第20話 最終決戦・序章

「連続殺人事件は、完全に終わったか……」


 芦屋の六麓荘に巨大な屋敷を構える芦屋財閥。その当主である芦屋一蔵は、新聞の記事を見て険しい表情をしていた。


 連続殺人事件については地元の新聞でも取り上げられていた……瀬名が犯人として。


「しかし、あの探偵たちはこの日岡瀬名という男が犯人だと気付いていたのか?」


 一蔵は前に立っているメイド、御影清良に聞いた。


「いえ、関わりはあったようですが話によるとノーマークであったそうです。証拠が揃っていなかったこともありますが、表向きは真っ直ぐな人物で、殺人とは縁遠いように見えていたと」


「人は見かけでは判断できない……ということだな」


 だが犯人が自殺したことも相まって、事件の概要が知れないのは複雑に感じた。そういった面では、一蔵や清良も正体の分からない違和感を抱えていた。


「ううっ……!」


 彼は徐に椅子から立ち上がろうとしたが、一瞬よろけて転倒しそうになってしまった。清良が慌てて駆け寄り、体を支える。


「大丈夫ですか、芦屋様!」


 今まであまりこのようなことは無かったので、彼女の表情には驚きと焦りが混じっていた。


「ああ問題無い、少し眩暈がしただけだ」


 一蔵はそれを手で軽く制し、清良を心配させるまいと笑顔を見せた。


「もう歳なのかもしれんな、困ったものだ」


 清良も一瞬目を丸くしたが、どうやら大丈夫そうで安心した。立ち上がって部屋を出ようとする彼に付き添い、共に歩く。


「ご無理はなさらないで下さい」


 だがこの後一蔵の命が今までに無い危険に晒されてしまうことを、この時の清良は知る由も無かった。




 一蔵のやり取りから数時間後、清良の携帯に着信があった。


「……む?」


 相手を確認すると、それは彼女が何回か目にしていた番号だった。素早く物陰に隠れ、手慣れた動作で電話に出る。


「はい、こちら芦屋財閥の御影でございます」


「ああこちらご無沙汰しております、兵庫県警の高橋です」


 電話の相手は清良とも面識がある警察の人間だった。明るい声の男性だが、今回は少々焦っているようだった。


「どうされましたか、高橋さん?」


 清良も首を傾げながら、そう聞いた。


「突然のご連絡になってしまい申し訳ありません。少々川田製作所の一件で、トラブルが発生しまして……」


「トラブル?」


 川田製作所の拠点に潜入してから、清良自身もこの会社が辿ってきた歴史を明らかにするべく調査を進めていた。


 順調に進んでいた、はずなのに。


「ここでは経緯が説明しにくいので、こちらの警察署に来て頂けませんか?」


 清良は天井を見上げながら今日の予定を確認した、恐らく大きな用事は無かったような気がする。


「分かりました、すぐに向かいます」


 そしてしばらくやり取りをした後、清良は車で警察署に向かうことにした。




「行くのか、御影?」


 エンジンを起動すると、車の窓から話を聞きつけた一蔵が心配そうに見つめてきた。


「はい、用を済ませたらすぐに戻リます」


「……頼んだぞ」


 清良は頭を下げた後、窓を静かに閉めた。だがその瞬間がとてつもなくゆっくりに見えた。


「行ってまいります、芦屋様」


 いいや、きっと自分の気のせいなのだろう。清良の乗った車は静かに走り出し、一蔵に見送られながら屋敷を出た。


 黒い雲が、こちらに向かって伸びてきていた。




 警察署に到着し、清良は入り口にいた人物に事情を説明した。


「芦屋財閥の御影と申します。高橋さんという方に呼ばれて来ました」


「かしこまりました。確認してまいりますので、少々お待ち頂けますでしょうか?」


 恐らく係の者と思われる人が奥に入っていった。清良は後ろにあった椅子に腰かけ、高橋が来るのを待ちながら、中の様子を少し観察していた。


「やはり何か……慌ただしいですね」


 窓口に人が殺到しているわけでは無いが、中では大きな声や、走る音が頻繁に聞こえてくる。


 清良は待っている間、川田製作所について調べたことを振り返っていた。


「ふむ……」


 情報収集により、川田製作所は元々小さな町工場であったこと。そしてその工場が震災で倒壊し、再建されてから急成長を遂げて今に至ることが分かった。


 彼らの言葉にあった「始まりの日」というものも、これで説明がつく。そして、兵庫県に対して恨みを抱く理由は……


「お待たせしました、御影さん」


 十分程待っていると、ようやく高橋が来て奥の部屋に案内された。


「こちらへどうぞ」


「ありがとうございます」


 やはり高橋も一切の休み無く働いていることが伺え、以前よりも痩せて顔色も悪くなっているように見えた。精神的にも参っていることだろう。


「本日御影さんをお呼びしたのは、先程兵庫県警本部にこのような脅迫文が送られてきたからです」


 彼はそのように言って一枚の紙を持ってきた。清良も驚きながらそれを凝視する。


「これは……!?」


 脅迫文の内容を目にした時、彼女の表情が固まった。




 明日の正午、兵庫県警察本部並びに兵庫県庁の破壊を行う。紙にはそれのみが書かれており、差出人や詳細については何も記載されていなかった。


「これは……まずいですね」


 ただ、いたずらという可能性も十分に考えられる。清良が無言で視線を送ると、高橋が状況を説明し始めた。


「こちらはFAXで送られてきました。既に爆弾が設置されている場合も考え速やかに調査を行いましたが、その心配は無いようです」


 だがそれで安心というわけではなかった。万が一何かが起きる前に対策を練らなければいけないため、当然ながら緊張状態は続いていた。


「今後の状況を見極めて、周辺の避難指示も行います」


「そう、なのですね」


 清良はそう言ったものの、まだ理解が追い付いていなかった。川田製作所の件がようやく解決すると思ったのに、まさかこのようなことになってしまうとは。


 しばらく沈黙の時間が流れ、高橋が清良の表情を見ながら口を開いた。


「FAXの発信元は特定できましたが、空き事務所になっていました。もし本当にこの建物と県庁が狙われているなら、川田製作所によるものである可能性が高いと思われます」


 以前清良と紫音たちが川田製作所の拠点に侵入した際、中の部屋で多数のライフルや爆弾が発見された。それらは警察が押収したが、まだ川田がどこかに兵器を隠している可能性は否定できない。


