第2話 みんなが私をいじめて

 間近に聞こえる救急車とパトカーのけたたましいサイレンが、交互に頭の中をぐるぐると回った。


「パ、パ……?」


 既に集まっていた見物人を掻き分けて走ると、交通事故が起きた現場がようやくはっきりと見える。


 見慣れた車が大型のトラックとぶつかり、電柱に衝突して停止している。相手側の運転手の様子は見えなかったが、父は変わり果てた姿でそこに座っていた。


 流血と、飛び散ったガラスの破片と、意味を為さなかったエアバッグ。真澄はまだ、目の前に広がっている光景が幻のように見えていた。


「……」


 真澄は石のようにその場から動けなかった。悲しみはまだ来ない、ただ昨日までいつものように元気だった父が他界してしまったという事実だけが、彼女の心を包み込んでいる。


「どうして……どうして、こんなことに!?」


 向こうでは母の藍奈が警察と何か話している。真澄は現場に背を向け、誰に気付かれることも無くその場を立ち去った。


 このふざけた夢はいつか覚める。いつ覚めるかは、誰にも分からないけれど。


「意味分かんないよ、ほんと」


 どうして父は死んだ、何故事故は起きた。それらの言葉を軽く押しのけ、喉から出てきた言葉はびっくりするくらい素っ気なかった。




 夜の十一時を過ぎ、ぼうっとする頭と目を必死に動かしていると、ようやく母が事故のあった現場から家に帰ってきた。


「おかえりママ、待って……」


「本当にごめんなさい……真澄っ!」


 鍵を開ける音を聞いて玄関まで下りていくと、目を赤く腫らした藍奈に抱き締められた。


「ごめんって何が? パパは助かったんだよね、ちゃんと帰ってくるよね?」


 息遣いの荒さがこちらにも伝わってくる。あの状態で助かるはずがなかったのだが、真澄はまだ信じたくなかった。


 ママが私を励まし、パパが私を支える。そんな当たり前の家族が壊れていくことに。


「ううん。あの人はもう、帰ってこないわ」


 だが、一度決まってしまった事実は二度と覆らなかった。藍奈は躊躇いながらも、鼓幡の死をはっきりと告げた。


「嘘……嘘、そんなの嘘!」


 真澄はそこで初めて、焦りと悲しみが胸の奥から湧き上がってきた。力が抜け、母に体重を預け、それでも全身の震えが止まらない。


「パパは私の大切な家族なの、簡単にいなくなったりなんてしないの! 今までだってこれからだって、ずっと私のそばにいて、私が困ったり悩んだりしたらいつでも助けてくれて、いつまでも私のためだけに生きてくれるはずだったのにぃ!」


