第4話 私は何度も手を伸ばした

 葵と別れて一人で家に帰ると、一時は過ぎ去っていた寂しさが再びうっすらと現れ始めた。


「はぁ……」


 学校でどれだけ楽しいことがあっても家では一人。宿題を嫌々こなしても遊んでも本を読んでも、一人でいることの孤独は埋まらない。


「どうして私を一人にするの、ママ?」


 ポケットに入れた鍵を探る、ドアに近付く。嫌になる程やってきたいつもの動き。


 私はママの言うことを全部守ってきた。なのに誰も私のことを褒めてくれないのはどうしてだろう、傍にいてくれないのは何故だろう。


「ただいまー」


 返す人はどうせいない。真澄が玄関のドアを開くと、そこには……




 そこには、自分や藍奈のものとは明らかに違う黒い靴が一足置いてあった。


「おう、意外と遅いやないか」


「こんにちは……」


 家に来るなんて聞いていない。まるで自分の家のようにリビングのソファにふんぞり返り、尚子は気怠そうな声を発していた。


「挨拶ができるようになったのは成長やな……おい何か飲みもん出せ、目上の人を敬うんは社会の常識やぞ」


 後ろでため息が聞こえてくる。スーパーに寄ってきたのか、彼女のレジ袋からは漬物の臭いが部屋中に充満していた。


 不平不満をぐっと堪えて暖かいお茶を出すと、不意に視線が合わさった。


「今日は弘毅の所に行ってきたわ。あいつときたら四十過ぎてんのにまぁ暇さえあればパソコン触るかマンガ読むか地球滅亡言うかやからな。見合いの話してもロクに興味持たん、せやったらちょっとは警備員か運輸とかでもええから取り敢えず働けって言うたんやけど何かよう分からんことを叫び出してそこら辺のもんみんなほかし始めてなぁ。あほらしなって来たんや、あんたもそこ座れ」


「そう……なんだ」


 叔父の弘毅……河村弘毅とは久しく会っていなかった。事故を起こして職場を追われてから、ずっと家に閉じこもっていると聞く。


「藍奈らも大概やけど男はみんなあかんわ。斉藤は借金するし、弘毅はプー太郎やしなぁ……」


 頷きながら適当に聞き流していた真澄だったが、斉藤と言う言葉が耳に入って首を傾げた。


「えっ……パパが借金ってどういうこと?」


「何やあんた聞いてなかったんか。藍奈の奴、こういう時は変な気遣って説明せんねんな」


 今まで、もしかしたらと思うことはあった。でもいつも優しくて、私のすることは何でも褒めてくれる父が悪い人だなんて信じなかった。


 だが、渋い顔をしてコップを啜る尚子はそんな真澄の期待を簡単に打ち砕く。


「あんたの親父、斉藤鼓幡は借金をしてたんや。それも数十万で聞かへんで、こっちからだらしなく金を吸い尽くして」


 あの日の夜にあった激しい夫婦喧嘩が、頭の中に鮮明に蘇ってきた。




「理由はくだらんことや。パチンコなんかの博打にキャバクラ、結婚してからも若い女に金を貢ぎまくって、気が付いたらもう既に請求書の山がこっちに来とった」


 目から光を失って動かなくなった真澄を鼻で笑いながら、尚子はキッチンに置いてあるお菓子を手で探って何個か持って行った。


「何でそんなことしたんやって聞いても、もうやったことやからしょうがないやんって開き直りよってな。浮気相手と電話中に事故らんでも、そのうち離婚は確実やったと思うで」


「違う……違うよ」


 暴力は振るわない、叫ばない。ただ淡々と事実だけを並べ、真澄の心を徐々に追い詰めていく。


「そんなパパ、私は知らないもん」


 頭を抱えて首を左右に振る。浮気や借金……言葉では知っていても、今こうして身近に聞くと恐ろしさが一気に襲いかかってきた。


 取り繕っていた心が一気に剥がれ、本当の自分が剥き出しになっていく。


「パパもママもみんな私のために、私のためだけに必死になってくれてたの! そんな嘘までついてどうして私の家族をぐちゃぐちゃにしようとするの!? ばぁばの人でなし、早く出て行ってよ!」


