夢……って」


 ソファーにもたれかかり、やがて倒れた藍奈は完全に意識を失って眠ってしまった。


「これからはママの自慢の娘としてじゃなくて……斉藤真澄という一人の女の子としてね」




 眠った藍奈を運ぶのには手間を要した。だがようやく誰の視線も受けずに動けるのだから、足腰に来る異様な重みくらいは造作も無い。


「すぅっ……」


「仕事で随分とお疲れのようね。ふふっ……今から私が楽にしてあげる」


 寝室に彼女を転がせておけば、次は一階にある物置を開く。段ボール類が積まれている中に、最近はあまり使っていないストーブが置かれている。


 二十年程前に作られた、リコール対象に指定されていたはずの欠陥品。火災の危険があると放送されていたが、仕事でずっと家を留守にしていた藍奈は何とこれを放置してしまっていた。


「愛っていうのはね、互いに与え続けないと意味が無いのよ。どちらかが一方的に押し付けるのは愛じゃなくて支配……それが分からないと、愛のバランスは酷く崩れちゃう」


 作業を進めている自分自身と、そして眠っている藍奈に言い聞かせるように呟く。


 隣の部屋には雨に備えて洗濯物が部屋干しで掛けてあった。ストーブを静かにその下に運び、埃を被ったコンセントを繋いで電源を付けた。


「今こそ守らなくちゃいけない。正しい家族を、そして正しい愛の形をね」


 洗濯物のタオルを一枚手に取り、ストーブにかける。とどめと言わんばかりに灯油を部屋に撒いておけば、この部屋はたちまち火に包まれることだろう。


 卵から産声が上がるようにタオルが煙に包まれる。それが、この家の終わりの始まりだった。


「愛が、足りないのよ」


 玄関の扉の前に立ち、静かに燃え広がるのを待ち続ける。やがて消防団が到着すれば、被害者を装って飛び出してみせる。




「あ、うっ……!」


 果てしないように続いていた夢の世界は、突如として鼻に突き刺さった焦げ臭い匂いによって粉々に壊されてしまった。


「……なっ! まさか、燃えてる!?」


どうして自分は今まで気付かなかった、どうしてこんな所で眠ってしまっていた。


 何もかもが全く分からない。数時間前にお茶を飲んだはずなのだが、それからの記憶も無ければ家にいるはずの真澄の姿も見当たらない。


「誰か、誰か助けてえ……うっ、ごほっ!」


 まさかと思って階段に向かうも、上がり続ける火の手によって下の階へ降りる術が塞がれてしまう。


 視界が徐々に狭まってきた。せめて窓を開けて助けを呼ぼうにも、徐々に息苦しくなっていく身体は思うように動くことさえ叶わなかった。


「そん、な。どうして……」


「……ホンマに自業自得やな、あんたは」


 まだ死ねない、死にたくない。そう強く思った時、ここで聞けるはずの無い声が耳に入ってきた。


「誰かのため、家族のため。口先だけ達者なことを言うても、行動が伴わんかったら結局こうなるっていうことや。助ける奴なんて誰もおらん……あんた自身が全部捨てたんやからな」


