第9話 羨ましい、妬ましい、全部手に入れたい
「純……また来てくれたの?」
一週間に一回、授業を終えた純は必ず町で最も大きな医療センターの病室を訪れる。
彼の目的はただ一つ。末期の病で余命を宣告され、それなのにいつもと同じ笑顔を見せてくれる母と顔を合わせるためだった。
「もう、今週は来てくれなくても大丈夫だって言ったのに」
「心配せんでもええで。それに……いつか母さんの病気が治るって、俺はずっと信じとるから」
日を追うごとに痩せ細っていく頬、弱々しくなっていく瞳の光。それでも諦めたくなかった、未来を勝手に決めつけたくなかった。
「私はもう長くないわ。本当は大人になった純を見たかったけれど、それも多分ダメね」
点滴が刺さった腕を僅かに動かす。純が差し伸べた手を、母はほんの少し握ってくれた。
代われるなら、彼女の苦しみは自分が背負いたかった。いや、本当は周りの誰も病気にならない幸せな世界が欲しい。
「高校はどう、ちゃんとうまくできてる……?」
すぐには答えられなかった。でも母を悲しませないために、純は何も言わず静かに頷く。
「彼女は、ちゃんとできたかな?」
「……余計なお世話や。今はまだやけど、頑張ればそのうちできるやろ」
そして、二言目はいつもこうだ。まだ入学して間も無いのに、そんなにすぐ作れたら苦労はしない。
しかし、言い終わって純は気付いた。偶然が重なった上での出来事だったが、今日は新しい同級生と話すことができたのを。
「せや。彼女とは言わんけど、放課後に同級生の女の子とちょーっぴり仲良くなったで」
これから先、また関わる機会は無いかもしれない。けれどキーホルダーを渡した時のあの笑顔が、彼の頭の中にはまだ残っていた。
「そうなんだ……ふふっ、楽しそうで良かった」
どれだけ時間が経っても、母に突如として背負わされたあまりに重い運命が覆ることは無い。
けれど彼女のほっと安心する顔を見れば、それだけでも純は自身の頑張りが少しだけ報われたような気がした。
「さあみんな、これから大切な仲間になる後輩たちよお」
部長の満が入部届を受け取り、一週間にわたる体験期間を経て葵と……そして真澄が正式な部員として迎え入れられた。
改めて小さくお辞儀をする。表情はあまり見えなかったが、先輩たちは大きな拍手で二人を祝う。
「よろしくお願いしますっ!」
「お世話に……なります」
あの時僅かに垣間見えた闇は、今の所まだ影も形も残っていない。嵐の前の静けさか、それとも意図的に隠されているのか。
「真澄ちゃんと葵ちゃんは体験にも来てくれたから、活動内容は説明要らないわねえ。上級生とペアになって、簡単なデッサンの制作に移ってちょーだいなっ!」
そんな真澄の内心など知る由も無く、満は以前と変わらない陽気さでチョークを手に取る。
テーマは一体何なのだろう。部員たちの頭の中に疑問符が浮かび始める中、彼女が選んだのは視界というお題だった。
「レプリカ黒板水道人机と椅子そして窓から見える外の風景……ここには色んなソースがあるわあ。模写なんて堅苦しいワードは取っ払って、みんなの目に見えたモノを思うがままに描きなさあい」
ペアはどうすれば良いのだろう、とマスミが視線を泳がせていると、恐らく二年生であろう女子部員とぴったり目が合った。
「斉藤さん……で合ってるよね。もし良かったら一緒に描いてみよっか?」
「ええ、分かりました」
同じ趣味を持つ人と絵を創る経験は無かったが、模写なら授業の暇な時間に飽きる程やっていた。
僅かな緊張感と高揚感が美術室全体に漂う中、新入生が入ってきた新しい部活はこうして始まりの時を迎える。
「さあ、ゆっくりで良いからみんなの実力を見せてねえ」
「そういえば、葵ちゃんは過去に美術部に入った経験は無かったよねえ。独学かな?」
一方で葵の付き添いは満が担っていた。張り詰めた空気になり過ぎないように、手が止まって一呼吸を置くタイミングで気さくに話しかける。
「本を少し……でも独学みたいなものですよ。ほとんどあの子の見よう見まねで」
「ふむふむ。でも影の付け方は悪くないと思うわあ、伸びしろの宝石箱って感じ」
彼女が描いていたのは数脚の机。モノクロという限られた世界の中で、差し込んでくる光と取り残されるような影が上手に表現されている。
そんな葵に触発されたのか、満もまた隣で鉛筆を手に取ってデッサンを描いていた。