 尚子は怒るわけでもなく、かと言って無視するわけでもなく、ただにたりにたりと奇妙な笑みを浮かべていた。買い物袋を持ち、去り際にそっと耳打ちをする。


「人を見る目ぐらいは鍛えといた方がええで。そういうんはな、後で後悔しても遅いねんから」


 手を出すよりも心を折った方が早い。そう考えているから、敢えて何も手を出さない。


 祖母の足音が徐々に遠のいていき、やがて何も聞こえなくなると、真澄はがくっと膝を折ってその場に蹲った。


「どうして、どうしてみんな私の思い通りになってくれないの?」


 涙を流せば尚子の思う壺。そう感じていても、瞳から溢れ出る感情を抑えきれなかった。


「嫌だ……一人ぼっちのまま、死にたくないよぉ!」


 何もかもが考えられなくなって咽び泣く。置きっぱなしにしていたランドセルからは、教科書や筆箱がはみ出てしまっていた。




 何も知らない母はそれから数時間後、はっきりしない足取りで家に帰ってきた。


「ただいま……」


「おかえりなさい、ママ」


 歩み寄るも、どこから話してよいか分からなかった。父のこと、学校のこと。打ち明けたい悩みや、今すぐ聞きたい疑問はたくさんあるはずなのに。


 あのねの一言が切り出せない。どんよりと空気が重苦しい。


「真澄。今日はさ……冷蔵庫にあるものでご飯済ませてくれないかな?」


 そして自分のことで精一杯になっていた真澄は、藍奈の表情からすうっと光が消えていることにすぐ気付けなかった。


「えっ……どうしたの?」


「ごめんなさい。ママね、もう何もする気が起きないの」


 こちらの手を握らず、まるで最初から何も見えていなかったかのように通り過ぎる。


「疲れた、苦しい、もう何もかも無くなっちゃえば良いのに……」


 荷物を置き、何もせずに自室の布団に潜りこむ。今までの母とは何もかもが違う、別人とも思える程に変わり果てていた。


「どう、して」


 母がいる、祖母がいる。家族は確かにそこにあるはずなのに、心が冷たく凍り付いてしまう。


 真澄は小さな手をぎゅっと握った。家が明るく暖かいと思い込んでいたのは幻だったことに、ここに来てようやく実感が湧く。


「どうして私を放ってどこかに行っちゃうの。私はこんなに寂しいのに、助けてって叫んでるのに……」


 自分のものとは思えない、悲しみと憎しみに満ちた低い声が喉から絞り出ていた。


「許せない」




「……よし、今なら」


 疲れ切った母がシャワーを浴びている時、大人しく座っていた真澄はふと動き出した。


 足音を消して部屋に忍び込む。革製の重たいバッグから財布を取り出し、来ないと分かっていつつも念のために辺りを見回す。


「ふふっ、ママが私を見てくれないから悪いんだよ」


 これも自分の居場所を守るためだから。そう言い聞かせて、紙幣を何枚か抜き取った。


「もっと可愛くならなくちゃ、みんなに愛されなくちゃ、大好きだって言われなくちゃ、お姫様にならなくちゃいけないの……」


 変えなければならない。両親に裏切られ、孤立し、ただ悲しみ怒ることしかできない現状を。


 いそいそとバッグを戻して証拠を消し、いつも通りの部屋に戻す。仕事をこなすので精一杯な母は気付くわけがない。真澄はにやりと笑みを浮かべた。


「ママの、バーカ」


 後は何事も無かったかのように自室に戻って宿題をするだけ。そう思っていると、無造作に放置されていた藍奈の携帯が鳴った。


「ん……もしもし」


 相手はいつも通りの美咲だった。あれ、と困惑する声が聞こえてきたので、聞かれる前に母は不在であることを説明する。


「お風呂に入ってるの、今」


「そうだったんだ……じゃあ、お母さんに伝えてくれないかな?」


 悲しげな様子は感じられなかった。どちらかと言うとほっと安心したような……今までのような暖かさの籠った声。


 しばらく母が戻ってこないことをもう一度確認した後、分かったと言いながら携帯を少し近付ける。


「和彦が退院したの。藍奈と真澄の二人に、伝えたいことがあるって」


 だがその一言で、有頂天になっていた真澄の心に一筋の影が差し込んだ。




 次の休日、まだ疲労の色を見せていた藍奈と共に美咲の家に向かった。


