第3話 受け入れてくれないから悪いんだ

「真澄……ねえ真澄、起きなさい」


 次の日の早朝、隣で眠っていた藍奈に肩を軽く叩かれて真澄は目を覚ました。


「んっ……何?」


 いつもカーテンから漏れるはずの光は見えない。時計を見ると、まだ五時過ぎだった。


 視界がほんの少しだけぼやけ……しばらくして定まると、寝不足なのか顔色があまり良くない母の姿がそこにあった。


「伝えたいことがあるの。取り敢えず着替えて、リビングまで下りてきてくれる?」


「どうして? ちょっと、もう少し寝かせてよ」


 そういうわけにはいかないの、と布団をめくられる。いつもなら藍奈が出た後に起きるので、こうして無理に起こされるのは久しぶりな感覚だった。


「はぁ……」


 ぼさぼさになっていた髪を簡単に直し、ため息をつきながら一歩を踏み出す。


「ねえ、もしかして和彦に何かあったの?」


 朝ご飯を作っている時も藍奈は一言も喋らなかった。次第に目が冴えてくると、いつもとは違うリビングの薄暗さと彼女の態度に妙な緊張感を覚える。


「ちゃんと話すから、そこに座って待ってなさい」


「そんなこと言われたって……」


 カチャ、カチャと皿の音が近付いてきた。今日はこれまた珍しく、暖かいパンと目玉焼きだった。


「い、いただきます」


「どうぞ、先に食べてて」


 窓をよそ見するとがらんとした町が映り、母と視線を合わせると少し怖い。表情は依然として険しく、心の中に重荷を抱えているように見える。


「それでさ……ちょっと前に、あの人から電話があったのよ」


 話が切り出されたのは突然だった。昨日の和彦に関することが頭をよぎり、卵を頬張りながら注意深く彼女を見つめた。


 だが、しばらくするとその話とは別件であることに気付く。


「最近は会ったことも無かったの。でもまさか、本当に連絡が来るとは思ってなくて」


「誰のことなの……? 隠さずにちゃんと言ってよ、ママ!」


 思わず反射的に叫んでしまう。だが藍奈は発作を起こしたように顔が真っ青で、真澄が一目見ても普通じゃないことが分かるくらいだった。


「ばぁばから電話が来た。向こうの家で、しばらく真澄の面倒を見るって」


 直後にごめんなさい、と母は深々と頭を下げる。父が死んだ時、あるいはそれ以上かもしれない衝撃が、真澄の心に槍となって突き刺さった。




 時は少し遡り、藍奈が電話をかけてきた尚子と話をしていた時のこと。


「本当はあんたみたいな出来損ないとは話したくもなかったんやけどな。ただ真澄……あの生意気なガキが学校で色々やっとるみたいやないか。今回はそれが気になってかけたんや」


「真澄の、ことが?」


 出来損ない、あっさり吐き捨てられたことに対しては何も言わなかった。こう言われるのは今に始まった話ではないし、実際自分は何もできなかった中途半端な人間なのだから。


「単刀直入に言うわ。真澄の面倒を見たるから、仕事してる間はこっちに連れてこい」


 驚く程軽い、あっさりとした言葉。だが呼吸の荒い藍奈を絶望の淵に叩き劣るには、あまりにも十分過ぎるものだった。


「それ、は……」


「どうした、何か文句あるんか? あんたも仕事と家事を両立するのは大変やろうから、手伝ってやろうって言ってんねんで」


 違う、どうせ貴方は真澄を支配下に置きたいだけなんでしょ?