 尚子の幻影が見える。いや、それだけに留まらず、今日に至るまで自分の前からいなくなってきた人間全てが、今この場で死にゆく自分を嘲笑っていた。


「私には何でもお見通しや、逃げられると思ったんか?」


「もう全部終わったんだよ。いつか俺の手を振り払ったように、今度はお前がみんなに捨てられる」


 嫌だ嫌だと逃げようとする度に、声と幻は藍奈を責め立てる。こっちに来いと肩を掴もうとする。


「どの口が言ってるのよ……私はそんな、そんな独りよがりな安っぽい想いであの子と接してたわけじゃないのにぃっ!」


 また意識が揺らいでいく。意地の悪い悪夢だと思って目を瞑っていた現実は、最悪のタイミングで彼女に押し寄せることとなってしまった。


 身体と心が冷たくなっていく。周りはこんなに暖かいのに、全身が燃えるように暑苦しいのに。


「私は、ただ、真澄と一緒にっ……」




「噓やろ……こんな時に火事かいな!?」


 時間はもう夜の十時を回っていた。事態に気付くのが遅れてしまった近隣の住民が、炎が燃え広がる前に急いで避難を始める。


「消防車はまだなんか、遅いのう!」


「今呼んどるわ……もうすぐ来るはずや、みんな家から離れえ!」


 夜の住宅街に人だかりができ始めた直後、サイレンを鳴らして数台の消防車が現場に到着した。


 既に火は僅かに近隣の家にも燃え移っている。避難した住民は固唾を呑んで見守る中、火元の家に大きなホースが向けられた。


「皆さん、危ないので離れて!」


 消火活動の傍ら、隊員が現場を見回して逃げ遅れた人がいないか確認する。すると、火元の家から一人の少女が出てきた。


「お願いです……助けて下さい」


「だ、大丈夫ですか!?」


 すぐに安全な場所へと運ぶ。少女に目立った外傷は無かったが服には汚れが目立ち、掠れた声で隊員に何かを訴えかけていた。


「ママが、まだママが中にいるんです。二階の部屋で眠っていて、すぐに助け出そうとしたのに間に合わなくてぇ……!」


 その少女……真澄の瞳から一筋の涙が流れた。その場にいた誰もが、彼女は火災に巻き込まれた被害者なのだと確信する。


 そうだ。もっと必死になって、既に焼け焦げて無残な姿になった遺体を探すと良い。


「分かった、君のママは必ず助けるからね!」


 火の広がりは止まっていた。完全に消し止められるまでにはまだ時間はかかるが、日が昇る前までには治まるような勢いだった。


「ふふっ……そうよ、もっともっと私のために頑張ることね」


自身の家が燃える光景を目にして 真澄は誰にも気づかれること無く泣きながら笑う。


一言一句、彼女が頭の中で思い描いていた計画そのものだった。後先のことなんて考えない、嘘によってみんなの心を手玉に取っていることへの喜びが、今の彼女の幸せになる。




「そういえば、この子の名前は何にしようか?」


 十三年前の二月二十八日。神戸の病院で産声を上げた真澄は、まだ生きていた藍奈と鼓幡に抱えられながら病室での日々を過ごしていた。


「適当に考えるよりは、何か意味のある名前の方が良いんじゃないか? 嘘をつかない正直な感じとか、周りが見惚れる綺麗な感じとか……」


「嘘をつかない正直な子か。うん、それが良いかもね」


 呼びやすい、しかしちゃんとそこに美しさもあるような名前を考え付くのはもちろん苦労もあった。


 でも一生に何度も無い貴重な経験であることに間違いない。この子の人生を真っ直ぐに導いてくれるような、嘘をつかない綺麗な名前に。


「……よし、この子の名前は真澄にしましょう。斉藤真澄、私たちの大切な愛娘よ」


 長く浅い眠りから覚めた赤ん坊が瞼を開いていく。母の胸に収まった真澄は、頭を撫でられると幸せそうな表情をしていた。


「これからよろしくね、真澄……」


 真に澄み切った青い瞳。けれど、少なくともこの時の二人はまるで想像もしていなかった。


 藍奈たちが作り上げた家族が嘘に塗れて壊れていくことも、その光景を目の当たりにした未来の真澄さえ、やがて嘘に染まってしまうことも。




「ママは……せめてママだけは、私を分かってくれるって信じてたのにな」


 騒ぎが一段落した数日後、真澄は住宅街の塀に寄りかかって火災現場を眺めていた。


 黒く焦げた建物の残骸には、ついこの前まで人が住んでいた気配など欠片も無い。周辺の家々には今までのような暖かさが戻り始めている中、それは事件の大きな爪痕を残していた。


「今月三日に三木市の住宅で火事があり、火元とみられる家から一人の遺体が発見されました。現場からはリコール対象となっているストーブが発見されており、県警はこのストーブが発火原因とみて捜査を進めております……」


 悲し気な、しかしどこか淡々で無機質な文言が耳に入ってくる。今でこそ火災はニュースとなっているが、数ヶ月もすれば人々の記憶は別の事件へと移り変わっていくだろう。


「意地悪な人たちに負けないで……私は最後まで、頑張る真澄の味方だから」


「言われなくてもそのつもりよ、葵」


 かつて親友から告げられた言葉が頭をよぎる。思えばこの場に至るまで、周りの人間から裏切られ続け、意地悪な人たちに奪い取られるばかりの人生だった。


 でも真澄は知った。自分の生き様をこの世界に刻み付ける、たった一つのこの上無い近道を。


「このままじゃ絶対に終わらせない。私から夢を取り上げた意地悪な奴は、この世界のどこにも生きちゃいけないのよ……」


 しがみついてでも生きる。そして必ず、自分を支えてくれる運命の人を見つけてみせる。


「ママのようにはならない。私は私にしか無い、私だけの愛を見つけてやるわ」


 今まで何度も外れかけ、終点がまるで見えなかった果てしないレールが、そこでようやく軌道に乗ったような気がした。




 続く

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