「最初の形の取り方は改善の余地ありねえ。ただ経験を積んでいけば次第に上手くなっていくものだし、今すぐに何とかしないとって焦る必要はどーこにも無いよお」
完成品はギリギリまで伏せられる。やがて描かれたこの上無い具体例は、汗を流しながら必死に絵に取り組む葵のデッサンだった。
「ここだけの話、二年ズよりも素質はあるんじゃないかな……なんて?」
集中してあまり見えていなかった自分の姿。真剣で、綺麗で、感情がひしひしと伝わってくる。
みるみるうちに葵の表情が輝き始めた、欲しかったプレゼントをサンタさんから貰えたように、彼女の欲しかった世界は今この美術部にあった。
「凄いです……本当に凄いですよ佐渡先輩! こんなかっこいい絵を描けるなんて!」
「照れちゃうなあ、私を褒めても何も出ないぞお?」
経験を積んでいけば、自分も今まで触れてこなかった世界に行けるかもしれない。葵にとって満は最大の目標で、そして憧れだった。
「葵ちゃんを見てると思い出すんだあ。何にも無かったけれど、夢に向かってひたむきに進んでいたちょっと前の自分がね……」
大したことでは無い。ただちょっと手を伸ばして、笑顔を求める葵の手に触れてみたいと思った。
「おお、真澄ちゃん凄いじゃない!」
気付いた葵がこちらを見つめる、一瞬だけ時間が止まるような感覚。だが、それは張り上げられた声によって阻まれてしまった。
「……ねえ、そっちはどうなってるのお?」
声は真澄と二年生の部員が座っていた所から聞こえてきた。わき目もふらずに作業をしていた部員たちも、何だ何だと視線を寄せて絵を見つめる。
突然の出来事に首を傾げていると、向こうでは満にとっても予想外の出来事が起きていた。
「何というか、描き始めたら止まらなくなっちゃって……」
真澄が先輩の手を借りることなく、一人の力で美しい絵を描いていた。蛇口から垂れる僅かな水が溜まり、景色を反射する透明な池のように表現されている。
「美術部で一番上手いかもしれないね。一年生でこれは輝く卵だよ!」
「本当ですか……嬉しいです!」
葵以外に見せたことが無かった自身の絵。先輩から溢れんばかりの賞賛を貰った真澄は、絵をまじまじと見つめながら笑みがこぼれた。
満は思わず言葉を失い、手に持った鉛筆を落としそうになってしまう。
「な、なななっ……!」
それはお世辞でも、演技でも無い。絵を目にした部員たちからの喝采は、間違いなく真澄自身の努力で手にしたものだった。
「一年生がこんなに上手いのなら美術部の未来も安泰かもね。新しい時代が始まったって感じ!」
初めての部活は、真澄も葵も仲間と共に大成功を収めることができた。
明るい笑顔は美術室の隅々にまで広がっていき、そこにいる生徒たちを渦のように巻き込んでいく……しかし、ただ一人を除いて。
「私もまだまだだなあ……頑張らないと」
葵が感嘆の声を漏らす。しかしそのペアの部員は、俯いたまま無言で立ち尽くしていた。
時計は十八時を回り、真澄たちは疲れの混じった表情で美術室を後にした。
「真澄ちゃんも上手だったけど、葵ちゃんも独学であれは凄くなかった?」
鞄を机の上に置いて、一部の部員たちはまだ帰りたくないのか立ち話を始める。
体験入部の時からうっすら感じてはいたが、久しぶりに星のように輝く新入生を目にする事ができたような気がしていた。
「もしかしたらさ……二人でコンクール総なめできるんじゃないかな?」
「あると思うよ、これから次第で」
興奮冷めやらぬ調子で話を続ける彼女らは、だからこそ美術室の隅から射し込む凍り付くような視線に気付かない。
「部長はどう思います、今回の……ひゃっ!?」
静かに振り向いた途端、目の前に何かが飛んでくるのが見えて身を引いた。
満の手から筆が消えている。つい先程まで握られていたはずのそれは、レプリカの飾ってある棚にぶつかって床を転がっていた。
「ぶ、部長……どうしたんですか?」
「誰の絵が、コンクールで受賞できるって?」
俯いて表情が見えない。震える声には溢れんばかりの怒りと、そして悔しさが混じっている。
「一体誰の、何の絵が……この私よりどう上手いのかって聞いてるんだっ!」
両手で机を叩く音と共に満は飛ぶように立ち上がった。突然の出来事に凍り付く部員との距離をじわじわと詰めていき……殴りかかった。
「部長は私なんだ。いつだって、一番になるのは私だけなんだぁぁっ!」
美術部の活動が休みになる曜日の浮いた時間も、真澄は自身の腕を磨くための勉強を怠らない。