「私だってそうよ……あの人がいなかったら、きっと今の私はいないから」


 真澄の言葉に隠された本当の想いには気付かない。火が付いたように泣き叫ぶ彼女をしっかりと抱きとめ、藍奈は背中を優しく叩き続ける。


「ママはこれからどうするの、ちゃんと家にいてくれるよね?」


 何だか嫌な予感がして、真澄はゆっくりと顔を上げて聞いた。案の定、母は黙り込んですぐには答えてくれない。


「それは……」


「お仕事に行くんでしょ? 私のことを放って、一人ぼっちにさせて」


 真澄は許せなかった。自分はこんなに悲しくて寂しい気持ちなのに、それを満たすどころか見捨てようとする母の行動が。


「真澄のことは絶対に見捨てたりしない。けど、今の生活を守るためには……」


 すぐには判断できないけど、仕事も探さないといけないと思う。藍奈の表情は、優しさと険しさの入り混じったこの上ない複雑なものだった。


「そんなの絶対に嫌、嫌ったら嫌なの! 行かないでママ、ずっとこの家で私と一緒にいてよっ!」


 こんなに近くにいるはずなのに、触れ合った肌からじんわりと暖かさが伝わってくるのに。真澄は自分の心が、不思議と徐々に冷え始めるような感覚がした。


「ママ、大好きなママ……私をもっと愛してよ!」


 こうしている間にもどんどん離れていく。距離が、考えが、心が、そして魂さえも。




 それから先は、笑顔の無くなった退屈な日々が続いていた。


「はっ……あ」


 誰かに起こされるわけでも、目覚ましをかけていたわけでもなく、自然に目が覚めて起き上がる。いつもは賑やかなはずの家は、もうすっかり静かになっていた。


「朝ご飯、食べなくちゃ」


 欠伸をしながらリビングに向かった。そこには誰もおらず、テーブルの上にラップで包んだ食事がポツンと置いてあるだけだった。


 そうだ。ママはもうとっくに起きて、仕事に行ってしまったんだ。


「いただきます……」


 返してくれる人はいない。冷めてしまったパンを頬張ると、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「どうして、どうして私だけ」