「ごめんなさいね、今は仕事で忙しいのに」


 彼女が心配していたのは真澄……ではなく母の方だった。気に入らない、私だって本当は来たくなかったのにと頬を膨らませながらわざとらしくお菓子を口に運ぶ。


「私のことだって心配してよ、もう……」


「全然大丈夫よ。それに、和彦の容体は気になってたから」


 しばらく待っていると、恐る恐る階段を下りながら従兄弟の和彦がこちらにお辞儀をしてきた。


 病院に行かせた後の姿は真澄も見たことが無い。頭には包帯が巻かれており、何より本人の表情からもあの時の記憶がはっきりと残っていることが分かる。


「こんにちは。あの……僕のことで迷惑をかけて、本当にごめんなさい」


 良いのよと母が優しい笑みで返す。良いわけがあるか、わざとらしく媚びを売って私から何もかもを奪おうとしているくせに。


 何を言うか、何を明かすか。バレてしまった時のために、真澄は頬杖をついて言い訳を考える。


「お医者さんからは大丈夫だって。でも、やっぱり階段はちょっと怖いみたい」


 辺りはふと静まり返る。もごもごと口を動かし、何かを言おうとする和彦の決断を待つ。


「今も頭はズキズキします。みんなが来て楽しかったのに、いきなり、全部がぶわってひっくり返ったみたいな」


 小学生とは思えないような言葉選び、包帯が巻かれていても分かる聡明な美しさ。だが心だけはまだ子供のようで、揺さぶられ、覚束ない様子が伝わってくる。


「どうして、あんなことになったの?」


「……それを、今からおばちゃんに話そうと思ってました」


 顔をぐるりと回し、最後に真澄の方に向く。一呼吸を挟んで和彦は意を決した。


「あの時に階段から落ちたのは、ま……」




 だが、覚悟していた瞬間はいつまで経っても訪れることが無かった。


「えっと、その、あのっ」


 指を差そうとしていた彼の手が止まる。誰にも気づかれること無く、真澄が殺意を込めた視線で次に出る言葉を制した。


「大丈夫、和彦?」


「ひいっ……」


 こいつは全部分かっている。でも私がちょっと睨んだくらいで怖気づいて何も言えなくなってしまう。臆病者、そのまま嘘でもついて誤魔化してしまえば良い。


 真澄の気迫が防ぎ、押し戻し、真実を伝えようとした和彦を封じ込めた。


「真澄ちゃんと一緒に遊んでて、その、下をよく見ていなかったんです。だから……僕が気を付けなかったせいです」


 結局、嘘をついた和彦はもう一度こちらに向けて深々と頭を下げた。


「そう……だったのね。でも、今回は大事に至らなくて良かった」


 泣きそうな目をしている。申し訳なさからだとみんな思い込み、本当は感情の奔流に押し流されたからだと信じる者はいない。


「私も……隣にいたら注意できたのにってすっごく後悔したの。だから、次からはお互い気を付けよう」


 そう、今ここで唯一勝ち誇ったような表情をしている真澄以外は。


「ねっ?」


「はい……」


 俯く和彦の姿からは覚悟が消えてきた。魂をごっそり引き抜かれ、明日を生きていく気力さえほとんど奪われてしまったような。


「ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」


 これが最後の一押しと言わんばかりに、真澄は恐怖で小刻みに震える和彦の手をぎゅっと握った。




「明日は学校だね、久しぶりに」


 真澄たちが去った後、和彦は何事も無かったかのようにランドセルの整理を始めた。


 溜まり切った宿題を忘れずに詰め込み、同級生からの応援メッセージを机に詰め込む。どこか取り繕ったような彼の態度に、美咲は少し疑問を抱える。


「大丈夫なの、和彦?」


「怪我はもう治ったよ。平気平気!」


 そうじゃなくて、と首を横に振る。言葉でどうにか誤魔化せても、小さな手の震えは隠せていなかった。


「何か……悩み事があるんじゃないの?」


 その時、和彦の手がピクリと止まって様子が明らかにおかしくなった。持っていた筆箱を思わず机に落としてしまい。ゆっくりとこちらに振り向く。


「な、何でも無い、本当に何でも無いから」


「そうなの?」