「うーん、美術系の本は……っと」
名画や美術の歴史についての本だけでなく動物の写真集も借りれば絵のモデルとして役立つ。ジャンルに合う本をいくつか探し出して、重たい音を立てながら机の上に並べた。
時に綺麗な、そして時に可愛らしい写真を見つめながら、授業の疲れを少しずつ癒していく。
「猫ちゃんの写真、とっても良い感じね」
モデルになる写真集はこれに決めた。他にも数冊勉強になりそうな物を手に取って、彼女は貸し出し受付のカウンターに向かおうとした。
「……おっと!」
しかし、それらのうち戻そうとした一冊の本が誤って机から転げ落ちてしまう。
いけない、つい油断してしまった。小さく屈んでそれを拾いあげようとすると、何処かで見覚えのある手が優しく掴んで渡してくれた。
「あっ、ありがとう……って」
「おう。何か久しぶりやな、斉藤さん」
見上げて数秒動きが止まる。重なった手は、偶然図書室に居合わせた純のものだと気付いた。
「課題でもやろう思ってな。ほら、家でちょっとずつやってたら途中でめんどなってくるやん」
彼は笑顔で何度か頷いた後、鞄から教科書とノート類を何冊か取り出した。どこか言い訳をしているようにも聞こえるのは、別の目的があるのか単に恥ずかしいだけなのか。
「そっか、純君は真面目なんだね」
「別にそんなんじゃねえって……で、斉藤さんは?」
大きな声が出せない静かな空間で、窓際の席に向かい合って座る穏やかなひと時。
そうだ、と自分の目的をふと思い出し、真澄は小さく微笑みながら先程借りようとしていた勉強用の本を純に見せた。
「絵のモデルを少しね。前の部活で描いた絵が先輩に褒められたから、何だかやる気になっちゃって」
興味津々な様子で動物たちの写真を見つめる彼を眺めていると、こちらまで思わず吹き出しそうになってしまう。
「すっげえ……斉藤さんはやっぱり、将来は画家志望とか?」
「私のことは真澄で良いわよ。何だかよそよそしいし」
あまりはっきりと考えたことは無かった。すぐに答えることはできず、うーんと高い天井を見上げながら少し考え込む。
「……なれたら良いなって感じね。みんなに大好きだって思ってもらえるような、可愛くて綺麗な絵をたくさん描いて」
どうだろう。純粋に思ったことを口にしたが、もう少し素敵な言い方があっただろうか。
それでも純の心にはちゃんと伝えたかったことが届いたようで、ほんの一呼吸を置いた後に彼の表情は光輝き始めた。
「良い目標やな。俺もちょっと見習わんとあかんわ……」
ペンを持ち、純は少しでも良い所を見せようと課題を解いていく。しかし苦手な数学の問題だったようで、たちまち彼の手は止まって頭を抱えてしまった。
「すまん、斉藤さん。この問題の答えを教えてくれんかな?」
「はあ……真澄で良いよって言ってるのに」
もうエネルギーが切れてしまったのだろうか。真澄は少しからかうような調子でため息をつきながら、立ち上がって彼の机に身を寄せてきた。
「こっちの式の約分を忘れてるわね。ここを直したら、ちゃんとした答えになるはずよ」
本来の目的を放置して、図書室の隅で始まる勉強会。でも不思議と過ぎる時間が気にならなくて、悪い気分にはならなかった。
顔を近付けたり僅かに身を寄せたりする度に、純が照れてしまう姿は少し可笑しかったが。
「ほら、ちゃんと聞かないといつまで経っても終わらないわよ」
「……わ、分かってるって」
これも裏返せば、自分を可愛いと思ってくれている証拠なのだろうか。すぐに顔を赤くする純の頬を軽く突きながら、真澄はゆっくりと問題を解き進めた。
「……本当に純君は面白い子だなあ、見てて楽しいわ」
それからの部活、真澄は積極的に作品作りに取り組んでいた……もしかすると、葵以上に。
ある日彼女は完成させた水墨画を片手に、いつも職員室で座っている顧問の先生に見せに行く機会があった。
「失礼します、一年の斉藤です」
職員たちの机にはどれもプリントやテスト等の書類が積み上がっている。山のようなそれらを通り過ぎ、真澄は先生のいる席を探した。
「こんにちは、もしかして絵を見て欲しいのかな?」
「はい。今回は色々勉強して……時間をかけて作ったので、自信作です」
顧問の先生は爽やかな見た目の男性だった。怒ることはほとんど無いが美術部の活動にもそこまで口を出さず、一定の距離感を保っている。