 ついこの前までみんなが家にいた。新学年で友達ができるか不安になって、両親が励ましてくれたことが遠い昔のように感じた。


「私、お姫様なのにぃ……!」


 初めて味わったような気がする。何をしても褒められない、誰も見てくれないこんな感覚。


 気を抜くと溢れ出てきそうな涙を必死に堪えながらご飯を食べていると、窓の方から聞き覚えのある声が飛び込んできた。


「おーい真澄、起きてる?」


 葵がもう家の前まで来ている。学校のことを思い出し、真澄は寂しさを振り払って窓を開けた。


「起きてるよ、用意できたらすぐ行くから!」


 事故については絶対に内緒。学校で変に意識されちゃうかもしれないし、もしいじめに発展したら大変なことになるから。


 母に言われたことを思い出し、真澄は今できる最大限の笑顔で食卓を立った。




「ねえ、昨日この辺りで交通事故があったみたいだよ」


 二人で事故現場を通った時、何気無く放たれた葵の言葉に真澄は思わず飛び上がりそうになった。


「お母さんが言ってたけど、トラックと乗用車の大きな事故だったみたい。私たちも気を付けないとね」


 お互いのランドセルが軽い金属音を立てる。どうやって彼女に接したら良いんだろう、頭の中がこれからの悩みでいっぱいだった。


「……ちょっと、聞いてる?」


「ああ、ごめん。ちょっと寝不足みたいで」


 大丈夫なの、と心配そうな声で聞かれる。そう聞かれると大丈夫だと答えるしか無かったが、本当は前に進む足取りさえ重たかった。


「久しぶりの学校だから緊張しただけ。参ったなあ」


 葵の目をしっかり見て話すことはできなかった。もしそうしてしまうと、自分の嘘がすぐにばれてしまいそうだったから。


 学校がどんどん迫ってくる。同級生たちの騒がしい話し声に、微かな言い訳が掻き消されてしまった。


「今日は一時間目から体育だったよね、頑張ろう」


 真澄は早足で校舎に向かう。不思議そうに首を傾げる親友の、鋭い視線を背中に浴びながら。




 ホームルームは何事も無かったかのように進行した。先生は何も言わないし、教室ではいじめの「い」の字も存在しない。


 ただわざと触れないようにしているのかもしれないし、真澄はそういった所が余計に癪に障った。


「さあ、体育だからみんな早く着替えて」


 先生の号令と共に体操服を着た生徒たちが校庭へと飛び出す。だが、朝早いからか眠たそうに欠伸をしている子も見られた。


「今日はボールを使いましょう。向こうの倉庫にあるから、一人一個で取りに行って下さい」


「はーい!」


 男子を中心に我先にとボールのある倉庫へと駆け込む。先生の指示がある前にバウンドさせ、投げ飛ばし、各々が好きなように遊んでいる。


「本当、バカみたいに騒いでつまんないの……」


「まだボールは投げないで、早くこっちに集まりなさい!」


 授業の内容は単なる投げ合いだった。後ろにいる人とペアを組み、練習をした後に混合でドッヂボールを行っていく。


 真澄のペアになったのは、あまり喋ったことの無いツインテールの女の子だった。


「氷室さん……だったよね。よろしく」


 中々喋らないのでこちらから口を開く。だが、手を差し伸べても相手の反応はあまり芳しくなかった。


「あ、あの、その……」


 変におどおどして要領を得ない。人見知りなのかと思っていたが、今までの様子を見ているとそうではなさそうだった。


 避けられている。真澄は特に理由は無いものの、本能的にそう感じ取った。


「何、言いたいことがあるならとっとと言ったらどうなの?」


「ひいっ! 何でもないです、ごめんなさいっ!」


 みんながキャッチボールを始める中、彼女は段々と腹が立ってきた。こちらは普通に接しているというのに、この氷室とかいう奴はなんて失礼なんだろう。


「何なのこいつ、憎たらしい」