 今できる力を振り絞って叫ぼうとしたが、上ですやすやと寝息を立てながら心地よさそうに眠っている真澄の顔が思い浮かぶ。


「聞いてんのか、はいかいいえでとっとと返事せえ。目上の人の言うことは無視せずにすぐ答えろって言うたやろ? これ以上待たせるんやったら家まで直接しばきに行くで」


 すぐに受話器を下ろし、真澄と一緒にどこかに逃げたかった。だが昔の記憶がこびりついて頭から離れない。まるで、尚子に影をぐっと掴まれているようだった。


「真澄にあの秘密を知られたくないんやろ……藍奈!」


「ひっ……!」


 これは冗談ではない、そして一刻の猶予も無い。言葉に表さずとも尚子の言葉に込められた感情がはっきりと伝わってきた。


 母親として子供のことは何としてでも守る、そう心に誓ったはずなのに。


「分かったわ、明日からあの子を連れて行かせるから」


「立場というものを理解してないようやな。お気遣いありがとうございますや、学習せえ」


 とうとう震える声で藍奈が告げると、尚子は特に気を遣うことも無く電話を切った。手を見て首に触れると、思っていたよりも自分が汗をかいていたことに気付く。


「どうしよう、このままじゃ」


 確かに、最近の真澄の行動はおかしい所があると思っていた。何も言わないでいたら、きっとどこかでつまづいて取り返しのつかない傷を負う。


 けれど、こんなやり方で全てを収めようとするのは決して健全ではない。


「ああ……」


 彼女は何かを諦めたように全ての力が抜け、あれこれ考えるのも忘れて床に座り込んだ。




「ねえママ……ママ、ちゃんと聞いてよ!」


 昨夜の光景が何度もフラッシュバックしていた藍奈は、真澄の悲痛な叫び声によってようやく現実に引き戻された。


「ばぁばの家に行くなんて、私は絶対に嫌だから」


 今までよりも……父が事故に遭った時も、学校でのいたずらを咎められた時よりも、彼女は本気で尚子を拒絶していた。


 大人になった自分だって怖いのだから、まだ子供の真澄にとってはあまりに恐ろしいことなのだろう。


「ごめんなさい。だけど、私にはどうすることもできないの」


 大丈夫、私が何とかする。母として一歩踏み出して言うべきことを、藍奈は口に出せなかった。


「どうして、あの人に何を言われたの!?」


 いつまでも理由が分からない怒りと、不安による悲しみの感情が荒々しく混ざり合ってゆく。真澄の瞳が若干だが潤んでいるのが、こちらにも伝わってくる。


「……もう、何もかもがもう遅いのよ!」


「マ、マ?」


 自分の感情を露わにする度に蘇ってくる、幼かった頃の記憶。せっかく大好きな人と結ばれて幸せになれたと思ったのに、また辛かった毎日に逆戻りするのは絶対に嫌。


 そうだ、どれだけ振り払おうとしても、自分という単語がどうしても頭から離れない。


「この家を守るためなら仕方無いの。分かるでしょ?」


 もう仕事に行く準備をしないと、と藍奈は席を立つ。せっかく一緒にいられると思ったのに、食卓にはまだ、食べかけのパンとココアが残っていた。


「でも私は……」


やっとの思いで、掠れた声で何かを言おうとしたが、既に戸は閉められており届かなかった。




その日の帰り、真澄はランドセルを背負ったまま祖母が住むマンションを訪れた。


「はぁ……ここか」


 住宅地の一角にある小ぶりのマンション。古臭さは感じないが薄暗いロビーに入り、母から教えてもらったパスワードを入力する。


「どうして私、こんなことしてるんだろ」


 叔父と喧嘩してからはここで一人暮らしをしている祖母。その時から、彼女の妄想癖が悪化して自分や母の藍奈に暴言や暴力を本格的に振るうようになった。


 自分は関係無いはずなのに、孫だからという理由で関わらざるを得ないことが余計に癪に障った。


「……みんな、隠し事ばっかり」


 荒い息遣いで急な階段を上り終え、腹立たしさも混じった力でインターホンを鳴らす。


「すみません、真澄です」


「ああ、今出るから待っとけ」


 そう言ってドアから出てきた老婆は、真澄の祖母である河村尚子。若干機嫌の悪そうな顔なのは、疲れているからなのだろうか。