「彼らとしても、今のままでは確保されるのも時間の問題だった。だから最終手段に出たのでしょうね」


 油断していた。きっと大丈夫だろうという根拠の無い見通しが、大失敗を招いてしまった。


「私は屋敷に戻って芦屋様に今の状況を伝えます。高橋さんも何かありましたら、すぐに連絡をして下さい」


 清良はここに留まるよりも、何か自分にできることを考えたかった。


「分かりました、それでは」


 高橋に見送られ、彼女は兵庫県警を後にした。




 清良は車の中で、早速一蔵に対して電話をした。早くこの事実を伝えなければと思ったのだが、彼女はそこで違和感を持った。


「む……?」


 一蔵が電話に出ない。いつもならすぐに出るのに、何かあったのだろうか。


「どうしたのでしょうか?」


 しばらくしてからかけ直した方が良いのだろうか。彼女がそう思った次の瞬間、ようやく電話が繋がった。


「御影です。只今、兵庫県警で高橋さんとお話をしたのですが……」


「すみません、こちら菱田です」


 しかし、清良からの電話に出たのは使用人である菱田という女性だった。


「菱田さんですか? すみません、芦屋様は今どちらに?」


 すると、またしても驚きの回答が返ってきた。


「大変申し上げにくいのですが、芦屋様はお身体を崩されて病院に……」


「び、病院ですって!?」


 清良は背筋の凍るような感覚を覚えた。どうして、病気でそうなったのか、あるいは事故か。容体はどうなのか、どうして自分のいない間にそんなことが。


 考えるよりも先に体が動いていた。清良はアクセルを踏み、彼が入院している場所を聞き出して車を走らせた。




 一蔵は神戸市内の病院に搬送されていた。原因は心筋梗塞で、清良が出かけている間に倒れてしまったのだという。


「芦屋様……!」


 その清良は急いで病院に向かっていたが、まだ着く気配は無い。焦りが段々心を削り取っていく、気付けば、辺りに雨が降り出していた。


「どうすれば良いのです、私はどうすれば!」


 さらに速度を上げようとした所で目の前に赤信号が現れた。すぐに急ブレーキをかけ、少し体が前のめりになる。


 清良は胸が締め付けられるようだった。だが一蔵は、これとは比べ物にならない程苦しかったはずだ。


「くうっ……!」


 すぐに戻ると一蔵に言ったのに、大丈夫だと純に言ったはずなのに。結局自分は何かできると思い込んでいただけで、何もできていなかった。


「私はどうなっても良い、だから私から芦屋様を奪わないで……」


 悔しさで涙が溢れる。けれど、前に進まないといけない。そこからの道は、とてつもなく長く感じられた。




「続いて速報です。今日十時頃、兵庫県警察本部と兵庫県庁に爆破予告がありました」


 それから数時間後、ニュースや地元の新聞では爆破予告として大々的に報じられた。


「爆発物は発見されませんでしたが、皆様の安全を守るため、予告にある明日正午までは周辺に避難指示を行います」


 市長が緊急記者会見を行う映像が流れ、続いて街頭インタビューの様子も紹介された。


「うーん、何だか凄いことになってるわね」


 真澄は紅茶を静かに飲みながら、その様子をテレビで見守っていた。自分が住んでいる地域でこのようなことが報じられると、やはり不安は大きい。


「みんな仲良くすれば良いのにね。そうすれば誰も傷付かない、幸せな愛の世界ができあがるのに……」


 瀬名がいなくなって、彼女の家も以前より静かになってしまった。家の広さも、家具の多さも、一人では随分と持て余してしまう。


 だが真澄は笑っていた。空元気ではなく、本当に嫌なことなんて何も無いといった表情で。