 向こうには聞こえないように悪態をついた。ふと横を向くと、葵は楽しげに同級生と投げ合っている。


「私はみんなに大好きって言われないといけないのに、お姫様にならなくちゃいけないのに……!」


 ボールを持つ自分の手が震えているのを感じる。迷っている暇は無い。今ここでやらなくては、自分は周りから見捨てられてしまう。


 大丈夫だ、あいつが横を向いている少しの隙を狙って。


「お前斉藤と組んでるのかよ、ついてねえな」


「ちょっと聞こえたらどうするの、そういうこと言うのやめてよ!?」


 横の男子にちょっかいをかけられる氷室。目線を逸らしてしまい、相手がボールを構えていることにはまだ気付いていない。


「えっ……?」


 そんな彼女に向かって、真澄は顔面の中心だけを見て思い切りボールを投げた。




 彼女が思っていた通り、空中を舞うボールはとぼけた表情をして立っている氷室の鼻にこの上無い威力で命中した。


「い……あああっ!」


 突然の耐え難い痛みに思わず鼻を覆って蹲る。そこから血が溢れ出ていることを、遠くから眺めていた真澄は見逃さなかった。


 周辺の生徒たちや先生がようやく異変に気付き、氷室のもとに慌てて駆け寄る。


「おいどうした、大丈夫か!?」


「分かんないです、ボールがぶつかって血が……!」


 するとその場にいた全員がボールを投げた主を探る。込み上げてくる笑いを堪えながら、真澄はみんなと同じく焦った演技をして責任を逃れようとする。


「ご、ごめんなさい……合図をしてなかったせいで!」


 たかだか鼻血が出ただけのはずなのに、氷室の瞳からは涙が溢れていた。一人で立ち上がることができず、周りの人たち数名に支えられて動くその姿はとても滑稽に映った。


 そうだ、理由も無く私を避けて無視しようとするからこういうことになる。


「本当、自業自得だよね」


 また一人邪魔な人間が無様に消えて、思い描いた夢に近付いていく。真澄にとってこれ以上幸せなことは無かった。


「取り敢えず保健室に行くぞ、大丈夫か?」


「はい……」


 鼻血が出て醜悪な顔になった同級生の氷室は、教諭たち数名に運ばれて保健室へと連れられた。




 朝から体育で動き続けたため、昼を過ぎた辺りで真澄の眠気は頂点に達していた。


「ふぁぁ……眠っ」


 きっと鏡で自分の顔を見ると、この上無く気が抜けて疲れ果てた表情が見えることだろう。


 どうしてこうなってしまったのだろうか。母がずっと家にいた頃、眠れない日はいつもあの人が寝かしつけてくれていたことを思い出した。


「やっぱり、ママが家にいないからなのかな」


 取り繕っても消えない、何かが抜け落ちたこの感覚。他の子には分からないのだろうと思うと、周りにいる奴らが全員妬ましく見えてくる。


「ねえ真澄、ちょっと良い?」


「……ん、葵?」


 頭の中に再び黒い雲が広がり出した時、ふと後ろに座っていた葵がこちらに歩み寄ってきた。


「今日の体育の時さ……どうしてあんなことしたの?」


 他の人には聞こえないような小さな声だった。確信なのか、ただの勘なのか。珍しく彼女の表情は複雑で読み取りづらかった。


「何のこと?」


「わざとぶつけたんでしょ、あんな演技までして」


 じわり、じわりと葵の言葉が心に迫ってきた。怒っているわけではなく、寧ろ諭しているような口調なのが悔しくてたまらない。


 教室でふざけて走り回る男子生徒に一瞬だけ視線を向け、目を細める。


「悪くないもん、私は何にも」


 嫌な感覚だった。いつもなら頭が悪くて鈍臭い葵は私についてくるしか無かったのに、立場が逆転して説得されているみたいで。


「あの子は私を無視したの。変なことして、私をいじめたらどうなるか分からせてやっただけ」


「それにしてもやり過ぎだって。氷室さん、怯えて早退しちゃったんだよ?」