「何か、言うことは無いんか?」


 入ろうとすると横から鋭い声をかけられた。やはり、彼女の態度は以前から何も変わっていない。


「おじゃまします……」


「違うわこのドアホォ! 遅れて来て大変申し訳ございませんでした、次から時間は守りますのでどうかお許し下さいって言うんやろ!? ホンマに生意気なのは変わらんなぁ。遅くまでアホみたいな友達とガヤガヤガヤガヤ騒いどるからこんな時間になるんやろ? あんなあ、神戸に宮川っていうノーベル賞取った科学者がおるんやけどな、その息子の話を最近聞いてん。門限一秒でも遅くなったら夜通し外に土下座さして家訓をずうっと暗唱させるらしいわ、トイレとか風呂は何も無しやでぇ? あれ聞いた時にホンマなんかって思ったわ、藍奈んとこなんてまだまだ甘いなって反省させられたなぁ。あそこまでやれなんて言わんけど、家族として目上の人は敬うという考えを……聞けェッ!」


 時間なんて全く伝えられていなかったのに。何かの発作を起こしたように尚子は怒り始め、その場にあった傘をこちらに向けて放り投げてきた。


「ごめんなさい、私が悪かったから……」


 しかし、真澄がそう言っても尚子の怒りは止まらずに声を上げ続けた。


「ごめんで済んだら警察は要らんのやカス! そうやって社会に出た時もごめんなさい一つ言えば何でもかんでも許してもらえると思ってんのか? はぁ、あんたの将来が不安やわ、藍奈にもし子供産むんやったら国公立出て医者でもやってこっちにも金入ってくるんやったら特別に許したるって言ったんやけどな……言うて出来損ないの子供は出来損ないって所か。もうええわ疲れたからとっとと入れクズ」


 狂った声が共用廊下に木霊する。真澄が何か喋る度に、尚子の怒りは増していくような気がした。


「早よ入れや、ばぁばを待たすな」


 藍奈がお手上げになるのも納得の態度だった。近所の人が何も言わないのは、難癖をつけられて執拗に攻撃されるのを恐れてのことだろうか。


「……」


 ため息をつこうとしたのを必死に抑えて、真澄は一歩一歩を踏みしめて尚子の部屋に入った。


「おい、人の部屋に入る時はお邪魔しますって言えやァ!」


 ……入ろうとした瞬間、まるで思い出したかのように再び物が飛んできた。




「もうすぐママが帰ってくる時間かぁ……」


 尚子とはもうまともな会話をする気力も無かった。定期的に乾いた音を出し続ける時計を眺め、真澄は気怠そうに呟く。


 この三時間、宿題を終わらせてはぼうっと考え事ばかりして、無駄に時間を使ったような気がする。


「そろそろ帰るね、今日はどうもありがとう」


 大して世話にもなっていないし、できればこれから関わりたくも無い。真澄が背を向けてマンションを出ようとすると、彼女は三度止めに入った。


「おい、誰が帰ってええなんて言ったんや?」


「……えっ?」


 ようやく重苦しい空気と薄汚れた臭いから解放される、そう思っていたはずなのに。


「ばぁばが帰ってええって言うまでは帰ったらあかんに決まっとるやろ、言わんでも分かるわ常識やでそんなことも分からんのか!? 藍奈が帰ってくるから何や、せめてそこの洗いもんと洗濯もんとばぁばの夕飯用意してから出てけ、日頃の感謝って言うんが分からんねんな、お前は!」


ハンガーで後ろから足を叩かれ、鋭い痛みが体全体を駆け抜けた。驚いて振り向くと、尚子が怒号を上げながら立ち上がっている。


「いやっ!?」


咄嗟のことで避けられず、逆に勢い余って畳の上で転んでしまう。


「藍奈も昔はあんたみたいに生意気やったわ。その度にばぁばがこのハンガーで叩いて全身腫れ上がらしてなぁ、ホンマに懐かしいわ」


「こんなこと……ママにも、してたの!?」


 そうやで、と間髪入れずに尚子は頷いた。昔というのは、恐らく一人暮らしを始めるずっと前の、実家の時からであろう。


 分かっていなかった。底の知らない祖母の曲がりきった人格は、ずっと前から染み付いている。


「何も知らんあんたに教えたるわ。家族っていうんは子供が親を敬って、汗水垂らして奉仕することによって成り立ってる。どんだけ金があろうと、地位があろうと、家族の絆の前では何の意味もあらへん」