真澄の描いた水彩画を上から下まで観察する。無言の時間に、僅かな緊張感が走った。
「一年生にしては仕上がりもしっかりしているしセンスも凄い。とても良いと思うよ」
淡々とした喋り方だった。だが先生の見せた柔らかい笑顔に、真澄はほっと胸を撫で下ろした。
「次は確か……石膏像のデッサンかな?」
「はい。必ず一通りの絵で合格を貰ってみせます」
新入生はまだ描くテーマが固定されている。だが先生から合格を貰っていけば、先輩や部長のように自由に描けるようになっていく。
「何か……描きたい絵でも?」
先生にしては珍しくほんの少しからかうような口調に、彼女は思わず笑みが零れてしまった。
「内緒ですよ、まだ」
「そうですか。では、今後の楽しみにしておきますよ……」
目立った失敗も悩みも無い、美術部での活動はまさに順風満帆といった感じだった。
しかしただならぬ様子で職員室に駆け込んできた美術部員の姿を目にして、真澄の輝いていた目は徐々に光を失っていく。
「大変だよ真澄ちゃん、美術室が!」
背後で顧問の先生が立ち上がる音が聞こえてくる。もしかして、と彼女の思考が凍り付いた。
「どう……したんですか?」
先生と共に美術室に向かうと、既に集まっていた部員が柱の傍でどよめいていた。
「これって……!?」
中学校の時の嫌な光景が不意に蘇ってくる。入学式の写真を破られた、あの悪夢を。
凝視すると、先輩たちに預けていたはずのデッサンが汚されていることに気付いた。凄い、上手だと褒められたあの絵が、原型を留めない程無残な姿になっている。
「酷い、どうして……」
時間は部活が始まる直前。予め乾かしておいた水彩画を職員室に持って行こうとした時はまだ誰も美術室にいなかったのに、僅かな隙を突いての動きだった。
「あれ新入生の絵だよね、誰がこんなことしたの?」
「そういえば、さっき美術室に部長が……」
思い込みや憶測が飛び交い、既に混乱し始めていた美術室が阿鼻叫喚の図となっていく。
いつもは前に立って場をまとめてくれていた部長・満も、今回は深刻そうな表情をしながらその場から全く動かなかった。
「皆さん落ち着いて下さい、取り敢えず席に座って!」
収拾がつかないと判断したのか、堪えかねた顧問の先生が今いる部員たちを集めにかかった。
「斉藤さんの描いた絵が何者かに汚された……ということですね。新入生の作品の管理は?」
声は以前と変わって張り詰めた様子だった。鋭い声で辺りを見回すと、やがて部長が分かるように大きく手を上げた。
「私が準備室にまとめていました。鍵がかかっているので、美術部の人以外は入れないかなと」
「なるほど……最初に汚されていたのを発見したのは?」
絶対に犯人を見つけてみせる。その瞳には、簡単には譲らない燃え盛るような炎があった。
でも、何処か対応が手慣れ過ぎているようにも感じられる。まるで以前にも、これと同じことが何度もあったような……
「私です。いつものように友達と入ったら、見覚えのある絵が机に置いてあるなと思って……」
「詳しく状況を聞かせて下さい。貴方の言葉で」
今度は一人の部員が手を上げ、友人と共に当時の状況を説明し始めた。
「……それで、結局犯人は見つかったんか?」
数日後の休み時間中、真澄は自身のデッサンが汚された事件を純に相談した。
助けを求める……とは少し違う。行き所の無い感情と悩みを相手にぶつければ、少しは自分のこの気持ちが少し楽になるかもしれないと思ったから。
「ううん、結局誰も犯人に関係することは分からなくって……」
「グルちゃうかそれ。誰も分からんのは流石におかしいと思うで」
最初は葵がやったのではないかと真澄は推測した。中学時代に陰でいじめを先導していたのは恐らく彼女だし、今でも心のどこかでこちらを排除したい気があった可能性は否定できない。
ただ、それだと昨日先生に告げられたとある言葉と大きな矛盾が発生してしまう。
「去年も同じような事件があったらしいの。水彩画を破られた子がいて、犯人は一応見つかったみたいなんだけど、発言に変な所があるとか何とか」
作品を破られた過去の被害者もまた、その年に入ってきた新入生だったと聞いている。
「何か危なそうやな……大丈夫なんか?」
泳いでいた視線をふと純に合わせる。本気で心配されると、真澄も顔を逸らして大丈夫だとはっきり言うことはできなかった。
「今は状況を見ながら大人しくしておこうかな。先生も流石に黙ってないと思うし」