 だから何なの、と真澄は語気を強めて言い返す。勝手に怖がって逃げてわざとらしく避けて、残されたこっちの気持ちも少しは考えて欲しかった。


「良い? お姫様っていうのはどんな困難があっても負けちゃいけないの! いじめるような奴は追い出して、締め出して。そうしたらみんなが私のことを愛してくれるの……幸せになるためにはそれしか無いんだよ」


 目に見えない何かに突き動かされているように、真澄の口からはすらすらと言葉が出てくる。


 違う、そんな顔をしないでよ。私の知ってる葵は私の言葉を何でも肯定してくれて、褒めてくれて、いつでも私のことを支えてくれる親友のはずなのに。


「……そんなやり方でみんなから好かれようとしても、後で自分が嫌になるだけだよ?」


 彼女の態度に少し押されつつも、葵は半分震えた声で諦めず説得を続けた。


「何なのそれ、まるで私がみんなに媚びを売ってるみたいな……」


 いよいよ我慢の限界を迎えかけた真澄が大声を出そうとした直前、後ろからやってきた数名が話を遮ってきた。




「ねえ竹田さん、恋占いとか興味ある?」


 二人が話していた内容なんて知る由も無く、教室の端っこに集まっていた女子数名が笑顔で葵に駆け寄ってきた。


「えっ……占い?」


「そうそう。みんなの好きな人を当てたりとか、これから出会う運命の人は誰なのか、みたいな!」


 葵は突然話しかけられて困惑している様子だった。そういえば、最近この手の占いが女子の間で流行っていたような気がする。


「そうだね、ちょっと興味あるかも」


 彼女の表情がほんの少しだけ緩む。あんな幸せそうな顔、私には全然見せてくれなかったのに。


「ねえ。その恋占いっていうの、私も参加して良いかな?」


 さっきから誘われているのは葵だけ。仲間外れにされているようで、真澄は少しだけ怒りを滲ませながら女子たちに聞いた。


 すると、ほんの一瞬だけ彼女らの笑顔が硬直してしまった。


「えっと……ああ、斉藤さんも参加する?」


 すぐに表情と口調を戻したがそんなことで誤魔化せるはずが無い。こいつらは今、教室という空間で、休み時間という安らぎのひと時に、私という存在を除け者にしようとしている。


「へえ、葵は下の名前なのに私のことは名字で呼ぶんだ?」


 真澄はもう我慢の限界に達した。視界が一気に狭まり、ただ目の前の存在をどうにかして排除することで頭と心がいっぱいになる。


「私のことが嫌いだったらそうはっきり言えば良いのにさ。わざとらしく忖度して、誤魔化して、そんなことして本当に楽しいと思ってるの?」


「えっ……ううん違うの、そんなことは!」


 ようやく違和感に気付いた女子たちが少しずつ慌て始める。だが、今更慌ててももう手遅れだった。


「だからいちいち誤魔化すなって言ってるでしょ、私の話をちゃんと聞いてよ!」


 立ち上がってずん、ずんと相手に詰め寄る。集まっていた数人は後退りをして、葵の額からは一粒の汗が流れ落ちる。


「真澄落ち着いて、この人たちは別に……」


「人にされて嫌なことを他人にしちゃダメって、何回言ったら分かってくれるの!?」


 迷いは全く無かった。今まで自分が座っていた椅子を持ち、彼女らの間に向かって放り投げた。


 壁にぶつかって嫌な音が鳴り響く。教室にいた他の同級生たちも異変に気付いて、どよめきと悲鳴が入り混じる。


「なっ……!?」


「私を無視するな……いじめるなぁぁぁ!!」


 女子たちが目を見開いてぶつかった椅子を見つめ、そして振り向く。するとそこには、今にも殴りかかろうとする真澄の姿があった。




「一体何があったんだ。最近おかしいぞ?」


 授業が全て終わった後、真澄は再び職員室に連れて行かれた。とはいえ当事者の彼女が半狂乱状態だったため、そして状況が理解できなかったことも相まって先生も強い口調で責められなかった。