 倒れた姿勢のまま一歩ずつ後退る彼女に、尚子は余裕を持った足取りで近付く。


「ええか、最後に勝つのは情やで」


「……!?」


 何か言い返そうとしても口が動かなかった。静かで、しかし威圧的な視線に縛り付けられ、返す言葉が無くなって頭が働かなくなってしまう。


 ランドセルを持って、申し訳程度のお辞儀をして、一目散にその場から逃げる。


「どんだけ背伸びしても……あんたはまだガキや」


 呪詛のような低い声が後ろから聞こえる。これが、真澄が最初で最後に感じた大きな恐怖だった。




「本当、何なの……!?」


 真澄は住宅街の狭い路地を歩いていた。砂利を踏む音でバカな犬が吠える。いつものことだが、夕方とは違うものもあった。


 自然と包まれる暖かい光とカレーの匂い。それに合わせて、家族の楽しそうな話し声も耳に入る。


「ご飯できたよ、いつまでもゲームしてないで早く来なさい!」


「はーい……今行くから」


 みんなが集まるのを笑顔で待つ母と、ただ今を無邪気に楽しむ子供。本当に羨ましかった。


でも、それはきっと自分に向けられたものではない。大切な家族も、悩みを話せる学校も、みんな変わって私を拒絶し始めたから。


「どうして、どうしてみんなは変わっていくの?」


必死に頑張っても、そしてひたすら走り続けても、真澄に答えは出せなかった。


「置いて行かないでよ、私とっても寂しいよぉ……!」


 凍り付いた心を溶かすような暖かい料理と、心が開けるような優しい言葉。それらを求めて、真澄は母の待つ家に帰った。




 尚子は真澄が帰ったのを見届けた後、満足そうな表情で紅茶を淹れ始めた。


「はぁ、ようやくガキがおらんくなって静かになったわ」


 自分が連れて来いと命令したことはすっかり忘れていた。茶葉が暖かいお湯と混じって香ばしい匂いを放ったのを見届けると、そこに多めのミルクを目分量で加える。


 ほんの少し冷めて程良い温度になった、やはりこれくらいがちょうど良い。


「……ええ甘さや」


 仕事をしない叔父と喧嘩してマンションに引っ越し、数年が経った。最初は何かと文句を付けていたが住めば都というもの、もうすっかりこの環境にも慣れ始めていた。


「もう少し、金があればええんやけどな」


 音が無ければ彩も少ない。蛍光灯が真っ直ぐに照らすリビングの中で、尚子は紅茶を啜っていた。


「せや、テレビでも……ん?」


 リモコンを取ろうとして立ち上がった時、自分の部屋を誰かがノックしていることに気付いた。


 河村さんいますよね、と。インターホンまで数回鳴らされたが、ドアの向こうから聞こえてくる声は明らかに家族のものでは無い。


「あいつらやな、こんな時間にクソッタレが」


 だが、尚子はどうにも聞き覚えがあった。ずんずんとわざと聞こえるように足音を響かせ、相手が驚く程の勢いでドアを開け放つ。




「ようこそおいで下さいました私が河村尚子でございます。隣に住んでいらっしゃる小鳥谷さんですよね? こんばんは、何か御用でございますか? インターホンは何度も鳴らさなくても聞こえておりますし、ノックする必要も無いと思うのですが……こんな時間に押しかけてくるなんて余程大事な用なのでしょうね。しかし私もそこまでお時間に余裕があるわけではありませんので、伝えたいことがあるのでしたらできるだけ手短にお願いしたいものですね」