放っておけない、許せない。だからこそ誰がどうしてこのようなことをやったのかを明らかにして、先に動かれる前に確実に仕返ししなければ。
「でも……取り敢えず今日の部活は休んでおこうかな。あんなことがあった後じゃ顔を合わせるのが億劫だし」
「なるほど。放課後は真っ直ぐ帰る感じか?」
ううん、と真澄はゆっくりと首を振り、騒がしさが増していく教室の中で立ち上がった。
特別な理由やきっかけは無かった。でも一人で帰るのは心細いから、彼女は純を引き寄せるための魔法の言葉を口にする。
「今日は一緒に帰りましょう、私と」
純が呆気に取られているのが見て分かった。答えはしばらく返ってこなかったが。次に出てくる言葉もまた予想がついている。
「えっ……まあ、別に暇だし良いけど」
「ねえねえ、六月からスマスイのふれあい広場が新しくなるんだって!」
楽しそうに話す女子たちを見ても別に孤独感は無い。私だって今日は、一緒に帰る大切な人が隣にいるから。
「……スマスイか、幼少期に行ったきり記憶が無えな」
純が小首を傾げながら何気無い様子で話しかける。徐々に廊下を歩く人影は少なくなり、彼の声がはっきり耳に届くようになっていた。
「私たちで行ってみない? すぐには難しくても、夏休みとかに」
「おーん……別にええけど、何で?」
純ともっと関わりを深めたいから……と口にするのは、まだ少し早いだろうか。
彼と写真を撮って、色んな場所を回って日が暮れるまで遊ぶ姿を想像すると、ちょっぴり面白くてワクワクするような気がした。
「動物の触れ合いにはちょっと興味あるし、あと夏はビーチにも行けるでしょう? あんまり予定とか立ててなかったから、貴重な思い出作りには良いかなって」
ダメかな、と真澄は純の顔を覗き込む。嫌な表情では無かったが、照れ臭いのか赤くなっている。
「俺と行った所であんまり意味無くないか? 友達と行った方が楽しいやろ」
徐々に二人は階段に近付いていく。一段、もう一段と足を踏み出す度に、葵やもうここにはいない両親の姿が浮かんでくる。
もうできないだろう。他でも無い彼らのせいで、幸せだった世界は粉々になってしまったのだから。
「純君だから言ってるのよ……私は」
窓に反射した自分の顔は、不満とも幸せとも取れないような感情を映し出していた。
「えっ、今なんて……」
「真澄ちゃんが来たよ。それに……知り合いの男子も一人」
だが、その気持ちははっきり純に届かなかった。陰から彼女の様子を眺めていた女子たちが、カメラを構えて二人の様子を監視していたからだ。
真澄は人影にまだ気付かない。待ち伏せしている彼女らは……美術部にいるはずの先輩たち。
「ねえ、本当にやるの?」
「もししくじったら、私たちみんなの責任になる……やるしか無いよ」
本当は階段にワックスなんて塗りたくなかった。それに、新入生の真澄がその仕掛けに滑って転ぶ姿を撮影するのも。
しかし一度乗りかかってしまった船を、どうしても嫌だからと途中で降りることはできなかった。
「ごめんなさい、真澄ちゃん。私にはどうすることもできなかったの」
しっかり写真を撮らなければ、自分が部長に始末されてしまう。そう思っても、手が震えているからかフォーカスが中々合わなかった。
「えっ……!?」
「危ない!」
考えを巡らせている間にも真澄はワックスに足を取られ、撮影の瞬間はすぐそこにまで迫っていた。
全部私のせいだ。直前の恐怖心に負けて顔を逸らしながら、ろくに視線も合わせずに部員の女子はシャッターを押そうとする。
だが、部長が望んだその瞬間はいつまで経っても訪れることは無かった。
「……おい、怪我は無いか?」
倒れ込む真澄を何とか受け止め、階段から落ちるのを防いだのは隣を歩いていた純。
淡々と流れていた時間がピタリと止まる。頭と腰に手を回し、前かがみの姿勢で彼女を支えるその姿は、まるでお姫様を抱く王子のようだった。
「あ、うん……大丈夫」
お互いの顔が近付き、呼吸音がはっきりと聞こえてくる。しばらくすると正気に戻ったのか、純は大きく目を見開いて辺りを恥ずかしそうに見回した。
「ああ、すまん! 咄嗟のことで身体が勝手に……」
「良いのよ気にしなくて。それに、助けてくれて嬉しかったわ」
彼女はしばらくこうしていたかったが、二人にかかった魔法も永遠に続くわけでは無い。