「彼女らは突然殴られたと言っていたぞ。もう一度聞く、何があってあんなことをしたんだ?」


 他の先生たちからも訝しげな視線を向けられる。真澄は早くここから出たかった、こんな所で偉そうな説教を受けている暇なんて無いのに。


「いじめてきたのはあいつらです。陰口を叩いて、クラス全員で私を無視しようと計画していました」


「……と、言うと?」


 そんな話は全く聞いたことが無かった。ぼそぼそと小さな声でしゃべる彼女に、先生は耳を傾ける。


「みんな私の可愛さに嫉妬してるんですよ。本当は大好きだって言いたいのに、自分には無い魅力がある人を認められない。私がいじめられたのは、みんなが私を羨ましがってるからなんです」


 次の瞬間、彼は驚いて真澄の方を見た。ふざけているような調子ではない、この子は本気で言っているのだと直感で気付く。


「は?」


「認められるわけないですよね? どんな理由があっても人の心を傷つけるような奴は消えるべきです。私は自分の居場所を守りたかっただけなんですよ」


 両手を広げ、真澄は決まったと言わんばかりににやりと笑う。


 ほら、先生たちも私の話が素晴らし過ぎて声も出ないじゃない。やっぱり私をいじめる奴は、文句を付けて無視する奴は学校にいちゃいけないんだ。


「それじゃ失礼します。これから大切な用事があるので」


 その場にいた全員が呆気に取られている間に、真澄はお辞儀をして職員室を出た。もう、担任の先生には止めるための言葉すら思い付かなかった。


「何なんだ、あいつは?」




 職員室を出ると、もう五時を回っているのにランドセルを背負った葵が待っていた。


「もう遅いし、待ってくれなくても良かったのに」


 真澄はそんな彼女に一瞬だけ微笑みかけ、そして静かに通り過ぎた。待ってと叫ぶよりも先に、葵の身体は勝手に親友の手を掴む。


「もう良いでしょ、真澄?」


「何でも分かり切ったようなこと言わないでよ。葵って、私よりテストの点数良い時あった?」


 だが、真澄の瞳には誰の姿も映っていなかった。ただ使命的に、何かに突き動かされるように前だけを見ている彼女は何かに取り憑かれているようにも見える。


 以前のような彼女じゃない。いいや、今まで気付かなかった自分がおかしかったのか。


「一緒に……帰らないの?」


 どんな言葉をかけようか迷った上で、結局葵の口から出たのはいつもの言葉だった。


「今日は親戚の家に行かなくちゃ、また明日ね」


 彼女が振り返ったのは、ほんの一瞬だけ。何度も聞いたはずのこの言葉に、葵は言葉に言い表せない壁のようなものを感じた。


「ねえ、どうしてそっちに行こうとするの?」


「……」


 目に見える何かが変わったわけじゃない。だが触れられる場所にいるのに、一緒に話せるはずなのに、あの子はもう遠くに行ってしまった。


 届かない。助けようとしても、必死に手を伸ばしても。


「そこに、私の欲しいものがあるから」


 靴箱はもうすっかり、使い古して薄汚れた上履きだらけになっていた。




 その日の夜、真澄は仕事を早く終わらせてきた母と合流してとある場所へと向かった。


「やっぱり、いつ見てもここは大きいね」


 真澄の家と比べても一回りは大きい屋敷で、表札には本村と書いてある。インターホンを鳴らすと、足音と共にこの家の主がゆっくりとドアを開けた。


「あらこんばんは、久しぶり」


 出てきたのは叔母の本村美咲だった。藍奈の妹にあたる人物で、この辺りでは有名な医者の夫と息子の三人で暮らしている。


 さあ入って、と言わんばかりに二人を招き入れる。先に入ったのは母の方だった。


「お邪魔します……」


「わーい、叔母さんの家はやっぱり綺麗だね!」


 洋館のような美しい内装。飾ってある絵画や棚の全てが、真澄にとっては憧れの物だった。


「こら真澄、はしゃぎ過ぎちゃダメよ」


 それをやんわりと宥めつつ、藍奈は美咲の後を追って歩き続ける。日中は光を取り入れていたであろう天窓が、今は曇り一つ無い夜空を映し出している。


「それにしても急に予定が空くなんてね。最近調子はどう?」


「忙しさは本当に相変わらずって感じかなあ……私も、それにあの人もね」


 キッチンに向かってコンロのスイッチを入れる彼女。それを見ると、かつて父がいた頃の藍奈を思い出さずにはいられなかった。


 つい先程まで輝いていた笑顔が、ほんの一瞬だけ凍り付く。


「何してるの、もうご飯できるから早く手を洗ってちょうだい」


「……あ」


 あの時から隈が増えてやつれたような気がする……そんな母の声で真澄は現実に呼び戻された。


「うん、分かった」


 要らぬ心配だと自分に言い聞かせる。しばらくは崩れたままだろうけど、自分の家族もきっと元に戻れるはずだ。


 こんな風に、楽しく、底抜けな幸せを全身に浴びながら。


「ごめん、すぐに洗ってくるね」




「お、美味しそう……!」


 真っ白なシチューと、程良く焼けたグラタン。二つの香ばしい匂いが食卓に広がり、その場にいたみんなに笑顔と空腹を伝染させた。


「よぉし、いただきます!」


 ふぅ、ふぅと息を吹きかけ、適度な温度になったことを確認して口に運ぶ。それでも少し熱かったが、真澄はその味にどこか懐かしい感覚を覚えた。


 優しい味、まるで何かに包み込まれているような。


「どう、美味しい?」


「もちろん!」


 美咲の夫と息子はそれぞれ職場と塾に行っており、今座っているのは藍奈と真澄、美咲の三人。この人数で食事をするのは、本当に久しぶりのことだった。


 この家に生まれていたら、あんな寂しい思いはしなくて済んだのかな。食べ進めていくと、そんな想像が頭の中を横切った。


「そう、それなら良かった」


 美味しいご飯、それに和気藹々とした食卓。今日学校で起きたことなんてすっかり忘れていた。そう、この時までは。


「そういえば真澄、藍奈から聞いたよ?」


 何が、と真澄はふと手を止めて顔を上げた。物憂げな、心配そうな。そういった感じの口調に聞こえる。


「同級生の男の子をいじめたって。私それ聞いてびっくりしたよ、あの優しい真澄がそんな酷いことするなんて」


「そ、それは……」


 先程とは打って変わって彼女と顔を合わせられなくなった。美咲の表情は、昼休みに説得してきた葵のものとよく似ている。


 優しいようで、ほんの少しだけ憐みの混じったような、分別のつかない子供をあやすような目。まるで自分が幼稚ないたずらをしているようで、見る度に腹立たしさと悔しさが沸き上がってきた。