 相手の会社員の男は狼狽えているようでまだ何も答えられない。尚子は頭の血管を浮き上がらせて、共用廊下の壁を蹴り飛ばした。


「ひいっ……!」


「早よ要件だけ伝えろ、クソ坊主」


 彼が来たのは今日が初めてではなかった。そして、ノックした理由も分かり切っている。


 騒音被害のクレームだった。迷惑を被ったとふざけた妄想を繰り広げ、近隣にいる住民も巻き込んでこちらを追い出そうとする。


「助け合いの心が分からんようやな。入居者同士、多少の音には目を瞑るんは当たり前やろ?」


 以前は玄関先で追い出していたが、無視したら警察を呼ぶと言い出し毎日蠅のように……尚子にとってはもう、我慢の限界が来ていた。


「だって異常ですよ、今日だって子供の叫び声が……!」


「孫が遊びに来たんやそんなことまで逐一説明せんとあかんのかドアホ! 言っとくけどな、騒音でっち上げて毎日毎日ケチ付けてくるあんたの方がよっぽどやかましいわ!」


 共用廊下の隅から隅にまで響き渡る怒鳴り声、当然他の入居者にも聞こえていないはずは無い。


 だが誰も何も言わない。うるさいやかましいと声を上げていた者たちは全員、尚子が暴力を振るって黙らせたから。


「二度と来るな、腹が立ってしょうがないわ」


「うっ!?」


 玄関から錆びたゴルフグラブを持って来て素早く構えると、流石に男は怖気付いたのか、背を向けて逃げ出してしまった。


「……ァァッ!」


 追いかけはしない。だが気の済まなかった尚子は、グラブを折れそうな勢いで壁に叩きつけた。


「ああ気に入らんわ、気に入らんのや、気に入らんなァ!!」


 誰も自分の文句を言わない、みんなが敬ってくれる世界。望んでいたものが手に入ったはずなのに、今目の前にあるのは行き所の無い虚しさだった。




 一方その頃、真澄の叔母である美咲は自宅の部屋で息子の面倒を見ていた。


「はぁ……どうして、こんなことに」


 眠っている和彦の頭には包帯が巻かれていた。異常は無かったと医師は言うが、それでも痛かっただろうし、彼の背負った心の傷はもしかしたら消えないかもしれない。


「ごめんなさい、和彦」


 久しぶりに真澄と会えて嬉しかったはずなのに、この子は……


 そう思いながら彼の頭を撫でていると、隣に置いていた携帯が鳴り響いた。また藍奈だろうか手に取ると、相手の名前に表情が凍り付く。


「か、母さん……!?」


 和彦に怪我をさせてしまったことが伝わったのか、それとも別に気に入らないことでもあったのか。どちらにしても、彼女の電話は無視できなかった。


「もしもし美咲です、こんばんは」


「ああ、すまんな。夜に電話かけて」


 怒っている声……ではなかった。どちらかと言うと、何かに打ちのめされたような悲しげな声。


「どうしたの、母さん?」


 そこで気が緩んでしまったのかもしれない。美咲の張り詰めた表情は消え、代わりに尚子のことが心配になってきた。


 今まで自分や藍奈に様々な暴言を吐いてきたのを、少しずつだが反省する気になったのだろうか。


「美咲。母さんな、ちょっと今の生活に耐えられんわ」


 しかし、美咲の淡い妄想は次に出てきた言葉によって粉々に打ち砕かれてしまった。


「また近所の奴らから苦情を入れられてん。私、死ぬべきなんやろか?」


「あっ……」


 思わず感情が声に出てしまう。今まで和彦を撫でていた手をゆっくりと離し、美咲は呆れ返って頭を抱えた。




「死ぬべきなんやろうか、きっとそうなんやろ?」


 答えられるはずも無い質問を尚子は延々と繰り返していた。いつもそうだ。これの仲介で美咲は何度マンションに行って頭を下げて回ったことか、もう数えることも忘れてしまった。