「……まあ、そんなのきっと無理なのよね。みんな馬鹿だもん」 


 いつまでも無駄に喋り続けるテレビを消すと、リビングでは冷蔵庫の音だけが静かに響いていた。




「遂に、川田製作所が動き出したか」


 爆破予告のニュースを目にして驚いたのは、何も兵庫県に住む一般人だけではなかった。


 神戸の某所にある寂れたマンション。そこの誰にも知られていない地下空間に、川田製作所の傘下である犯罪組織のアジトがあった。


「ミスターカワダも強硬手段に出たね。余裕が無くなってきたか……」


 そこには小野市で警察官の仕事をしていたはずの、広野大和の姿があった。彼の向かいに座っているのは、杖を持った七十代くらいの老爺だった。


「おじいちゃんはどう思う? カワダに協力するか、見捨てるか」


 彼は大和の祖父にあたる存在で、この犯罪組織の長である森明恭二もりあききょうじ。見た目は弱々しい印象を受けるが、元は空手の師範だったことから身体能力も高い。


「川田が本当に県庁と県警を破壊し、この兵庫県の支配者として君臨するなら協力するつもりだ。だが……その可能性は限りなく低いだろう」


 恭二は大和の方を見上げてそう言った。掠れているが、心に響く重苦しい声だった。


「そうだろうね。奴らが思っている程、兵庫プリフェクチャ―は弱くないだろうし」


 大和は立ち上がった。アジトは日中でも暗く、小さな窓から僅かに光が入ってくるのみだった。


「さて、我々は傍観に徹するとしようか」


 川田製作所が爆破予告をする中、様々な人物がその行く先を見守っていた。




 清良はようやく病院に到着し、一蔵のいる病室のドアを開けた。


「芦屋様、ご無事ですか!?」


 彼は広い豪華な病室のベッドで、入院着を身にまとって静かに眠っていた。しかし清良が来ると、いつものような温かい笑顔を見せて手を振った。


「すまない、心配をかけたな」


 良かったです、でも本当に大丈夫ですか。そういった言葉が頭の中に浮かんできたが、清良は口に出すことができなかった。


「芦屋様……芦屋様!」


「気にするな、私はもう歳だからこういうこともあるさ」


 一蔵は笑顔を崩さなかった。だがその表情を見る度に、清良は自分自身の無力さに押し潰されそうになる。


「申し訳ございません、私が芦屋様のお傍にいれば……!」


 彼女はその場で膝を折って蹲った。両手で顔を覆い、涙を流し続けた。


「御影がいても結果は変わらなかったさ、こうなったのは私の責任だよ」


 一蔵はベッドから出て泣いている清良に近付きたかった。だが、無茶はできない。手を伸ばしても彼女に届かないという現実が、とても歯痒かった。


「私はこうやって普通に喋ることができるし、問題は無い。だが今夜に手術を行うそうだから、それは少し心配かな」


 清良はそこでようやく顔を静かに上げた。目が赤く腫れている、彼女のこんな姿を見るのは、一蔵にとっても初めてだった。


「そういえば、警察の人は何と言っていたのだ?」


「えっと、その……」


 どこから伝えたら良いか分からなかった。この事実を伝えれば、一蔵がショックを受けることは分かり切っていたからだ。


 それでも隠し事はできない。彼女は正直に、自分が耳にしたことを話した。


「実は明日の正午、川田製作所が……」




 初めて脅迫状の件を知った一蔵は、やはり渋い顔をして考え込んだ。


「そうか、大事になっているな……」


「周辺には避難指示を行うと仰っていましたが、川田は本当に何をするか読めません」


 小野市における連続殺人事件がようやく終結したと思っていたのに、悩みの種は尽きない。しかも今回は人通りの多い市街地が巻き込まれる可能性が高く、二次被害の部分も心配しなければいけない。