 隠さないでちゃんと話してよ、とは言えなかった。母として落ち込んでいる時の助けにはなりたかったが、それでこの子の傷がもっと抉れてしまったらと考えると、とても。


「無理はしないでね、行きたくなかったらまだ休んでても良いから」


 肩の力をぐっと抜いて、優しい声で安心させる。だが、美咲は最後にぼそっと放たれた独り言を聞き取ることができなかった。


「僕は何も知らないんだ……」




 それからしばらくして、学校での真澄の立場にほんの少しだけ揺らぎが生まれ始めた。


「あれ……斉藤さん?」


 葵と共に教室に入ると、奥で話していた数名の女子たちが首を傾げ始める。


「おはよう。ちょっとイメチェンしてみたの」


「すっごく可愛い……!」


髪型をロングからサイドテールに変え、お洒落なアクセサリーを身に付ける。些細な変化だったが、変化に敏感なみんなの反応は暖かく明るい。


考え方も必死な努力も噛み合わなかった以前の光景が、本当に嘘のようだった。


「これってミニかわのキーホルダーじゃん! 斉藤さんもアニメ観てるの?」


 何だ何だと人の視線が集まる。そう、みんなに愛されるお姫様というのはこうでなくては。


「毎週観てるよ。ミニかわグッズ欲しいってお願いしたら、ママがプレゼントしてくれて!」


 本当はこっそり買ったのだが、薄っぺらくて浅はかなクラスメイトたちがそれに気付くはずも無い。


 嘘と言う言葉を知らない笑顔と騒がしい金切り声が左右する。そんな中、教室からこっそり出ようとする生徒が視界の端に映ったのを真澄は無視しなかった。


「あれ、氷室さんどうしたの?」


 誰だっただろうと頭を捻り、嫌な記憶と共に蘇ってきた。体育の授業でわざと自分を避け、仲間外れにしようとした性悪な奴。


「あ、あの、そのっ」


「どう、今日の私とっても可愛いでしょ?」


 逃げるな、怯えるな。苛立つ気持ちをぐっと堪え、お世辞で塗り固められた笑顔で相手に圧を加える。


「そ……そうだね。綺麗、だと思います」


 良かった、と真澄は手を合わせて喜ぶ。以前の尚子がそうしたように、怒りを面に出さなくても相手の心を思い通りに動かせることがはっきりと分かった。


「変わってないなあ、やっぱり」


 そんな輪の中心からほんの少し外れ、葵も静かに二人の状況を見守る。




「ねえ、本当はお母さんから買ってもらった物じゃないんでしょ?」


 葵が若干の確信を持って聞いてきたのは、周りの話題が落ち着き始めた休み時間のことだった。


「だったら何?」


「別に、ただ気になったから聞いただけ」


 真澄の膝の上にちょこんと座る彼女。視界を丸ごと埋め尽くすような至近距離で、そして二人にしか聞こえないような小さな声で会話は続く。


「ママは私を見てくれなかった、家族なのに気にしてくれなかったんだよ。だから……仕方ないの」


 すぐに答えは返ってこない。葵は何度か相槌を打った後、言葉を頭の中でゆっくり噛みしめる。


「……バレちゃったらどうするの、それ?」


「大丈夫に決まってるでしょ。私、みんなや葵よりもすっごく賢いもん」


 本当かなあ、と振り向いたことで真澄の表情がようやく見えた。誇らしげな、悲しみや怯えを完全に振り払ったような顔。


 以前ならここでほっと安心していたことだろう。でも、葵はどこか心に引っかかるものがあった。


「悔しかったら、一回でもテストで私に勝つことだね」


涙でぐちゃぐちゃに崩れた時の方がずっと可愛かった。心臓が異常な程に高鳴り、いてもたってもいられなくなったあの時とは、やはり何かが違う気がする。


「うっ、じみーに痛い所を……」


 どうすれば良いのだろう、徐々に牙を剥き始めた自分の気持ちを抑えていくためには。


 いつまで考えても見つからない答えに悶々としながら、可愛らしいリボンを巻いた真澄と顔を見合わせて時間だけが過ぎていった。


「私を受け入れてくれない人はみんな消えちゃえば良いの。学校でも、家でもね」


 本来の道を外し始めたのは真澄だけじゃない。寧ろ、自分の方だったのかもしれないと思い始めた。




「そういえば、最近絵を描き始めたんだよね」