「あのね、静かにすればあの人たちは何も言わないからさ……」


「違うねん、あいつらは私をこのマンションから追い出したいんや。昨日なぁ、廊下のとこで上に住んでる専業主婦の曾根崎ゆうんと隣に住んどる田村が話しとるところを見たんや。何の話やろかと思って近付いたらピタリと話すのを止めて逃げていってん。んでさっき田村が来たんや。きっとなぁ、これは私がこう思ってるだけかもしれんけど、近いうちに田村は近所の奴全員連れて私を追い出そうとしとるんちゃうかなって思うんよ。あれ何時やったかな……上で釘を打つ音が朝に聞こえててん、あれは私が言うこと聞かんかった時のための鈍器を作っとるんやと気付いてな。全部、全部その時に繋がったわ」


 死ぬべきではない、母さんの傍にはいつも私たちが付いているから安心して。


 きっと尚子はそんな答えを望んでいるのだろうと思った。だが今日のこの時は、今の美咲にはそんなお世辞を言って彼女を元気付ける余裕も全く無かった。


「母さんが勝手に繋げてるだけでしょう? 曾根崎さんと田村さんが話していたのはただの雑談だし、釘の音は軽めのDIYだろうって以前説明したじゃない。何度も同じ話をさせないでよ」


 だから、ここは思い切って突き放した。すると尚子の怒りがみるみるうちに膨れ上がっていく。


「いやいやいやいやっ、私が痴呆症や言いたいんかお前はっ!? あんなぁ美咲、真剣な話しとる時にそんなふざけたこと言って……」


「もう良い、もう良いから!」


 耐え切れなくなって美咲は電話を切った。何度かしつこく連絡が来るが、震える手で電源を切って完全に隔絶する。


「こんなことで、和彦を悲しませるわけにはいかないから……」


 実家にいた頃は何度も尚子からは怒られた。出来損ないと罵られ、ハンガーで叩かれ、家から閉め出された回数なんて今更数えきれない。


 それでも……いや、だからこそ、息子には自分の夢を大切にしてのびのびと生きて欲しい。


「今度は、私が家族を守る番」


 電気を消して部屋を去る前に彼の手を握る。すると、弱い力だが握り返してくれたような気がした。




 翌日の学校でも、真澄は祖母とのやり取りを忘れることができなかった。


「最後に勝つのは情、か……」


 休み時間に流行りのファッションや店の話題を教室でする女子たち、外で大声を出しながらボールで遊び男子たち。真澄はそのどちらの輪にも入れなかった。


「これ見て、あの雑誌のコーデ再現してみたの!」


「凄い……とっても可愛い、イケてる!」


 今まで自分は誰よりも愛に溢れていると思っていた。でも、尚子と会ってからはそれが大きな衝撃と共に揺らぎ始めた。


「私には無いのかな……」


 何もする気が起きない。意外にも自分の心を包んでいたのは、恐怖でも焦りでもなく無気力だったとうっすら分かってくる。


「真澄、聞こえてる?」


「……話しかけてこないでよ」


 ぼうっと座っている真澄に近付いてきたのは葵だった。だが、今は彼女と話すような気分でもない。


「様子おかしいけど、何かあった?」


 眉が一瞬だけピクリと動いた……ような気がする。見せないようにしていたはずなのに、自分の考えていることを何度も何度も。


「いっつもそればっかりだよね。様子がおかしいなら何?」


 以前までのように突っぱねようとした。だが今回は、葵も簡単には引き下がらない。




「こら、そんなこと言って格好つけようとしないの!」


「むぅ……」


 小さな指で頬を優しく押された。空気が抜ける音がする、私はフグなんかじゃないのに。


「ここじゃ話せないなら……放課後、公園で話聞くから!」


 ちょっと、まだ話すなんて一言も。真澄がごにょごにょと言い淀んでいると、彼女は珍しく勢いで押し切ってきた。


「山田川公園。分かるでしょ、必ず!」


 嫌そうに目を細めて指を振りほどく。ここまで強く言われたら、断るのも少し面倒になってきた。


「あっそう、勝手にすれば……?」


 今は昼休み、公園へはあと一時間で行くことになる。真澄はどうすれば良いのかも分からず、既に憂鬱な気分になっていた。


「さあ、五時間目の授業を始めるぞ!」


 だがそんな真澄の気持ちとは裏腹に、時計の針は空気を読まずにカチカチと進んでいく。




二人で小学校から歩き、真澄と葵はようやく山田の里公園に辿り着いた。


「よし、着いたぁ!」


 時間が時間なのか公園には誰もいなかった。がらんとした空間に流れる川の音、夕暮れになりかけた黄色い空に葵は少し興奮している様子だった。


「ここに座ろう、ほら」


「……近いんだけど」


 一際目を引く大きな木の隣に、綺麗に整備された東屋がある。端っこに荷物を置いて、葵は真澄の隣に座った。


「何なの急に、ここまで連れて来て」


 互いの呼吸が聞こえてしまいそうになるくらいの距離。葵がどうなのかは分からないが、真澄はこれまでの流れもあって少し鬱陶しく感じた。


「真澄ってさ、家族の人と何かあったのかなと思って」


「家族……どうしてそう思うの?」


 いきなり葵は確信をついた質問をしてきた。どうせ間抜けなことを言うのだろうと油断していた真澄は、咄嗟のことに言葉が出てこなかった。


「真澄のお母さんさ、最近仕事に行ってるよね。毎朝鞄を持ってどこかに出かけているのを見るし、真澄も帰りは誰かの家に行ってる。お父さんの姿もあんまり見無くなっちゃったし」