無事を確認すると彼は優しく真澄を下ろし、つい先程目の前で起きたことが理解できない様子で静かに距離を取った。
「その……あんな近くで。嫌やった、やろ?」
「……あれ、もしかして今のでドキドキしちゃったの?」
後になって羞恥心が込み上げてきたのか、純は中々顔を合わせようとしない。彼の少年らしさが見えたような気がして、彼女は何だかからかいたい衝動に襲われた。
「そんなわけちゃうわ! だ……大体あんなんで恥ずかしがるとか、小学生ちゃうねんから!」
言えば言う程心の中が熱を帯びていくよう。大きく首を振った後、純は階段を上り始める。
「ねえ、逃げなくても良いでしょ?」
「逃げてねえし……とにかく、今はそんな場合じゃないやろ」
先程真澄が足を踏み外してしまった場所は、恐らく一番上の段辺りだろうか。
すぐ隣を歩いていたはずの彼は何とも無かった。話の途中でよそ見したために躓いてしまった、という線も考えづらい。
「こいつは、もしかしてワックスか?」
僅かな汚れに堪えながら階段をゆっくり手でなぞると、罠の証拠ははっきりと残っていた。
一方、その階段にワックスを塗った部員は、他の女子たちと共に美術室へ連行されることとなった。
「ねえ……しっかり罠張ってって言ったよねえ、あんたのせいで全部台無しになっちゃったじゃん!」
満は足を踏み鳴らして叫び、油絵に使うはずの油が並々入ったバケツを部員にぶちまけた。
鼻が曲がる程の異臭が部屋中に充満した。しばらく間を置いた後、濁った雫と共に透き通った涙が少しずつ滴る。
「……ごめんなさい、全部私のせいです」
満は怒りが収まらない様子でバケツを放り投げた。あの子が痛みに泣き喚く姿をカメラに収めていれば、自分だけの輝かしいキャンバスに彩が加えられたのに。
「右はカス、左はゴミ。どいつもこいつも……油絵用のこれ、切れちゃったって伝えときな」
「はい……?」
指を差された部員が困惑の表情を浮かべる。だが、その感情を部長は決して許さない。
「二度も言わせんなクズ。やれっつったらとっととやるんだよお……さっさと行ってこいや凡人っ!」
誰も部長には逆らえない。絵の具を投げる素振りを見せると、動きが鈍かった部員も涙を滲ませながら走り出した。
「申し訳ございません、すぐに……!」
「部活に入るってことは、つまり部長の管理下に置かれるってことなんだよ。それを理解できてない奴が多過ぎるのよねえ」
ぼやく満は油を投げられた女子の髪を掴み、強引にこちらに向けて引き寄せる。
「あんたも……あの水彩画みたいに、心も体もボロボロになっちゃうまで逃がさないからね」
ごめんなさい、許して下さいと今もなお小さく呟き続ける彼女に、満はそうはいかないと顔を近付けて言い放つ。
「この写真を学校中にばら撒いて、今までの事件はぜーんぶこいつ一人のせいでした。って言うこともできるんだよ? こっちはねえ」
「それ、それだけは……」
退部なんて逃げの手段は絶対に許さない。一度美術部に入った者は、搾り取られて粉々になるまで働かせなければ。
「なら私の言うことは聞きなさい。私がようやく作り上げた夢の国の、一人の国民としてね」
邪魔な前部長も、口うるさい先輩たちも全員この部から追い出すことができた。
自分に逆らう者も歯向かう者も決して現れないまま、満は今日も美術部の部長として横暴の限りを尽くしている。
元から誰でも良かったのか、或いは狙ってか……階段にワックスが塗られていた件を、純は被害者である真澄と共に先生に報告した。
「以前から似たような事件があったらしい。何か引っかかるなあ、こういうん」
帰り道になっても純は見えない怒りを滲ませていた。それも当然だろう、一歩間違えれば怪我人の出る大惨事になっていてもおかしくなかったからだ。
でも、当事者であるはずの彼女はそれと全く別の方向に考えを巡らせていた。
「大方予想はしていたけれど……まさか、ここまで大胆に仕掛けてくるとはね」
純に支えられた時、ほんの一瞬だけこちらの様子を伺う人影が見えた。すぐに逃げられてしまったが、何人かは美術部で見覚えのある顔だった気がする。
デッサンの一件も同じ。以前の部活で絵を描いた時、他とは違う反応をした者に心当たりがある。
「学校にいるだけで部長は次の手を仕掛けてくる。だったら、こっちもやるしか無いわね」
「……ん、何か言ったか?」
純の心配そうな表情で正気に戻された。しまった、心の声が思ったより出てしまっていたか。