「仕方なかったの……私の意見、取り入れてくれなかったから」


 こっちだって言いたかった。どうしていつも優しい叔母さんが、私を傷付けるようなことを言うの、と。


「だとしても殴ったら絶対にダメよ……真澄だって同級生に同じことされたら、きっと辛いでしょ?」


 そんなことは私の知ったことではない。私の心にひびが入った、だから仕返しをする。それだけでどうしておかしいと言われなければならないのか。


 重苦しい空気になった食卓に、幼い子供の声が耳に飛び込んできた。


「ただいま、お母さん!」


 まだ小学校の低学年だっただろうか。丁寧に靴を揃え、藍奈にもお辞儀して、年不相応の礼儀正しさをしっかり抱えてこちらにやってきた。彼は真澄の従兄弟の、本村和彦。


「真澄お姉ちゃん、こんばんは」




 美咲はおかえりと返して彼の頭を撫でた。こちらと話していた時よりも、さらに明るく優しい態度で。


「塾はどうだった、和彦?」


 この時間であるにもかかわらずランドセルを背負っている。学校帰りに塾にも通っており、学んだ内容をすぐに復習しているのだろうか。


 どちらにしても真澄にとっては興味の無い、どうでも良い話であった。


「頑張ったよ! この問題をすぐ解いたら、先生が凄いって褒めてくれて!」


「あらそうなの、偉いね」


 すると、今まで何も喋らなかった藍奈が何事も無かったかのように口を開いた。


「和彦は本当に凄いわね、確か中学は私立に行くんでしょ?」


「そうね、一応受験を受けるつもり。難しい所ではあるけど、きっとこの子なら大丈夫よ」


 真澄は胃の中に入ったシチューが戻ってきそうな感覚を覚えた。みんなして私じゃなくて和彦を持て囃して、本当に気持ちが悪い。


「真澄も和彦を見習いなさい。仕事で疲れた藍奈を支えて、家を守れるのは貴方しかいないんだから」


 急に話を振られた時も、彼女はわざと取り繕ったような愛想笑いしかできなかった。


「あは……あはは、そうだね」


 みんなが集まっている、暖かいご飯も並んでいる。でも、自分の求めていたものはきっとこれじゃない。真澄は自分の分を食べ終わると、素早く席を立って食卓を去った。


「ごちそうさま。ちょっとトイレに行ってくるね」


 何か言われたような気もしたが、彼女は振り返ることができなかった。




「まずい……まずい、まずい。こんなのじゃ全然ダメ」


 寒くもないのに変な汗が止まらない。真澄は周りに誰もいないことを確認すると、トイレの扉にもたれかかって座り込んだ。


「もっと愛されなくちゃ。私は誰よりも可愛いのに、和彦なんかに負けちゃったら……」


 敵は学校だけではなく、家の中にもいる。まさかあの子が周りに媚びを売り、私から居場所を奪おうとしているなんて思いもしなかった。


 このまま放っておいたら、残った家族さえあいつのものになってしまう。


「誰がこの世界で一番可愛いのか、分からせてやらなくちゃね」


 これはきっと大きな試練なんだ。自分にとって邪魔な奴を、嫌いな奴を全員消して、私だけが立派なお姫様になるための。


それなら私のやるべきことはただ一つ。そう信じて、真澄は再び立ち上がった。


「見てなさい、和彦ぉ……!」


 小さな窓に映った自分の姿は、今までよりも希望に満ちているような気がした。




 宿題を手早く終わらせた和彦は、何も知らずに車のおもちゃで遊んでいた。


「ぶーん、ぶぅ……」


 ここは二階の部屋で、美咲たちはまだリビングで話している。仕掛けるチャンスなら今しか無い。


「ねえ和彦、ちょっと良いかな?」


 和彦のもとに笑みを浮かべた真澄がゆっくりと歩み寄る。無造作に走らせていた車を脇に止め、彼は勢い良く振り向いた。


「どうしたの?」


「下にもっと面白いおもちゃがあるよ、一緒に遊ばない?」


 たまにしか会わないのでどういう誘い方をしたら良いか難しかったが、意外にも彼は頷いてすんなりついてきた。信用されているのだろうか、寧ろ都合が良い。


 廊下に出ても他の物音はほとんど聞こえなかった。自分の家なら筒抜けなのに、ここは異様に広い。


「階段、こっちで合ってるよね?」


 結局誰も出会わずに階段まで出てくることができた。ここの目の前で真澄は少し立ち止まり、和彦に先に下りるよう促す。


「ねえ、面白いおもちゃってどういうやつ?」


「うーん、どう言ったら良いんだろう……」


 疑いもせず一歩を踏み出す。こちらの表情にすっかり目が行ってしまい、足元はあまり見えていない。


「分かりやすくて爽快で……それに、バカみたいなおもちゃかな」


 進み出す和彦の足をこっそりとかけた。真澄が最後に見たのは、何が起きたのか分からないという彼の表情だった。