 立ち止まっていると、どんどん真澄の心に歩み寄ってくる。恥ずかしさと、いつもずぼらで何もできない葵に主導権を握られていることの悔しさが沸き上がった。


「知ったような口利かないでよ、私の夢をバカにしたくせに!」


 きっと自分は涙が溢れていたのだろう。葵は驚き……僅かに微笑んでこちらを安心させようとする。


「そう、だよね。いつも真澄のことを全然分かってあげられなくて、今更信じてくれないのは当たり前だと思う」


「来ないで……早く離れてよ!」


 葵はさらに近付き、真澄を優しく抱きしめた。恥ずかしさと、葵に主導権を握られていることの悔しさから彼女はじたばたと動いて引き離そうとする。


「どうせ葵だって私に嫉妬してるんでしょ、都合の良い時ばっかり私を利用しようとして、私からみんなを奪って……私の方がずっとずっと可愛いのに!」


 泣いてしまったら負けのような気がして、だけどもう耐えられなくて。葵はそんな真澄に対しても、背中を優しく撫でてくれた。


「奪おうだなんて思ってないよ。真澄は私よりも頭が良くて綺麗で……いつも私の憧れだから」


 真澄はすぐには受け入れられなかった。そう言ったって、そのうち自分を騙すかもしれない。


「聞こえの良いことばっかり言わないでよ! 葵だってどうせ他のみんなみたいに私のことを、私をいじめて……うわぁぁん!」


 赤ん坊のように泣き叫ぶ真澄。ちゃんと話せるようになるまでは、もう少し時間がかかりそうだった。


「よしよし、私はずっとここにいるから」


 日光が屋根をすり抜けて薄暗い東屋を明るく照らす。周りにはもちろん誰もいなかったが、葵が頭を撫でてくれたお陰で不安が少しだけ和らいだ。




「そう、お父さんがあの時の事故で亡くなったんだね……」


 そこから、真澄は今まで起きたことを自分の言葉で話した。まだ完全に信じたわけではなかったが、それでも葵なら自分の気持ちを分かってくれると思って。


 全てをぶつけた後、彼女は改めて目を腫らす真澄に聞いた。


「私、家族がいなくなったこと無いからな……今まで当たり前のようにあった居場所が消えちゃうってなっても、あんまり実感湧かないかも」


 真澄はゆっくりと顔を俯けた。葵は確かに近付いてきた、なのにあと一歩で大きな壁に阻まれ、こちらに来ることはできないのだと気付かされる。


「やっぱりね。大切な友達が傷付いてることも知らずに、葵も私から離れていっちゃうんだ……」


 私の家族みたいに。涙が枯れ果ててもなお悲しみを滲ませながら呟く彼女はとても痛々しくて、悲しさが伝わってきた。


「……でも。私がまだ分からないくらい、真澄は今まで苦しい思いをしてきたんだって気付いたよ」


「葵……」


 自分が今まで経験したことよりもずっと辛い毎日を真澄は過ごしていた。自分だったらきっと耐えられなかっただろうし、彼女は自分の思っていたよりもずっと強かった。


 持っていた感情を全てぶちまけて赤くなった頬を、葵は突くのではなく両手で優しく包んだ。


「私は真澄から離れないよ。きっと……多分、ね」