「ううん、何でも無い。それよりも、今日は本当に助かったわ」
真澄は改めて彼の目を見た。ぶっきらぼうな所はあるけれど、正直で真っ直ぐな輝きを持つ瞳。
自分の気持ちを言葉にすることは少ないけれど、本当は誰よりも傷付きやすい繊細な人。守りたいと思えるし、守られたいとも思える不思議な感覚だった。
「貴方に助けられるのはこれで二回目ね。転んじゃった私をあんな風に抱きかかえてくれるなんて、ちょっと大胆でびっくりしちゃった」
「そ、その節はどうも……」
突然のフラッシュバックに少し狼狽える彼に、真澄は深く息を吸い込んで覚悟を決めた。
「ねえ、明日大事なことを伝えたいの。私は図書室の前で待ってるから、放課後になったらすぐに来てくれないかな?」
別れの曲がり角は徐々に近付いている。思い切った言葉に純は少し戸惑ったが、首を振る理由もまた見つからなかった。
「……分かった。明日、放課後に図書室の前やな」
予想通りの返答に先程まで表情を強張らせていた真澄は微笑み、先程の発言に優しく付け加えた。
「必ず貴方を喜ばせてみせるから……だから純君、楽しみに待っててね」
帰りにひと悶着あったせいか、今日は時間も遅くなってしまい日も落ち始めている。
だが、最後に大きなお土産を手に入れた気がする。心地良さそうに大きく手を振る彼女の、青く澄んだ瞳は星のように輝いていた。
その日の夜、純の晩御飯はいつもよりちょっぴり豪華な刺身盛が並べられた。
「なるほど……学校でそんなことが。純も災難だったなあ」
今は母のいないこの家で、彼といつも一緒に食卓に座るのは仕事帰りの父、吾郎だった。
寂しいと感じたことはあまり無い。両親はもっと苦しいだろうし、父は学校で起きた話を毎日しっかりと聞いてくれるから。
「以前から何度か似たような事件はあったらしいわ……まあ先生にも言うたし、流石に犯人がおったらちゃんと捕まるやろ」
鮮やかなマグロを一つ、綺麗な白米と共に頬張る。真澄に対する不安の色は消えなかったが、だからといって自分が怖がって逃げるわけにはいかない。
「隣におった彼女さんは純が助けたのか。カッコいいこった、流石は自慢の息子……」
「やめてくれ。彼女ちゃうし、そもそもあの時は体が勝手に動いただけや」
彼女、か。お見舞いに行った時、何だか母にも似たようなことを言われたような気がする。
醤油に仄かに映った顔は、嬉しいとも悲しいとも言えない表情をしていた。誰かに思いを寄せることの真の意味を、純はまだ理解できていないような気がしてならなかった。
「俺……さ。自分の想いをちゃんと誰かに伝えて、のびのび生きてもええんかな?」
息が詰まる。みんなが必死に頑張って自分を支えてくれたからこそ、決断の一つ一つが重く苦しい。
「……当たり前だ。純が思うように生きていくために、俺は母さんの代わりに働いてるからな」
だが、吾郎は否定も迷いもしなかった。純がこれからの生き方に迷っているのが分かるから、精一杯の笑顔と覚悟で彼の背中を押す。
「ひたすら進め。俺も母さんもできなかったことをたくさんやって、お前だけの人生を作り出せ」
後悔なら進んだ後にすれば良い。失敗しても転んでも、その経験は必ず自分を強くする。
吾郎のメッセージの一つ一つが、心に溶け込んで染み渡っていくように感じられた。そうだ、自分はいつだって一人じゃない。
「分かった。いつもありがとうな、親父」
これから何度、面と向かってありがとうと言えるか分からない。だから言える時にたくさん伝えておこうと心に決め、純は改めてお刺身に箸を伸ばした。
翌日の放課後に図書室まで向かうと、今まで抑えていた緊張が一気に溢れだしてきた。
「流石に……まだ来てへんかあ」
真澄が時間にルーズなわけでは無い、慌てて約束よりも十分早く着いた自分が悪いのだ。
時間を潰す術を無くし、廊下の柱にもたれかかる。彼女が何を考えているのか、自分はどうするべきなのか。それを考えていたら昨日はあまり眠れなかった。
「……だーれだ?」
頭の中が彼女の姿でいっぱいになると、一周回って心が冷静になる。すると自分が反応するよりも先に、視界が誰かの手によって覆われてしまった。
「……別に普通に来たらええやんか、真澄さん」
「えへへ。ちょっとからかってあげようかな、なんて」
綺麗で暖かい手が離れると、小さく飛び上がりながら噂の彼女が自分の目の前に躍り出る。
「本当に来てくれるなんてね。恥ずかしがって逃げちゃうかと思ってたわ」