 学校が終わり、やり切った脱力感と疲れが混ざる下校の時間。独特な空気が流れる中、先に口を開いたのは葵の方だった。


「……そうなの?」


「風景とか、動物の絵を中心にちょっとだけだよ。写真とは違うカッコ良さがあるかなって」


 似顔絵とかはまだ無理だけど、と苦笑する。飽き性だった葵が何かに熱中しているのは意外だった。


「すっごい気になる。良かったら今度見せてよ」


 絵には真澄も興味があった。始めるのは敷居が高いように思えたが、同い年の親友がやっているのなら参考にしたい。


 葵は少しだけ歩くスピードが遅くなり、頬を赤く染めて恥ずかしがった。


「良いよ……下手だけど、それで良いなら」


 ボランティアの男性が下校する生徒たち一人一人に挨拶を交わす。二人も軽くお辞儀をしながら、大きい道路を足早に通り過ぎた。


「うん……?」


「真澄、どうかしたの?」


 葵たちの家はもうすぐという所で、真澄は何かに気付いた様子で立ち止まった。


 柔らかかった目つきがほんの少し鋭くなる。視線の先に何があるのか確かめようとすると、ふと彼女に制止された。


「先に帰ってて。ちょっと用事ができたから」


 でも、と問い詰めることはできなかった。言葉に出さずとも、良いから早く行ってくれと言われているような気がした。


「分かった。それじゃあ、また明日ね」


「うん、じゃあね」


 お互いに姿が見えなくなるまで手を振る。肩からずり落ちそうになっていたランドセルを直し、真澄は駐車場の前に立っている人物に声をかけた。


「こんにちは……ばぁば」


 こんなことは初めてだった。いつも家で待っていた尚子が、わざわざ外に出て迎えに来るなんて。


「話がある。マンションまで来い」




 最初は嫌な空気が蔓延していたように感じた祖母の家も、もうすっかり慣れてきたような気がする。


「あんたも礼儀正しくなったもんやな。流石はばぁばの孫や、鼻が高いわ」


 殴られたくないから余計なことは言わないだけ。思わず腹が立ってそう言おうとしたが、仏頂面のまま耐えて畳の上に正座した。


「こういうのを見とると家族っていう感じがするわ。全部がばぁばのために動いて、どいつもこいつもばぁばの前では申し訳なさそうに頭を下げる……」


 カーテンを閉め、パチリと電気を付けて回る。容赦無く降り注ぐ陽の光は居心地が悪いようだった。


「人は欲望のままに生きるのが一番や。誰かのために生きるより、蹴落とした方がスッキリする」


「そう……なんだ」


 早く本題に辿り着いて欲しくて真澄がもじもじしていると、尚子はその気持ちを察したのか両手をパンと一回叩いた。


「せや、大事な話があったから呼んだんや。すっかり忘れとったわ」


狡猾だと思ったらどこか抜けており、間抜けだと思ったら凶悪な怪物になる。このような人こそ全体像がはっきりせず、真澄にはどこか気持ち悪く思えた。


 傷だらけの座布団を敷いて乱暴にふんぞり返り、こちらと目線を合わせる。


「斉藤の件、あんたにはショックやったやろうな。いつも信じてた親父が博打のカスやったってなったら、ばぁばやったらどうしようもなくて暴れ回っとったと思うわ」


 おっさんもそこら辺だらしなかったからな、と尚子は既に入院した真澄の祖父のことをふと思い出す。


 まるで女優のように、言葉の一つ一つに妙な力が込められていた。感情の強さが出ている……わけではないと思う。どちらかというと、こちらの心を乗せるためのわざとらしい罠。


「ばぁばのモノになれ、真澄。そしたら悪いようにはせえへんから」


「どういうこと……?」


 尚子は手を差し伸べてきた。救いがあるようにはとても見えない、これ以上無い程の邪悪な笑みを浮かべながら。


「藍奈も美咲もホンマ使い物にならんわ。これも家族のためだからだの、勝手なことを言うなだの。ああいう連中は変に歳を食ったら生意気になるから適わん」


 先程まで家族だと呼んでいた人たちを平然とこき下ろす。真澄は彼女の手と、そして表情を交互に見比べた。


「だがあんたは違う。お利口さんやし品はあるし、何より芯がある。今ある悲しみをすっと乗り越えたら、真澄はもっともっと輝いて素晴らしい……金蔓になるとばぁばは思うとるんや」