 ここで引くという選択肢は無かった。家族が頼れないなら、今一番真澄の気持ちを受け止めるべきなのは、きっと幼馴染である自分なのだから。


「そこは、はっきり言ってよぉ……!」


 そんな葵の想いが少しずつ伝わってきたのか、真澄は必死に彼女の服の裾を掴んでいた。


「友達なんだったら私の考えてること全部察してよ、何もかもを包み込んで褒めてよ、苦しい時はいつも駆けつけて支えてよ、私を一人にしないでよ、助けてよ」


 そこで葵は、改めて真澄の表情を確認した。乾いていたはずの瞳から光が戻り、そこからさらに大粒の涙が零れている。


「難しいお願いだなぁ……でも、これから辛い時はきっと助けるからね」


 そういえば、いつまで自分たちはここにいるのだろう。親に何も言わないで来てしまったことを葵はふと思い出した。


「うう、うっ……!」


 でもしばらくは。この子が落ち着くまでは、傍にいてあげよう。




 その時、今まで物言わず鼓動を打っていた葵の心臓に異変が起きた。


「……あ」


泣いている彼女が可愛い。どうしてだろう、今まで何気無く見ていたのに、急に表情を崩した彼女が愛おしくて視線を合わせられなくなった。


「真澄、真澄っ……!」


 胸が苦しい、息をするのも思うようにできない。


 葵は今自分の身に起きていることが分からなかった。視界が大きくぐにゃりと曲がり、真澄の言葉も思うように届かない。


「葵……?」


「はあっ、はあ」


 何とか誤魔化さないと。そう思っても人形のように美しい真澄が壊れ、ボロボロになっている姿に興奮してその場に立ち尽くすことしかできなかった。




「大丈夫、葵!?」


 真澄にしばらく揺さぶられていると、葵はようやく元の世界に戻ってくることができた。


「あっ……うん、いや、何でもない」


 真澄はもういつもの表情に戻っていた。高鳴っていた心臓が感情を出し切った後のように冷えていき、徐々に今まで通りの自分になっていく。


 一体何だったのだろう、今のは。


「ちょっと疲れたみたい。昨日もちょっと寝不足だったし……」


 以前真澄が使っていた言い訳を盗んだ。壁に背中を預け、もう落ち着いたのに体調が悪いふりをして切り抜けようとする。


「もう、相変わらずズボラなんだから」


 あれは夢だったのだろうか。だが頭から掘り起こそうとするとまた胸がおかしくなりそうだったので、葵は記憶の片隅から消し去った。


 私と違って、真澄は大事なことには意外と気付かない間抜けだった。


「あはは、これじゃ全然格好付かないや」


 本音をぶつけ合い、明日から二人は何事も無かったかのようにいつも通りの大親友。でももし機会があるなら……


「これからもよろしくね、真澄」


「うん……こちらこそ、葵」


 あの輝きが溢れる美しい泣き顔を、もう一度この目に焼き付けてみたい。




  続く

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