 視界がぐらりと揺らぎ、体勢が崩れ、そして一気に落ちていく。


「えっ……?」




「な……何の音!?」


 幼い子供の叫び声と共に、何かがひっくり返るような音が家中に響き渡った。


「どうしたの!?」


 藍奈と美咲は異変を感じてすぐに声のあった所に向かう。階段の近くまで行くと、口から血を流した和彦が頭を押さえて倒れていた。


「和彦……ねえしっかりして、和彦っ!」


「ちょっと、一体何があったの!」


 必死に痛みを食いしばりながら全身を震わせている。そんな彼の姿を見て一気に血の気が引いた。


 真澄も肩を揺さぶってどうにか起き上がらせようとしていたが、頭を強く打ってしまったのか動くことができない。


「前を歩いてたんだけど、階段から転んじゃって……どうしよう」


 彼女の表情も真っ青になっているように見えた。久しぶりの親戚と会えた場で、まさかこんなことになるとは思っていなかったのだろう。


「取り敢えず真澄はあっちに行ってなさい。ここは私たちが何とかするから!」


 口を切っている以外に目立った怪我は見られなかったが、頭を打ったという点が心配だった。


「ううっ……いたい、頭が」


「取り敢えず病院に運びましょう、この近くで開いている所は!?」


 真澄は言われた通りに物陰に隠れた。ちょっと足をかけただけなのに、あんなに慌てるなんて。


 入院させて後遺症まで背負わせるつもりは無かったが、これで目障りな従兄弟の姿が見れなくなると思うと済々した。


「面白いなぁ、本当に」


 私よりもでしゃばるからこういうことになる。ざまあみろ、と言わんばかりに彼女はぺろりと舌を出した。




 それから数時間後の深夜、真澄も藍奈も自宅に戻った後に彼の経過が電話で伝えられた。


「脳に損傷は無いみたい。打撲がちょっと酷いけど、一、二週間くらいで治るそうよ」


「良かった……もし入院にでもなったらどうしようかと」


 藍奈はほっと胸を撫で下ろした。二人で病院まで運んだ時は歩くことも厳しかったので、連絡が来るまではもしかしたらという一抹の不安があった。


 だが、無事だからといって何もかもが解決というわけではない。


「今まであの子が階段から落ちたことなんて無かったんだけどね。外にお出かけする時もちゃんと周りを見て歩くし、登下校の時も転んだことなんて……」


 別にそれは有り得るんじゃない、と言いかけた藍奈の動きが止まった。


 何だか、真澄の反応が少しわざとらしかったのだ。言葉には言い表せないが、和彦が落ちた直後も悲しんでいたかと思えばすんなり動いていた。


「真澄から、詳しく話を聞いた方が良さそうね」


「別に急がなくても大丈夫よ。今日はもう遅いし、明日になって落ち着いてからでも良いから」


 当事者はベッドに入って眠っていた。あんな事件が起きた後とは思えない程、それはもうぐっすりと。


「分かった。また何かあったら連絡し……あれ?」


 あまり長話をするのも付きっきりの彼女にとって迷惑だろう。藍奈がそこで話を終えようとした時、どこかから連絡がかかっていることに気付いた。


「着信が来てる。ごめん、もう切って大丈夫?」


「ええ、こちらこそこんな時間までごめんなさいね」


 そう言って受話器を一旦下ろした。すぐに着信元を見ると、藍奈は再び動きが止まってしまう。


「えっ……?」


 まさか、時間はもう午前一時を回っているはず。


 どうしてこんな時にという疑問を頭から振り払う。疲れと焦りで震える手で番号を入力して、すぐにリダイヤルをかける。


「もしもし、何の用事?」


 先程美咲と話していた時とはまた違う、深刻さが入り混じった低い声で話した。




 そして、返ってきた言葉は流れるような怒号だった。


「何の用事ちゃうやろバカタレがァ! あんなぁ、目上の人と話すときはまず挨拶から始めぇって何百回何千回言ったら分かんねん。こんばんは、こんな遅くに何の要件ですかって。そういう言い方をせんと相手に不快な思いをさすって普通分かるやろ? そもそもなぁ、こっちが要件話す前に用事は何って聞くのをそもそもやめぇ、失礼やわ」


 しわがれた老婆のような声だった。だがそんな声色とは裏腹に、口調は妙に棘があって荒々しい。


「ごめんなさい。でも、母さんがかけてくるのは珍しいなって……」


 藍奈は電話の向こうで頭を下げた。心が締め付けられるように痛く、果てしない緊張と恐怖でまともに頭が回らない。


「言い訳すんな、このドアホが」


 それに対して藍奈の母、そして真澄の祖母である河村尚子は怒りを滲ませてそう言い放った。




 続く

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