 褒めとるんやで、と尚子は付け加える。言われなくとも、この老婆の頼みたいことはもう分かっていた。


「ばぁばを養って欲しいんや。ばぁばの身の回りの面倒を常に見て、働けるようになればお金を全てばぁばに回せ。そうしたら、ばぁばの人生はきっとバラ色になるやろうからな」


 提案……いいや、それは半ば強要に近いもののように思えた。一瞬も表情が動かない真澄に対し、尚子は腕をほんの少し上げて催促してくる。


「他のボンクラとは違う。あんたには、才能があるんや」




 今まで何度も考えたことがあった。家族がみんな私を受け入れてくれて、守ってくれて。私のためだけに生きてくれれば、どれだけ幸せだったのだろうって。


「ううん、私はそっちには行かないから」


「……はぁ、何でや?」


 でもそれは、きっとこんな方法で叶えるべきじゃない。


 もし家族が居場所じゃないのなら、家族よりも自分を愛して、認めてくれるような運命の人を探して自分の居場所をそこに作る。


「ばぁばの考える家族は間違ってる。無理やりみんなを従わせて、脅して。それでみんなと一緒にいる気になってるのなら……大きな勘違いだよ」


 真澄は差し伸べられた手に背を向けた。後悔はしない、振り向かずにただ真っ直ぐ進む。


「最後に勝つのは情なんかじゃない。血の繋がりに縛られずにお互いを想う、愛なんだよ」


 荒い呼吸が断続的に聞こえる。そう思って歩みを進めていると、壁に何か硬い物がぶつかって割れる音がした。


「生意気な。そういうことが言えるんはなぁ、一流の奴だけや」


 壊れてしまった花瓶の破片と、じわじわと流れていく透明な水を真澄は見下ろした。


「あんたみたいな奴が家族の絆に勝てるわけないやろ。せいぜい地獄に落ちて、もがき苦しむ姿をみんなに晒すことやな」


「ありがとう。ちょっとだけやる気になったよ」


 怒りで崩壊しているであろう尚子の顔は敢えて見なかった。ただただ無視して玄関へと進み、真澄は綺麗な夕焼けへと飛び込んでいった。




 その出来事から数日後、真澄は絵が描きたくなって徐に机に向かった。


「私は可愛いお姫様。みんなが羨む大きいお城に住んで、たくさんの召使いに囲まれて暮らしている」


 正直、頭の中の映像をそのまま紙に映すのはまだ難しかった。ただ葵に言われたことを参考にして、迷うことなく黙々と色鉛筆を動かしていく。


「家族の死にも泣かず、意地悪なおばあちゃんにも負けず。私は向かい風に揺られながら、ひたすら私は誰よりも可愛いと信じ続けた……」


 ただ、全体像が完成してくるとそれは徐々に輝きを放ち始めた。クラスの落書きや、媚びを売るような芸術作品にはとても出せない、そんな美しさが滲み出ている。


 これこそが、嘘偽りなんて無い自分だけの真っ直ぐな将来の夢。


「そんな私を待っているのは、白馬に乗った美しい王子様!」


 運命の人は必ず私を手招きし、豪華なパーティーで私の心を高鳴らせ、そして悪夢のような日々を取り払ってくれる。


「ああ……早く愛されたいなぁ」


 完成した絵は引き出しに仕舞う。辛いことがあったり、どうしようもなく悲しくなったりしたら、これを見て元気を貰えばきっと頑張れるはず。


 家族にも、友達にもきっと見せない。これは内緒のおまじない。




 それから数年後、真澄は葵と共に新しい中学校の門に立っていた。


「ようやくだね。ううっ、今から緊張してきた……」


 桜が吹雪のように舞って私たちを迎え入れる。昨日も一緒に遊んだはずなのに、制服を着た親友は何だか別人のようにも思えてきた。


 いいや、それでも私の方がずっと大人っぽくて綺麗だけど。


「何今からウジウジしちゃってるのよ。まったく、葵もまだまだね」


 これから新しい日々が始まる。楽しそうに話す同級生たちを軽やかに追い抜いて、真澄は門の境界線をほんの少し飛び越えた。


「私たちの毎日は……これからよ!」


 そう。出会いに湧き立つ四月のこの日、真澄たちは中学生になった。




 続く

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