「もし私の容体が悪化しても構うな。いざという時になれば、御影は川田を止めることだけに集中して欲しい」


 一蔵の言葉に、清良はすぐに「はい」と言えなかった。それはつまり、彼を見捨てることに繋がるからだ。


「できません。私はいつまでも、芦屋様のお傍にいますから!」


 清良がそう言うと一蔵は悲しそうな顔をした。自分だって、自分だって離れたくない。けれどこれは仕方の無いことなのだ。彼は自分自身にそう言い聞かせる。


 彼は近くにいた使用人に、席を外すように伝えた。


「畏まりました、失礼します」


 そうして、病室にいるのは清良たち二人だけになった。




「御影。私は君に、伝えなければならないことがある」


 一蔵は改まった態度でそう言った。清良は首を傾げながらも、ゆっくりと頷いた。


「君も知っているだろうが、私には伊織という娘がいた。本当に明るい子で、優しくて、嘘をつかない良い子だった。だが病弱だったせいで、二十歳の時に亡くなってしまった。私はそれから何も考えられなくなり、今思えば塞ぎ込むような日々が続いた」


 一蔵は肌身離さず持ち歩いていた伊織の写真を初めて……初めて清良に見せた。


「これが、伊織様なのですか……?」


 彼女自身はあまり自覚が無かったが、伊織の外見は本当に清良と瓜二つだった。


「君とよく似た綺麗な顔立ちだった。違う所があるとするならば、伊織は弱かったが、君は本当に強い。諦めない芯の強さもある」


 驚いた顔をする清良を見つめながら、一蔵は話を続ける。


「私は君が思っている程善人ではない。君と一緒にいれば伊織との日々を思い出せると感じていた。御影は御影で、伊織は伊織。それが分かっているはずなのに、私は代わりを求めてしまった」


 伊織を喪った現実を受け入れたくなかった。必死に振り払おうとしても、彼女の笑顔が頭から離れなかった。


「その結果がこれだから、自業自得も良い所だな。私よりも伊織が長く生きるべきだったのに、私は時間を無駄に浪費してしまった」


 一蔵は先程見せていた表情とは違う、抜け殻のような顔を清良に見せた。何か考えているわけでも無く、文字通り空洞のような。


「私のことは良い。君は君のやるべきことをやり遂げて、兵庫県を救うべきだ」


 そして一蔵はその答えを待った。清良が自分を諦め、川田のもとへと向かうのを待った。だが、彼女は折れなかった。




「確かに私は川田を止めたい。しかし芦屋様を見捨てることなど、私にはできません」


 額に残っていた涙を蒸発させ、清良は一蔵の前でそう言い放った。


「たとえ無理であろうと、不可能であろうと、両方を成し遂げてみせます。私はとても欲張りですからね」


 清良のやるべきことは川田製作所を止めることだけではない。自分の力で川田を止めて、一蔵も救う。


「芦屋様。伊織様はきっと、芦屋様に笑顔でいて欲しいはずです、幸せでいて欲しいのです。だから生きる希望を捨てないで下さい。今の一瞬を大切にして、生きて下さい」


「もし、私が何の前振れも無く死んだらどうする、何も残せなかったら?」


 一蔵の声が震え始めた、病気は人の都合を待ってくれない。


「私がいます。芦屋様の想いは、私が必ず引き継ぎます」


 清良はもう迷わなかった。一蔵が本音を話してくれたことで、彼女はまた立ち上がることができた。


「私はもっと強くなります。だから芦屋様は、そんな私を見守っていて下さい」


 一蔵の手を掴む。そこには確かな暖かさがあり、今も必死に生きようとしている命を感じた。


「御影には適わないな。こんなことを言われたら、私も生きるしか無いじゃないか」


 一蔵は清良の手を握り返した。彼も再び、立ち上がろうとしていた。


「君のやるべきことをやりなさい、最後まで」


 それは先程のような後ろ向きの言葉ではなかった。戦いに向かう清良の背中を押す、頼もしい言葉になっていた。


「分かりました。今日という日が、平穏に進みますように」


 もう三十分程は話していただろうか。清良はようやく覚悟を決め、病室を静かに去った。




 神戸の谷上にある川田製作所の本部では、会長の川田燗信が新聞を読んでいた。


「もうすぐや。兵庫県を支配する準備は、もう整ったな」


 爆破予告の件は見出しの記事になっており、周辺の警戒も高まっていることが伺える。彼は新聞を閉じ、床に放り投げた。


「父さんが死んだあの時から、俺は川田を世界一の企業にすることだけを考えて今まで努力してきた。それがもうすぐ実る、楽しくて仕方がないやろ?」


 床に落ちた新聞を燗信は踏みつけた、まるで自分の力を見せつけるかのように。彼の後ろでは、多くの部下が戦いの時を待っていた。


「邪魔はありましたが、これでようやく長年の夢が叶いますね」


 燗信はゆっくりと頷いた。この瞬間を、彼は数十年待ち続けていた。


「このアホみたいな世の中は、俺がすぐに変えたるわ」


 部下たちは進みだした。全ては爆破予告にあった通りに、計画的に動いている。




 続く

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