相変わらずこちらをからかうような様子は変わらない。でも不思議と、今までよりもさらに声が上ずっているようにも感じられた。
「そんなチキンちゃうし……それに、一度した約束は守らんとあかんやろ」
「あはは、そういうとこ純君らしいね」
周りに人が歩いていないことを確認し、優しく微笑む彼女の表情が改めて柔らかくなった。
心臓がドクンと脈打つ。はっきりと言葉にはしていないが、そろそろ始めよう、という真澄のメッセージが伝わってきたような気がした。
「そう、貴方はずっと正直で真っ直ぐな人だった。最初にキーホルダーを拾ってくれた時も、転んだ私を助けてくれた時も、ちょっとしたいたずらでドキドキするのも……ふふっ、でもこれはちょっと違うかな」
純と真澄、双方の頭の中に同じ映像が流れ始めた。彼が救いの手を差し伸べて、彼女が幸せそうな表情を浮かべる、瞬間の一つ一つがくっきりと。
「私はずっと、貴方のような人を求めていたんだと思う。暗く狭い空間から私を救い出して、広く明るい楽園へと連れ出してくれる白馬の王子様……運命の人」
すらすらと言葉が紡がれていく。無意識に立てられていた心の壁を少しずつ剥がし、核が剥き出しになった純の心を彼女が包み込む。
真澄は光り輝く笑顔で彼の心を救い、そして自身の心を救って欲しいと求めていた。
「真澄、さん……?」
「ええ、思っている通りよ。でも私の口からちゃんと言わせて」
上目遣い、赤く染まった頬、もごもごと動く唇。深呼吸の後に、真澄は遂に運命の一言を口にした。
「私、初めて会った時から純のことが本当に大好きだったの」
待ち構えていた彼女の告白。でも、想像していたよりもずっと夢のような景色だった。
一瞬呼吸が止まり、真澄がもじもじしながらも答えが出るのを待つ。そんなに慌てなくてもと思いながら、純は昨日の夜から考えておいた返答を思い切って口にする。
「いやあ、知らんかったわ。真澄さんが俺のことをそんな風に想ってくれてたなんて……」
「嘘つきね。わざわざ気取らなくても良いのに」
……見透かされていたのは予想外だった。出鼻を挫かれたような気分になりながら、咳払いをして純は本題に入っていく。
「と、いうのは冗談やけどな。本当は俺も真澄さんのことが好きやったし、でも自分の気持ちから逃げ続けて蓋をしてた。一人じゃまだ何にもできない俺がわがままを言って、誰かを傷付けてしまうんが嫌やったし、怖かった」
でも俺は覚悟を決めた、もう自分の正直な気持ちからも夢からも絶対に逃げない。
これはただの告白では無かった。今までの自分の人生を振り返って、後悔しながらも前に進む決断をする人生の分かれ道。
「こんな俺で良ければ……これからもよろしくな」
この判断が、上に向くか下に落ちるかはまだ分からない。でも自分のやりたいと思ったことを信じて、純は彼女から差し伸べられた手を優しく取った。
「ありがとう純、本当に良かった……!」
夢にまで見た運命の人、もう無理かもしれないと諦めかけていた自分が救われる未来。その全てが叶って、真澄は幸せの絶頂にようやく立つことができた。
「困ったことがあればいつでも助けを求めてくれ、俺はいつだって駆け付けるから」
でも、そんな幸せの裏で真澄はこうも感じてしまった。もっと早く純と出会っていれば、もっと前にこの光景を見ていれば自分の人生は完全に順風満帆だったのではないかということ。
友人や家族が自分を裏切り、どこか遠い場所に行ってしまったという過去は決して消えない。
「ええ。寂しい時はいつでも声を上げるわ、貴方に会いに」
でもきっと、この判断は正解なのだろう。どれだけ周りに暗雲が立ち込めていようとも、彼と二人なら前に進む力をくれる。
「愛してるわ純。いつまでも、どこまでも」
「俺も愛してる……真澄」
この時の真澄はそう信じていた。本当はそう思うようにいかないと、彼女も知っているはずなのに。
「じゃあさ。お互いにしての何が好きか言い合いながら一緒に帰らない?」
本当の意味で純が自身のことを理解する日が来ることを知らないまま、真澄は彼を連れて落ち始める夕陽に向かって歩き始めた。
「良いなそれ……言葉に詰まった方が負けで」
時計の針は前にしか進まない。そして、誰も迫り来る運命からは逃れられない。
続く
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